アーシュラ K ル グィンのレビュー一覧
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前半は惑星ゲセンの中にあるカルハイド王国、並びにオルゴレインの気候や社会構造や街並み、そして両性具有であるゲセン人の独自文化や感覚、価値観等がたっぷり語られる。その世界観は独特で作り込みがされていて、造語も多いためかなりファンタジー寄りな印象を受けるが理論だっていて納得感と共に理解できた。
また、後半はエクーメンの使節である主人公のゲンリー・アイとカルハイド王国元摂政であり国内政治により追放の身となったエストラーベンの過酷な逃避行が描かれる。
同じ人類であれど、異種である2人の友情並びに愛がじっくりじわじわと育まれていくのは歯がゆいと同時に面白く、この2人の幸せを祈らずにはいられなかった。
ファンタジー寄りな印象で本の構造で神話や寓話の挿し込みもちょくちょくあり、若干読みにくかった部分はありましたが、良かったです。
特に後半の、エストラーベンの日記と主人公目線の話が交互に来て、ゲセン人との違いが明確に描かれるのが面白いのと、またシフグレソルという独自概念だったり、一から社会や文化を創造しているのがこの本の特徴であり、特に面白い部分だと思いました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ『闇の左手』(1969年)、『所有せざる人々』(1974年)、『ロカノンの世界』(1966年)、『辺境の惑星』(1966年)の順に読んで、3/4が厳しい冬の物語。
植民、ロミジュリ、科学の助けなしに発展どころか生存すらも困難であろう過酷な自然環境。ハイニッシュ・ユニバースは同じテーマで描くという志があったのだろうか。1990年代の小室哲哉の曲のように似てるので、間を開けて読んでも食傷する。最後に希望が差すが、状況が困難すぎてハッピーエンドには思えない。そのへんがアンチテーゼだったのだろうか。
ワイス&ヒックマンの冥界の門シリーズを思い出させる。念頭に置いて書かれたのではないかと思える。しかしテーマは異なる。ワイス&ヒックマンが語っているのは分断。1980年代終盤のアメリカで顕著になりつつあった社会の分断だと思える。
ル=グィンはなにを語ったのだろうか。
夢小説なきらいはある。家父長制的だが若い娘が自由に行動できる社会。
冷戦期に書かれたものだが、核の脅威は描かれていない。共産主義を盲信してはいないが礼賛している風はあり、なにを見ているんだかわからないところがある。創作のために都合の良い部分を抜き出しただけとみなしてよいのか。
五千日の寒冷期と五千日の非寒冷期を繰り返す惑星で、人類に似た生命が自然発生するだろうか。少なくとも三種。そう問うたとき、ハイン人のロストコロニーなのだろうという解に導かれるのは、説明を省いた著者の策か。後年の作品では明らかに語っているが、本作品では明示していない。
物語るために設定された世界で、物語の前や後がおざなりである。残された希望にすがる結末でありながら、前にも後にも世界に継続性が感じられない。投げっぱなしな印象がある。
残るは『幻影の都市』(1967年)と短編。 -
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ネタバレ両性具有の人類とはどんなものだろう。そして、彼らの統治する社会はどんな物になるだろう?性別という概念がそもそも存在しない世界、混ざりあって溶けている世界の常識や世界の仕組みは?本作は『冬』と呼ばれる閉ざされた惑星ゲセンで、両性具有の人類が作り上げた世界の様相と、その惑星の中で巻き起こる国家間の陰謀を描いている。
こう書くと随分壮大な話に見える。実際この物語は壮大な世界観を持ち、『両性具有の人類による社会』を丹念な筆致で描いているのだが、おそらく本作の本旨はその設定の重厚さにあるのではない。その両性具有の社会にやってきた私たちと同じく性別のある人類――惑星連合エクーメンの使節、ゲンリー・アイと、ゲセンにあるカルハイドという国の重鎮エストラーベンの相互理解に至るプロセスが主題なのだ。
彼らは全く違う。立場も生まれも人種も違い、生活リズムから『性』の様式まで、最早別の生き物という程に異なっている。作中、ゲンリーもエストラーベンも国家間を巡る陰謀と謀略に巻き込まれ、二人で凍りついた氷河と雪原の中を逃避行する羽目になる。
