村中直人のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
叱ると言う行動をロジカルに、具体的に4人の体験談から解説してもらっている。
「叱る」とは、叱る人が支配&コントロールする一部の行為であり、叱られ側は防御する為にその場はその指示に従う。その行動が連鎖した結果、「依存」して続けた行動になる、と認識した。
私も感情に流されて「叱る」?怒る?
でも叱る側も、叱って気持ちが良いものでは無い、またあと味も悪いし、寝つきも悪い。叱るって、相手の成長を願うもので、一方的な罵倒ではない。やはり、お互いが話し合い理解して納得しないと、、、
イイ、悪いでは無いし、
企業経営ですと、勝ち残るため、お客様に満足していただく為かなぁ? もちろんわたしは、会社もスキップしながら、仕事もメチャ楽しいですが、、、
楽しく物事が達成できれば、他の目も外からの苦言も全部聴けるんだけどなぁ=(^.^)=
ちょいとズレてるかな(笑) 楽しい一冊でした
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Posted by ブクログ
このところろくに本を読んでこなかった。
Twitterで見かけてなんとなく気になって注文した、
久しぶりの紙の本。
厚さに圧迫感がなかったこともあって、
久しぶりにそのまま開いて読み進めることができた。
自閉症スペクトラム障害を切り口に、
(知識として知る)ことと
(仕組みや理屈から)理解することとの違いとか、
脳の話が絡むのはやっぱり面白いなあ…
そもそもこの手の障害とされるものの実態は、
何かの欠落や欠損ではなく
むしろ脳の処理方法の時点での違いによる
文化の差とでもいうべきものなのだ、
とか、
コンピュータでいうところのアプリの有無というよりはOSの違いによる差であるという例えとか、
それこそその仕組みも表出もスペクトラムなのであって、
私ら全員がその多様性の中身なのだとか。
現実問題としては
そんなにニュートラルな人間ではいられないだろうけれど、
ニューロダイバーシティという視点を
頭に入れておくことで、
もう少し世界とうまく付き合えるように
頑張れるかもしれない。
相手が小鳥や鈴であれば
「みんなちがってみんないい」は
むしろすんなり成り立つんだけど、
人間どうしの場合でもそうなるためには、
まず「みんなちがう」ことを現実問題として共有した上で、
じゃあ「みんないい」状況に
どうやって持っていくかを
きちんと組み立てていかないといかんのだよな。
ここで書かれていることは、
筆者も語る通り理想論なのだろうけれど、
もがいてでも到達する価値のある理想だと思った。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「叱る依存」という観点で、各界の著名人へのインタビューを行った著書です。
コルクの佐渡島さんとの対談もあり、気になって読破。
「叱る依存」というのは分かりやすいし、その問題点(自分で考えなくなる等)は分かる。
しかし、敢えて極論を書くと、動物は叱ったり躾けたりすることで、何かを学んだりする訳です。
もちろん、子供と動物を一緒にするのはどうなのか?という道徳的な問題はあるけど、
人もペットも野生的に振る舞って人間社会で生きていくことは難しく…。
理想論としては良い読み物だと思うものの、「じゃあ、どうやって育てるのが良いのか?」という疑問についての明瞭な回答はなく、読者に考えさせるような内容で、改めて子育ての難しさを考えちゃうな〜。
ヒントになる部分があるとすると「能力」より、「文脈」という、言わばシチュエーションの視点かな。
これはこの本を読んでの自己解釈だけど、いわゆる多動癖のある子供は問題視されやすいけど、大昔の狩猟民族時代では評価されたように、文脈やシチュエーションで能力の評価は変わると言う話。
それはさておき、自分としては、子供に「勉強しよう」とか言うだけでなく、背中で語るべきって思っているので、
自分や家族、子供のためにも、資格勉強しているんだけど、そんな日々に今回の本はどう活かせばいいんだろう?
