ジョセフヒースのレビュー一覧
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非常に示唆深かった。
啓蒙思想の限界を指摘した上で、集団と時間を使ったバージョンアップを意図した著書だと理解したが、私は特に前半を興味深く読んだ。
近年日本では左翼的・リベラル的な思想や運動の価値が問われていると感じている。じっさい、多くの左翼的な主張は非現実的な理想論であることがおおく、どちらかというと左翼に同情的なわたしもうんざりすることが正直多いと感じている。
本書は左翼の衰退について主に問題としているが、私にとって、本書は、「じゃあ保守・右翼ばかりの社会でいいのか」ということを考えさせてくれた本だ。あきらかにそうではないだろう。断続的に左翼的・理想主義的・共和的思想は大きな変革をもたらしてきており、それはトータルとしては評価されるべきものだろう。
・・・この本の内容については、しばしば立ち戻って考え直してみたい。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ本書の中心的なテーマは、政治における右派(保守派)と左派(改革派)の根本的な非対称性
進歩的な社会変革は、複雑で達成しがたく、妥協、信頼、集団行動が求められ、膨大な量の「頭」を使わなければならない。それに対し、右派の運動は、直感的で感情に訴える方法で形成することができる。例えば、税金に関する政策に対して「皆さんが苦労して稼いだお金を政府は奪うんです!」といった直感的に誰もがイメージできる言説で大衆の賛同を得るような運動をイメージすればわかりやすいかもしれない。
本書は人間の脳がいかに合理的な思考を行うのが難しく時間がかかるか、従来の社会改革が人間の理性を過大評価してきたかを述べ、私たちの脳が得意なことと苦手なことを理解した上で、それでも人間は理性によって正気を取り戻すべきであるとし、理性を個人に求めるのではなく、人間の合理的な判断を促すような社会設計、制度設計が必要であると説く。
実際に政治家の発言やテレビのワイドショーなどは、インパクトのある扇動的な表現を繰り返し、多くの人の感情を揺さぶるように設計されているなと思った。本当は熟考型の議論こそが必要であるはずが、多くの人の心を動かし、政治的な票につなげるためには上記のようなやり方が最適解として実行され、SNSの浸透でその流れにさらに歯止めが効かなくなっているというのが昨今どこの先進国でも見られる現象であると感じた。
個人的には「学校とは、カリキュラムだけではなく、“社会環境”として機能している」という内容の箇所が印象に残った。著者は、学校は知識を得るための場所であると同時に、社会的な環境を提供する場所であり、 教室管理、読書課題、しめきり、テスト、成績評価は、集中力や計画性、目標達成に向けたセルフコントロールの不足を補うための外部足場であるとし、教室というリアルな場での対面の授業を評価している。オンラインによる授業スタイルが、コロナ禍を経て再び盛り上がりを見せているが、「授業を録画して配信することで、学校教育を届けることができる」というプロジェクトは、過去に完全に失敗しているとし、また独学者は、確証バイアスと陰謀論に陥りやすいということも述べている。これらは学校教育が子どもの理性的な思考の形成過程において必要な環境を提供する場であることの説明として説得力があると感じた。 -
Posted by ブクログ
結構な量の論述。
カウンターカルチャーの表面的な批判では決してなく、未来に対する理想を抱き、前向きかつプラグマティックに論を展開していく。
消費主義がカウンターカルチャーが生み出した側面である個性化や競争性を内包しつつ、現代まで大きく肥大してきたという隠された面にメスを入れるあたり頷かされた。
もちろん、カウンターカルチャーの文化左翼的活動がもたらした正の影響は否定し得ないし、自分が摂取してきた芸術を真っ向から否定する気はないが、この社会という枠組みの中でどのように個人性や自由を追求していくのか、その終わりのなさそうな永遠のテーマに、僅かながら思考する時間を作れて感謝感激雨嵐です。 -
Posted by ブクログ
自分は基本的にはルールを守る人間で、体制というシステムそのものに反抗を持つことはなかった。そんな自分でもこの本を読んでいるうちにうぎゃ~と痛いとこを突かれた気持ちになった。幼いころからジブリやガンダムやその他沢山の物語に触れてきたことによって、カウンターカルチャー賛美の価値観がいつの間にか自分に育っていたのだ。