ゲンリーは当初カルハイドに趣き、そこの総理大臣職であるエストラーベンとのコネクションを得るが、エストラーベンは隣国オルゴレインに内通したとの讒言で国を追われる身となる。後ろ盾を失ったゲンリーは隣国オルゴレインへと逃げ延びる。そこでもエクーメンへ加入しないかと活動を続けるも、今度はオルゴレインの政争に巻き込まれる形で捕まってしまう。同じくオルゴレインに亡命していたエストラーベンは責任を感じてゲンリーを助け出し、彼らは共に無人の雪原を通り抜けてカルハイドへ逃げ延び、そこでエクーメンへの連絡を試みようとするのだ。
二人は共に雪原を乗り越える中でお互いの性状に対して理解を深めていく。テント内の温度設定に始まり、お互いの生活様式、精神性、身体機能、これまでの来し方、人生。人の意思などお構いなしな自然の猛威の中、二人が徐々に相互理解に至る過程は非常に丁寧で読みごたえがある。生まれ育った国どころか星すら違い、どころかある種私たちにとっては当たり前である『性別』という概念すらない(違う)相手との相互理解は可能なのか。作者の書きたかったことはこれなのだろうと思わされる丹念な筆致に引き込まれざるを得ない。
……のだが。どうしても読みにくいと感じる点も多い。例えば、そもそもここに至るまでが異様に長い。一つの惑星の中にある二国の政治体制や精神性、さらには『両性具有』が社会常識に及ぼしている影響、また二人が亡命に至る理由、その勝利条件などを説明しなければいけないからしょうがないのだが、それにしても長すぎる。話の本質と言えそうな部分が一切始まらず、この長々とした状況説明はいつまで続くのかとウンザリする気持ちがあったことは否めない。
また、雪原行も二人の相互理解に至る流れが丹念に描かれていて美しいのだが、これもやはり長い。雪原の光景やその恐ろしさ、彼ら二人の間に立ち塞がる困難、それらが執拗に描かれていて、話としてはただ歩いているシーンが延々続くのでぶっちゃけてしまうと結構ダルい。
最終的に困難を乗り越えカルハイドにたどり着いてからは話が急展開して面白い。エクーメンの宇宙船への無線信号を送付し、そこから話が急展開を迎える。二人の雪原行がもたらしたもの、種族や特性を超えた、ある意味『性別の関係ない、人類同士の間に生まれた純粋な愛』によるエストラーベンの行動は胸に詰まるものがあった。
これは他の作品では感じられない感覚だと思う。性別のある人種同士の関係性において、私たちはどうしても関係性の基盤に『性別』の影響を排除できない。『異性』同士の間に生まれる友情も、『同性』同士の間に生まれる愛も、結局のところ『性別』という前提があることは拭い去れないのだ。
だがエストラーベンとゲンリーの間に生まれたそれはなんと形容すればいいのか。異性の性愛、異性の友情、同性の親愛、同性の性愛、全部がある意味そうだし、全部がまったく違う。エストラーベンが異星の友人――便宜上こう表現するしかないが、友情という言葉だけで説明できるものでは無い――に対して誠意と敬愛から示した、自分の死すらも厭わない行為。彼の信仰(ヨメシュ教は自殺を強く非難している)をも覆した愛は、胸を打たれると同時に非常に興味深い。
ただそれでもやはりこの作品は上記の理由で読みにくいと感じてしまう。また、この作品はあまりにも性別に固執しすぎているようにも思える。地球人たちに見られる性別の区分け、『男は男、女は女』を強固に信じ、それによって生じる『価値』を信じているからこそ、ゲセンの社会を異物として強く書き出しているのだ。
両性具有というある種性別の消えた世界を描いておきながら、いやだからこそだろうか、作者の中に強固にある『性別という概念への信仰』じみたものを感じずにはいられなかった。
『どんな人間であれ、男は男らしく、女は女らしく見られたいもの』という作中の文言があるが、なんとなくここに作者の思想が漏れているような気もする。性から解放された人間たち(収容所でケメルという発情期を教える薬を投与されたゲセン人たち)に対して『恥じらいも欲望もないのは人間では無い』『だらしなくしまりがなく粗野だった』と評しているあたりも、作者の性欲や性別に対する信仰というか、『性あってこその人間』的な価値観を強く感じる。
それこそ最近の社会はだいぶ性別というものの価値が薄くなってきた。性欲にしても同じことのように思う。男と女が自然につがうのが人間の摂理というのは真実だろうが、同時にそれだけと断じるのは単に原始的で野蛮なだけでないか?と思えてしまう。それが生物として自然なのは当然なので否認する気は微塵もないが、仮にも理性を持ち繁栄してきた人間として、自然性に任せるだけが人間の本質などと認めることは理性の敗北宣言では?という気もしなくはない……。別に性欲や性別に左右されない人間だっているだろ、それが多様性だ、と思ってしまう。
