その人はどのような人種的集団も代表していないので、その人自身を見ようっていう本。
最初は人種主義=レイシストってさすがに言い過ぎじゃない?と思いつつ、読んでいくと、なるほどある人種を褒めてようが貶してようが「〇〇人種って…」と言うのは、カテゴリーがデカ過ぎて結局「地球人って…」と言ってるのと変わらないのかもと考えが変わってきた。
そして、過激な急進的な言葉というのはどれくらい人の心を変えられたかで測り、保守的な言葉というのは人の心をどれくらい現状に維持させたかで測るという考え方は、とても納得が出来た。
p. 320
ぼくは黒人全体の代表ではなく、自分自身を代表しているだけだ。
もし”裁判官たち”がぼくの行動に基づいてその他おおぜいの黒人の評価を決めるのならば、問題はぼくではなく、黒人全体でもなく、彼ら自身にある。彼らがレイシズム思想をもつ責任は彼らにあり、ぼくにはない。ぼくにレイシズム思想があるとしたら、その責任はぼくにあり、彼らにはない。アンチレイシストであろうとすることは、ぼくがぼくであり、自分自身であり、不完全な自分であるのを認めることだ。
p. 331
大地を焼きつくさんばかりのぼくの激しい言葉が黒人学生連合の集会や会合から参加者を遠ざけ、大地を焼きつくさんばかりのぼくの激しい文章が読者を遠ざけたとき、ぼくはたしかに過激だった。
でも実際には、ぼくの言葉が単に過激(ラディカル)に聞こえるだけなら、その言葉はまったく急進的(ラディカル)ではなかった。
言論の過激さは、それが聞く耳をもつ人たちの心をどれだけ急進的に変えられるか、どれだけアンチレイシズムの力を解き放つことができるかで測られるのだとしたら?
言論の保守性は、それがどれだけ強く人々に現状を維持させ、そのレイシズム思想や恐れによって人々の心を奴隷化し、不公平な社会を保ちつづけるかによって測られるのだとしたら?
あのときぼくは自分がだれよりも急進肪だと思っていた。でも実際にはだれよりも保守的だった。