この本はどちらかというと実際的なことに重心を置いて書かれているので(あたりまえだ)、作品そのものの価値にはあまり触れていないが、解説でそのあたりを拾ってくれているのでいつもは早川のSFを読んでいる人もある意味救われる・・・のかもしない -
Posted by ブクログ
「反体制はカネになる」との副題は挑発的だが、本書のキモはそこ(だけ)ではない。カウンターカルチャー(左派)の目指す理想と実現のための手段が乖離していることで、理想が実現しないばかりか現実的な改善からも遠ざかっている点が繰り返し力説される。著者はその原因としてナチによる大衆動員のトラウマを指摘する。個人を解放し自主性を発揮させればあらゆる抑圧がなくなりユートピアが到来するというわけだが、確かに抽象的空論(例えば渋滞問題に対して信号や標識を撤去し運転者がアイコンタクトで道を譲ることが提案されるような)が行き過ぎたことで、現在のアメリカの分断を生んでしまったとも言えるだろう。その意味で本書の警告はすでに時期を逸してしまったのかもしれない。
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Posted by ブクログ
カウンターカルチャーというものの思想と矛盾について深く理解できる本でした。あまり馴染みのないトピックなので始めはピンと来なかったのですが、読み進めると案外面白くて一気に読めました。
現代の人々は消費社会に組み込まれて抑圧されているので、そこから解放されるには、社会制度から逸脱した行動を取ってそれを破壊する。でもそれが単なる身勝手な犯罪行為を肯定するレトリックに使われてしまう。しかも皮肉にも、カウンタカルチャーは差別化の心理によって推進される消費社会にことごとく取り込まれてしまう。さらに、逸脱を正当化するために問題の原因を制度ではなく文化であるとする。そのため、破壊後に代替となる具体的な制度を提案することはない。
いちばん刺さったのが、途上国への海外旅行についてです。グローバルに均質化する世界の中で、他国は個性を保って欲しい。でも自国は便利で多様であって欲しいという矛盾。観光地化されていない本物感のある場所を訪れたいけど、訪れるといずれ観光地化する、だからさらに辺境を追い求めるという世界の「消費」の矛盾。現地の生の生活圏を歩きまわて観光するのは異文化の搾取だが、ツアー化されると本物感で一気になくなるという矛盾。全て身に覚えがあって心が痛いです。
結論は意外とシンプルでした。政府による市場の失敗の解消と、必要な時は自由を手放してルールを増やすということ。自分の主張が正しいかの簡単なチェック法として「人類全員がそれをしたらどうなる?」と考えることが有効とのこと。これはかなり使えそうです。 -
Posted by ブクログ
人間の脳は構造的に弱点があり、そのため常に非合理的な考え方が優勢になる。この仕組みを克服するのではなく、よく理解して上手く使おうという提案書。そうすれば、世にはびこる非合理主義、反知性主義(例えばトランプ主義者。本人たちは思想だと思っている)に対抗できるぞ、と。それがアップデートした啓蒙「啓蒙思想2.0」。
端的に2.0とは、「政治は外部クルージ(人間の脳の弱点を有り合わせの応急措置で解決する)を利用していこう」「他者からの啓蒙(コントロール)をどんどん使っていこう」ということ。「個々の人間が理性を高めて社会を向上させる」というポストモダンで個人主義的な思想は武器にならなかった。実際効力が無い。個人では弱くて戦っていけない。いっぽうで、集団で協力して非合理を無効にするのはかなり有効。問題に直面したら、非当事者からの冷静な理性的助言に頼り正気を取り戻す。そして別の機会にはその立場が逆転する状況も起こるので、その時はこちらが理性的判断を代行してあげる。
偏見・男女差別・人種差別は人間のもって生まれた性質なのか。残念ながら、人間は、内には連帯感を求め、外には敵がい心を抱くという自集団中心バイアスは、変えられない性質は持っている。しかし幸運にもこれは固定されておらず、グループのくくりが固まれば性別、人種にかかわらずどのような集団にもなれる。「○○社員」「シカゴ・カブスファン」など。
そして人種に注意ができるだけ行かないようにすれば、差別感情は低下する。典型的なのはアメリカのぷろすぽーつチーム488