その点から考えると、この作品はあまりにも『性別があることが正常』を前提に話が展開されすぎていて、今の時勢から見ると逆に違和感もあるのかなと感じた。少なくとも私は『この人性別にめちゃくちゃ重要な価値を感じてるんだろうな』と思えてしまった。私は正直『女は女らしく』で扱われると屈辱を感じる方である。性別ではなく私を見てくれよ。
面白かったしこの作品でしか得られないだろうという未知の感覚もあり、非常に面白い読書体験だった。反面、冗長や読みにくさを感じる面も多く、またそこに描かれている精神性には少し時代のようなものも感じられた。既にSFの古典であるからしてそれはしょうがないと思うので、ほかの古典と同じく当時の時代性を感じながら読めば面白いのではないかと思う。 -
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ネタバレル・グウィンが世に問うた最初の作品だそうな。
SFがFTに溶けてくカンジ。これまで読んできたル・グウィン作品の中では『ゲド戦記』の風合いが最も濃い。つまり、好みの部類ではある。
ハイニッシュ・ユニバースのシリーズは意図的に避けてきた。ル・グウィンを知った頃はFTにハマっており、その頃SFを意図的に避けていたのだが、その延長線上にあたるだけで他意はない。先立っては『銀河英雄伝説』のシリーズも通読していたので、それ系が苦手とかキライとかいうわけではないと思うが、なんで避けていたのかはよく覚えていない。以後、機会を失い続けてきた。
SFがFTに溶けてスペオペになった。クライマックスが超展開。ル・グウィンあるある、かもしれない。
そこを過ぎても文章に取り繕う風がないので読み味に違和感はないが、超展開があったことだけは刺さった棘のように気になり続けるので、読後感としては微妙である。 -
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ネタバレ"光は暗闇の左手(ゆんで)
暗闇は光の右手(めて)。" p.282
仰ぎ見るばかりだった偉大な先達に親しみを覚えたのは、二度目か三度目かの『シルマリルの物語』再読の最中だった。トールキン教授の稚気ともいうべき設定を見出して、あの偉大なる世界記述者にも厨二病があった!という喜びを覚えたのである。こちらのレベルへひきずりおろした昏い喜びではない。そういうこともあるのかという、自然現象、不変の真理の発見に近いかもしれない。
すなわち、厨二病は誰にでもある。違いは、公言するかしないかだけ。
厨二病を押し通して面白ければいいが、そういうことは稀であろう。そのようなものは、物語として公表するつもりのなかった設定、神話として公開されるしかなかった文章レベルのものであるべきかもしれないという天啓を得た。慎重に秘匿された厨二病成分はスパイスとして働くのではないか。
『闇の左手』再読では、ル・グィン女史の稚気を見た気がしたが、気のせいかもしれない。初読のときはものすごい好きだと思ったのだが、再読したらそうでもなかったので、どうでもよくなってしまった。
多様性の表現としては今なお見るべきものはあり、DEIというものがいかに在り様を歪めた利権主義であるかを教えてくれる一方で、SFとしては古びた観は否めない。古びた感じが残念だったのだと思う。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ解説を少し読んでゲド戦記の作者だったこと、そして女性だったことに気づく。
本書の舞台は非常に寒く、気候が厳しい惑星“冬”であり、その舞台設定だけでも興味がそそられるが、そこに住む異星人は両性具有という特徴を持つ。
このゲセン人の特徴による社会には、著者の女性ならではの感覚が反映されており興味深く、気づかされる部分もあった。
繁殖期(?)には女性にも男性にもなりうるため、直前まで伴侶と自分「どちらが妊娠するか分からない」ことで、妊娠・出産、子育てに対する性的な差別感覚がないことや、
繁殖期以外では第二次成長期前の子供のような性的状態に戻る(= 性からくる身体の変調から解放される)という発想は、現代でも(というより現代だからこそ)考えさせられる性別に関するテーマのように思われる。