こういう様々な本や思考という「点」がつながった時が面白いんだけど、今はその「線」は見えないな〜(・_・; -
Posted by ブクログ
私たちはどのような状態であろうとも、孤立することなく、社会や制度、そして、集団と関わることで、性別、国籍、肌の色、生まれ、環境等、障がいの有無を問わず本質的な意味での多様性を説く良書である。
多様性は一時期誤った解釈で捉えられてしまい、現代(2025)において、誤った解釈としての多様性は社会という大きな流れとして国内外で収束している。だが、それが残した摩擦と傷跡は大きい。
本著が主張する多様性とは一体何だろうか。その本質的な多様性は「全員が違いを許容し合う」だけでは成立しないという点であり、全員誰もに「違いがあること」を前提にし、時には妥協や線引きも含む現実的な共存の枠組みが重要だ。「認め合う」だけでなく、「違い同士の摩擦や矛盾」に向き合う姿勢が問われている。
そして、多様性という言葉の枠組み自体が新たな排除や暴力性を生み出す場合があるため、「多様性を『認めない』立場の排除は真の多様性ではない」など、内包的で構造的な問い直しが必要だと私は理解し解釈している。
現代において、多様性という概念が形骸化・逆風にさらされている今こそ、安易な価値判断やラベル付けを脱し、本質的な「違いの活用」「環境の変化」が問われているという点で私たちに新たな視点と問いと思索を深めることができるだろう。
私は目に見えることも目に見えないことも自分や他人のことを全てを許容し完全に理解することは不可能だと思っている。だが、それを知り、私やあなたの手が届く範囲で寄り添い、無理をしない、負担を強いない距離でいられるのであればそれは健全な距離感と言えるだろう。無論、これは私的な話である。職業的で専門家においては、積極的に関わる姿勢が重要であろう。
これは他人事ではなく、私やあなたという個人への尊重を兼ねた内容ということを理解するとより内容を深く理解するであろう。本著は多様性とは何かを知る切っ掛けと思索を巡らせて問い続けるために必要な良書であると言えるだろう。 -
Posted by ブクログ
村中氏の前作、『〈叱る依存〉がとまらない』を読んだものの、現実的に叱らないようにするのって本当に難しい。と感じていた。なので漆塗りとして本書を手に取った。
叱りが止められないのは子供が実際に叱られる原因となる行動を繰り返しているというのが原因の一つで、そのまた原因は、こちらの前回の叱りや教えを全く学べていないということで、これは即ち前回の叱りに意味が全くなかったことの証でもある。
自らは忘れてしまった過去の子供心を、子供から学ばなくてはならない。そしてそれは、子供の気持ちを聞きとり、寄り添うことなしには成し遂げられない。
そしてまた、自分が叱らずに子供の行動を改善させられる他の術を身に付けられていないというのも大きな問題。これらをどうにかせんといかん。
本書ではスポーツ指導の現場やビジネス現場なども叱る場面として登場する。
基本的に現場は異なれど構図は同じ。原理を知れば応用が利く。
事実、SNSでの炎上というエピソードも出てくる。
最近私は私生活において、親戚から子育てや我が家の信仰、お金の管理方法、夫婦関係などについて突っ込んだ介入を受けて揉めたのだが、こういった親戚関係などでも、まったく同じようにこの構図が当てはまる。
叱らずにはいられない人の性や、叱られると防御モードに入って学びの回路がシャットアウトされるというような生理的な仕組みを知ると、親戚関係やSNSなど、あらゆる場面での外野による干渉によるストレスを軽減できるように思う。
ま、そうはいっても無用な干渉に合うことは時間を奪うだけでなく、心に少なからずやり場のないダメージを負ってしまうものなんだが。
となると、自分が出来るアクションとしては、
一つは余計に叱られない、ないし叱っている場面に遭遇しないよう、依存者から距離を取るように意識すること。
もう一つには、自分が加害者とならぬよう、自分の依存性と叱ることの無意味さを頭に徹底的に沁み込ませることに尽きる。
本書でも複数回出てくる、「社会から変える必要がある」というのも、重要なポイントである。叱ることに意義があるような勘違いを無くすための構造的な改革のために出来ることは大小のコミュニティで可能になるだろうし、その模範として本書を読んだ私が行動で示していかねばならない。
また「叱ること」に限らず、あらゆる依存は苦しみから逃れるための服用がきっかけであることから、根本となる苦しみ自体を減らすというのもまた改めて必要なことになる。これは規模としても質としても簡単なものではないが、そのバックボーンを理解せずに他者の意識を変えることも、社会の構造を変えることもまた難しいのが事実。
叱ってしまう人の内在論理を読み取って、叱らずに諭せるような意識、徳、技術を少しずつ磨いていこうと思う。 -
Posted by ブクログ
教育界、スポーツ界、ビジネスの現場、そして家庭で”叱る”という行為と結果について、疑念を抱いた人と著者との対談集。
だいたい納得いくし、叱らないという行為を選ぶことには偉いなと感心するし、本人の自己決定意思がない限り、叱る行為に意味がない、ということも同意する
叱っても意味がないから叱らない、本人の自己決定意欲を引き出す。教育、スポーツ、ビジネスにおいて、結局他人の人生に責任を持たない立場になれれば、叱らずとも問題は発生しない。事前の対話が大事、フィードバックが大事という方向で解決を目指すのであろう。
スポーツ界は怪しいが、教育、ビジネス界も叱るという行為に関しては、かなり否定的になっているので、環境改善のための理論武装の一旦となりうる。
ただ、親子関係のように、単純に見切ることができない相手で、対話が成り立たない状態のときに、叱らずに済ませられる聖人がいるのだろうか。
コルク者佐渡島氏のように、子供が不登校だからといって、本人が気づくのをただ待てるほど、人は強くない。親もただの人間。 -
Posted by ブクログ
「叱る」
処罰感情、確かに
相手をコントロールしようとする、確かに
気持ちよくなる、確かに
私たちは、何のために「叱る」のか
自覚的でなければならない
子供のためとか言って
自分のために叱ってることあるよね
一方、教育は
社会の中で生きる人を育てる行為なわけで
期待や、求めるものはある
全てを子供の自己決定に委ねるのではなくて
自己決定までの過程に
プラスの作用を及ぼすのが
私たちの役割
それを「叱る」と定義する人もいるかも
ネガティヴな感情、
苦しさ、辛さ、我慢と
成長との関係については
エビデンスが足りないと感じる
それこそ環境、文脈によって違う
程度によっては、必要かな