肥満問題では外部クルージ(クルージは、場当たり的な、いいかげんな解決策)の有効性が実証された。アメリカでは肥満問題解決のため外食のカロリー表示が義務付けられたが効果はなかった。しかしニューヨークのブルームバーグ市長は470ml以上のソーダ販売禁止の法律を作った。悪法とか、無意味な法制とかの声が高かったが、これが有効だった463
学校の授業以外、合理的理論を身につける場は、おどろくほど日常の中に存在しない。ディナーパーティーでたとえ10分間でも相手の話に真剣に耳を傾ける人はいない。ましてや説明に1時間を要する話など、聞く人はいない。但し例外がある。それは本だ458
インフレというのは、人間の脳の弱い部分をなだめて経済問題を解決できるように作られた政策。「給料が下がる(名目賃金が下がる)」と言われると弱い部分はひどく動揺する。しかし給料は上がるがそれを上回って物価が上がること(実質賃金が下がる)には反応が鈍い。このような脳の仕組みを取り入れた経済問題の解決法がインフレ。インフレ政策は典型的な政治における「外部クルージ」である450
リベラル本の結論によくある「よく考えて、批判的になって認知バイアスを克服するのが大切。さぁ読者の皆さんも実行しよう、」というのは、理論は正しいがほぼ無意味。非合理主義をこの戦略で覆せる楽観論に根拠は無い439
環境保護論者は地球環境問題を否定する論者(基本的に右派)を「科学的コンセンサスを無視する愚か者」と罵るが、いっぽうで自らは「ワクチンの否定」「農薬の否定」「ホメオパシーの推奨」を同じ口で言う。その時都合の良いことに、右派同様にしばしば陰謀論を持ち出す338
マルクーゼの思想が支持されると、新たな申し子が次々に生まれる。その典型的な一人が「フェミニズム」だ。当初は男女の対等な「理性の追及」を目指し、それが達成されなかった歴史は、「女性の教育機会の無さ」つまり理性のゲームに参加させてもらえなかったのが原因とされ、その克服を目指した(ウーマンリヴ)。しかし理性の正統性が失われる「解放と自由」の時代になると、フェミニズムは理性と直感の対比論争の中で、直感を支持したくなる誘惑に駆られた。理性と直感の対比は、そのまま男の流儀と女の流儀の対比と類比され、戦争を生む男の流儀(正統性の疑わしい「理性」の象徴)よりも、それに対抗する女の流儀(すなわち「理性に対抗」するのだから「直感」に類比される)のほうが正統性がある、と主張されることになる(ラディカルフェミニズム)331
理性の申し子「科学技術」はユートピアを生み出すはずであった。しかし2つの世界大戦は科学技術が善ではなく、多くの人々を殺戮するものだと認識させた。これに対し、ドイツからアメリカに戦時亡命したヘルベルト・マルクーゼは、解放と自由を重視した思想を生み出す。科学・管理と人間の対立を、解放された意識で超克することで、技術は「芸術」に進化する、と提唱した。この思想は60年代のニューエイジに支持された。これが現代まで生き残っている「リベラル側の反合理主義」に繋がる。そして、時が経つとこの思想は、新たな科学技術も、自然と折り合う方法も、理想の人間社会も生み出さないことが解った。327
成功した迷信や神話は「一点だけ期待から逸脱している」法則がある。全てが期待どおりだったり、期待が複数外れていたりするものは失敗する。例えば幽霊は「物質ではない」ので壁や窓をすり抜ける(『リング』ではモニターまでも)。しかし「床をすり抜ける」だけはしない(重力の法則にだけは従う)。本来、物質では無い法則期待があるなら床をもすり抜けるが、そうすると宇宙空間を高速で移動する地球から取り残され、出現後一瞬で「幽霊に遭遇した人」から置き去りにされる286
文化(非自然なもの)の伝播はウイルスと同じ法則。狡猾で、拡がりやすく、駆除しづらいもの、つまり人間の弱点につけ込むものが生存競争を勝ち抜く。SARSが治まったのは、潜伏期感の短さゆえに流行を失ったから。また、近年エイズの死亡率が低下しているのは、致死性の高いウイルス個体より低い個体が優位に進化したからだと言われる269
社会は人の問題解決ヒューリスティック(経験則に則した大まかな正解)をわざと混乱させ、誤解を与えるためにデザインされたものに溢れている。最も典型的なのは洗濯洗剤のキャップだ。必要以上に大きく、メモリは内側に小さく書かれ、何の説明もない。色はブルーがかった半透明でメモリは見にくい。「太いコップに入れると少なく見える」錯覚を利用した極太の径。不注意な利用者はキャップいっぱいの洗剤を毎回使う。これらは全て「洗剤を必要以上に使用させる」ためのデザイン。平均的に使用者は必要量の6倍の洗剤を使う。このことで衣服の劣化を早めてもいる258
マーガリンが市場に出回った時、酪農協会は「マーガリンを青く着色する法律」を実現しようと運動した(青色は人間の食欲をそぐため)。これは実らなかったか、マーガリンを不自然なオレンジ色に着色することはかなった255
2011年猛暑のテキサスでは州知事のリック・ペリーは対策として「三日間の雨乞い」を発令した。その間石油の採掘を続けた。そしてその後大統領選挙に出馬した247
多の霊長類には無く、人間だけに備わった本能として「利他的な懲罰」がある。これは直感に関連するものであり、人類学でも近年認められつつある。自分に不利益が被ることがあっても他者を攻撃する行為。227
キース・スタノヴィッチは、「911陰謀論」「高度な占いを勧める隣人」「オーガニックに取りつかれた人」に「合理性障害」という疾患を名付けた212
「直感(無意識)」を賞揚する研究者たちがいる。しかし直感の最大の欠点は、それがどんなメカニズムで働くかを何も説明出来ないことである。そもそも直感とは、「どうして機能してるか解らない」という事実自体が本質となってしまっているものだ。177
理想の社会は、国や地域、集団によってまったく異なる形式であり、各々の歴史的修正の累積によって作られてきた。しかし西洋生まれの思想は、「民主主義の形は決まっている」という立場で、それを他国に強要する。このことで様々な逆効果が生まれている。しかも西洋人の間でも「民主主義の形はこうだ」と合意できていないのに。まったく図々しい141
哲学の歴史では「本能」「欲望」「直感」などは、「理性(道徳)」に劣るものとされてきた。近年になると「道徳(理性)」という存在こそ幻想であり、こじつけのインチキだということになった(ここまでが啓蒙思想1.0)。それが最新の脳科学では「理性」が思想や哲学ではなく、言語を司る機能の一部であることがわかってきた103
啓蒙思想をアップデートするカギは、どうやら人間の理性である。理性はきわめて自然に「反した」ものだ。これは私たちを自然状態(動物)から解放する可能性があるいっぽうで、そのプロセスはかなり難しい。なぜなら理性を生み出す脳機能は、偶然に備わったきわめて未完成で不合理なものだと科学的に解ってきたから。93
フロイトは無意識を「内なる子供」と表現したが、現代の心理学者は「内なる火星人」と表現するほうが適切だと考える。人は人間の思考回路より、むしろコンピューターの思考回路のほうが理解出来る。73 -
Posted by ブクログ
第二次大戦後、リベラリズムの中から生まれたカウンターカルチャーが世界で(特にその局地としてのアメリカで)いかに理想と解離してしまっていたか、そしてそれが社会に混迷と不幸をもたらしたか、を未来のために分析する書。
カウンターカルチャーとはルールや文化の変革なのではなく、ルールと文化の破壊そのものが目的である。破壊されることにより人々の意識が変わり、抑圧と戦争と貧困が解消される革命とされた。そして時代が進み、カウンターカルチャーは様々な呼び名に変化していった。エコ・スローフード・ローカリズム・ネット革命・ミニマル生活、その中心的思想は一貫して変わらない。大衆社会批判だ。
しかし実は、カウンターカルチャーそのものが混乱と不幸を作り出す元凶だとしたら?というのが最大の指摘だ。
結論は、文化運動や地域コミュニティ、あるいは地方自治体を中心とした変革活動ではなく、国家単位での法整備というもの(あるいは国家の価値)を少しでも復権させること。それと市場原理をむやみにに悪者扱いしないこと。というもの。国家のみが唯一世界的な合意、グローバル大企業への規制などを運用できるからだ。しかしカウンターカルチャーの半世紀以上の流行は、ある意味言われなき「国家への不信」「市場経済への反対」を抱かせ、これを困難にしている。これを理解し、さらに実行するのは、カウンターカルチャーの言説のように「解決策はこれだ!」とならない不断の思考と努力を必要とする大切な行動である。
20年近く前に書かれたものだが、古さを感じない。むしろ、2024年の今こそ本書の内容に共感する一定数の支持が得られるのでは?と感じる(例えばYouTuberの一連の事件は、もはや一部の応援者を覗き、改革者ではなく愚かな文化依存者として多くの人に思われている)。
カウンターカルチャーの習性は左派の政治に不利に働いた(著者は左派を応援している)552
「競争的消費」とはカウンターカルチャーが育てた悪しき習慣。妬みを起こさせるような差異の探求や、群衆のなかで目立つことが「自分は負け犬ではない」と証明する方便に駆り立てられる消費。そしてこれは終わりなき無駄なゼロサムゲームである546
オーガニック食材を買うことは倫理的行動ではない。オーガニックを選ぶ行為は環境や倫理の問題ではなく、「他者との差異を求めたい」と「良いことをした(根拠なし)」だ。ようするに意識高いイッピーの個人的快楽に過ぎない。最大の問題点は無駄が多いことだ。伝統農業や最新テクノロジーを使った農業は当然市場原理に基づいており、自然状態から最も合理的でエネルギーがいらない過程を取り入れている(言ってみれば真のエコ)。ここに否倫理的問題が起こる場合もあるが、これこそ法体系で規制していくべきである。
地産地消も問題がある。例えば港近くに住んでいれば、200キロ離れた場所からトラックで食材を運ぶより、地球の裏側から船で食材を輸送するほうが環境負荷が軽い。カルフォルニアの人たちがそこで育てたアボカドと米を食べるよりも、輸入したほうが環境負荷が低い。なぜならカルフォルニアは水資源が枯渇した場所だから543
スローフードブームはカナダで混乱をもたらした。年間4~5ヵ月しか農作業を収穫できないカナダでは、地域の食材が手に入らなく、真面目に実行すると保存肉かオートミールを毎食食べるしかない。そこでスローフード運動をしたい人たち(金持ちで飽食家で意識高い)が通う高級な料理学校はとんでもないアイディアに飛びついた。学校ごと南フランスへ移設した。講師たちは今や自転車で市場に出かけ生鮮食品を買っている498
インターネット創成期には「誰もが自由に自分の心情を表現できる。沈黙や体制への順応を強制される恐れはない。理想的な世界」とされた。しかし、他の人に強制し、嫌がらせし、沈黙を強いるために表現の自由を利用するものが現れるとは考えてなかった。悪い話は良い話を駆逐する491
「競争的転地」著者の造語。旅の魅力は知られていない土地や文化を自ら発見すること。それが観光力を生み、多くの人々に知れ渡り、観光地化すると、初期の発見者は不満を持ち、その土地に見切りをつけ新たな目的地を探すこと。子どもや老人やOLが挑むエベレストはもはや価値が無いと。
こういうエキゾチズムに夢中なカウンターカルチャー旅行者は地域を理解したい訳ではなく、真の目的地は「本物らしさ」「自分の純粋さを証明したい」だ。なので彼らはしばしば地元民の存在そのものが邪魔になる(地元民は往々にして商売的だし、現代社会人の負の部分が同じようにある。これに幻滅したくないから)。地元民との接触を避け、反対に自分同様の旅をしている仲間を求める。これがユースホステルが人気の理由であり、団体旅行が上手くいかない理由(個人個人その求める基準が違いすぎる)だ。これらの行動は結局地域を搾取し、負のグローバル化を招く。
唯一搾取などの問題を起こさない旅は、出張だ。これはお互いに利益を得ようとする純粋な行為だし、地域はそのために出張者を招くのだから。442
ネイティブアメリカンが地球や自然を大切にせよ、それらと共に生きよ、という所謂「母なる地球」概念は、カウンターカルチャーが近年作った言葉。70年代はじめにインディアンたちに受け入れられた。ネイティブアメリカン同士は殺戮や奴隷を行っていた435
多様性を保つには誰かが貧乏くじを引く408
「健康で自然で人道的」として高額で取引される「放し飼い鶏」。実状の鶏は、庭が放たれていてもそこに出て歩き回ることはほとんどなく、自らの意思で小屋の中で集団で固まっている。彼らはのびのびと歩き回るのを好まない389
カウンターカルチャーの影響を受けやすい学生。それが如実に現れるのは生徒の服装。最新のファッションを手に入れるため、また周囲に馬鹿にされない服装をするため、学生はアルバイトに大きな時間を割き、学業その他の時間は大幅に削られた。これは軍拡競争のようだ。また高額なファッション(最新トレンドは値段が高い)が手に入れらる如何によって格差が生じ、学生ヒエラルキー醸成の中心的原因になった。このことで学生生活は混乱し、校内治安は悪化した。
この解消のため制服制度を導入する学校が現れた。その成果は数値に現れ、暴力、性的非行、破壊活動、武器不法所持が改善した。
「脱制服」は学生の個性や自由思想、他者の尊重を生み出すことはなく、むしろ群れ意識を育んだ。実際には制服でも着方や、改造、アクセサリーなどで個性を出そうとするが、これは核拡散防止条約のようなものだ304
マイケル・ムーアは『ボウリングフォーコロンバイン』で結局銃規制に反対した。理由は銃を規制したところでアメリカの病的な心理を根本的に直せないから(理由として、隣のカナダにも銃が沢山あるのに銃犯罪が極端に少ないこと。だがこれはカナダにしっかりした銃規制法があるから。ムーアはわかっていてこのことに言及しない)。ここにカウンターカルチャーたちのイビツな心理が見て取れる。文化の革命的な変化を強く求めるばかり、「それ以下のものは拒絶する」。これこそ極端な反逆である248
社会の上位層と下位層は互いの趣味が我慢ならない。特に上位層は下位の趣味(映画・スポーツ・テレビ・音感)を軽視している。美学上の不寛容は恐るべき暴力性で、階級間を隔てる最も越えがたい障壁。上位があえて下位の趣味を消費する場合、「あくまでふざけてる」という態度でおこなう。これが「キッチュ」である222
カウンターカルチャーは消費主義を批判するポジションを取る。しかしこの半世紀、カウンターカルチャーは流行するのに、それに反して消費主義はどんどん高まっている。消費主義が強まるからこそカウンターカルチャーも強まるからでも、カウンターカルチャーの想像を越えて、国家権力の力が強大だからでもない。カウンターカルチャーそのものが消費主義の協力な要因だからだ。184
例えばパンクファッションの我が物顔がショッピングモールにいることは、70年代であれば異常な事として周りが反応した。しかし現在モールにパンクファッションがいても強い反応は起こらない。これは社会(政府)がこのカウンターカルチャーを取り込んで搾取するシステムを考え実行しているのではなく、「パンクが店内で放火して銃を乱射する」行為をするほどの奴らではないと時間を追って理解したから。単純な順応のメカニズムである180
現代では信じられないが60年代は、マリファナとLSDの普及によってすべての社会問題は解決されると信じられていた。戦争と貧困をなくし「平和と愛、そして理解」の社会が作れると127
60年代ヒッピーたちは「ドレスコード」という文化を倒すために髪を伸ばし、髭を蓄え、ネクタイを拒否し、ミニスカートを履き、化粧品を落とした。すると資本主義は売上げを高めるための「流行」としてすぐにこのファッションを売り出した。セックス・ピストルズが解散する前に、すでにロンドンでは服に刺す用の安全ピンが販売されていた87
「アーティストは主流社会と対立するスタンスをとらなければならない」という考えは18世紀に始まった。その最たるものはプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』だ60 -
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(資本主義・市場がかかえる問題を例示した後)「どちらのケースも、システムの問題ではない。問題はシステムに内在する抜け穴だ。解決は抜け穴をふさぐことであり、システムを廃することではない。」(p528)
「二十世紀の福祉国家の歴史は、市場の論理との一連の戦いというよりも、むしろさまざまな形の市場の失敗の克服として解釈されるべきだ。(中略)僕らは市場を廃止するのではなく完成させるように努めるべきである。」(p536)
概ね、近代経済学的な分析、それに基づく解決策を支持した内容。
ファシズムに至った民主主義的な手法への過剰な懸念へも、疑問を呈している。
「反逆」という手法は、派手だが、本質的ではなく、問題解決につながるものではないのではないか、という主張と感じた。
「結局のところ、文明とは、ルールを受け入れ、他者のニーズと利益を尊重し私利の追求を抑えるという僕らの意志のもとに築かれるものだ。カウンターカルチャーの理想への誤った傾倒から、政治的左派が、この文明の土台への信頼をやめてしまったことは悲惨きわまりないー歴史上に類を見ないほど、それが重視されるようになった、まさにそのときに。」(p539) -
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経済学の陥っている誤謬に左派も右派も踊らされ、いかに公共政策の失敗を犯しているかを指摘する。「経済は経済学者が唱えるような単純なインセンティブだけで動いているわけではなく、もっと込み入っている」、つまり経済学は、「科学的計算」を殊更に当てはめ社会性を無視した、理想主義的机上の空論だという主張だ。その切り口や例えはとても興味深い。
ただ本書の皮肉な言い回しや洒落た表現、また実直すぎて超訳を完全禁止した翻訳が、内容を理解困難にしている。著者は批判しているのか、賛成しているのか、どこに論点があるのか、それが解りづらい。
高級嗜好品に課税をすることにはかなりメリットかある。消費主義のステータスにはきりがなく、みんなが同じにステータスを上げる高級品を買えば相対的に全員ステータスはあがらない。そしてもっと嗜好品にお金を費やす。なので嗜好品への課税は消費主義ステータスの人にはインセンティブの問題が起こらない。U2は「RED」プロジェクトで既存のスニーカーやiPadなどにプロジェクトのデザインを施してさらに高値で販売。その収益の一部を福祉寄付にした。これは高級嗜好品課税と変わらないし、良いアイデアだ。企業や政府はこれをどんどん真似ればよい428
地球温暖化は、平等主義の福祉国家へ脱皮する途方もないチャンスだ。グリーン税は、その経済の効率という面たけでも充分正当化される。税それ自体にインセンティブ効果(二酸化炭素を減らすこと)により「採算がとれる」420
GDPは財の物理的生産高ではない、生じている取引の量だ328
「企業の存在意義はもっぱら株主へのリターンを最大化すること」は違和感。
企業は全般として利潤を生むことを目指す。、だが同時に事業を継承することを希望する。すなわち、社員に賃金を支給し、顧客を失わないようにし、仕入れ業者に支払いをし、銀行の貸付利子わ返済し、企業を倒産させないための数多い契約上の義務をはたす。株主への利潤分配は、実は最も犠牲にでき、企業が法的措置を伴わずに支払いを怠ることができる唯一の部門だ274
右派経済学者は「神の見えざる手」理論を持ち出し、「経済はまさに進化論の適者生存と同じように動く」と言う。しかし適者生存はそもそも種全体を必ずしも繁栄させないことがわかっている。クジャクの雄は種繁栄の求愛のため尾羽根を巨大化させる適者生存が起こった。しかし巨大尾羽根には鈍足や燃費悪が伴い、種全体の繁栄の妨げとなった。つまり適者生存(神の見えざる手)が国家や人間社会の繁栄に必ず適しているとは言えないし、むしろその障害になることもある63
あらゆる人が展開してきる経済的キャンペーンは、「もっと青信号を」という主張と同等。だれかの青信号は、他のだれかの赤信号だからだ41
嫌煙運動は喫煙者は喫煙が社会の医療費を大幅に棄損していると訴えるが、本当は逆だ。社会には原則があり「人は必ず死ぬ」ということ。喫煙の肺癌は基本的に治療不可だし、心臓発作はポックリ死ぬので安上がりな死にかた。喫煙者が喫煙していなければこの他の死に方をする。すなわち喫煙者は社会の医療費を大いに節約している。アナリストの試算では平均的なスモーカーは税引き前でもタバコひとはこあたり30セント社会に利益率を生んでいる32
1946年の経済学者ヘンリーハズリット以来、ほとんどの「大衆に経済学を分かりやすく教える」本の著者は遺憾だ。彼らは大衆の道徳意識や信念をただ「バカだ」と軽視する論法を戦略的にとる。これにより多くの人々が経済学を学ぶ機会を奪われた31
脱炭素社会に対する左派の矛盾。脱炭素を経済学をちゃんと理解して挑めばこうなる。
「多くの植樹を実現」するための最大の方法は「紙の消費を増やす」だ。紙生産が安定したビジネスならば市場は材料の木を植える。古紙リサイクルは脱炭素に背く。紙需要を減らすだけでなく、古紙を坑道跡に捨てれば、リサイクル作業による大気中への二酸化炭素放出も防げる。しかし左派は非論理的な理由をあげてこれらに反対する28
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Posted by ブクログ
NHKにジョセフ・ヒースさんが出演してて、トークが面白かったので著書を購入。かなり難解だが、1950年からの世相、政治、市民活動を俯瞰し、本質的なところを理解するために勉強になりました。ヒッピーやパンクなど、反体制・反資本主義を唱えて活動してきた人たちが、実は欲望を煽って消費を活性化しているという見方。差異のない平等の世界というのは、実は全体主義・監視主義の隣にいること。自然主義活動家の多様性を許容しない態度、など。現代社会などという大きな括りではなく、身近にも感じられる違和感は、世界的潮流・底流としても存在しているのだとみょうに納得。これからもそういう違和感を大事にしていこうと思いました。