フレデリック・グロのレビュー一覧
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何を期待していたのか、読みはじめてすぐそう思った。歩くという哲学なんだから、歩くことがテーマでありその通り…のような内容。
少し進むとなるほど、哲学者の歩いた日々を著者がピックアップしたものだ。
哲学の本は読んだけど、ランボーは知らなかった。そこでCopilotとの会話でランボーは映画のランボーじゃなかったと伝えたらCopilotに面白いと言われた。
ランボーは知らない人だったけど、歩くという運命がたくさんのシーンで見られた。そして理解者にも恵まれたが、歩くことに突き動かされるように義足を使ってでも歩くことを望んだようだ。普通の人なら義足なら外に出ることも長く歩くことも難しいと諦めてしまうんじゃないか。読みながらすごく興味を持ったしランボーすごいと感心した。
そして知ってる人ニーチェ、この人も歩くことで書くことができたようだ。カントのように気晴らしの歩くではなく、セットのようなんだろうな。
最後に、この本は山と渓谷社という出版社からである。とても良い名前だし、この本のタイトルにピッタリ。 -
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最近仕事忙しすぎて深夜徘徊にハマってる限界サラリーマンの自分にはド刺さった。
・急いでいる時、時間はどんどん速くなる。時間が飛び去る、ということは、急いだその時間のために、結局、一日の長さが短くなるということだ。
・仕事をし、キャリアの機会を逃さまいと気を抜かず、人のものを自分のものにしたくなり、スピードアップをはかり、人がどうしているのかを気にかける。いつも、いつも、そうやって何かをしているけれど、存在はしているのだろうか?
・歩くことは時間の無駄であり、浪費であり、いかなる利益も生み出さない、死んだ時間だ。
だが、わたしにとって、私の具体的な生にとっては確かに益がある。 -
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フレデリック・グロ
1965年生まれ。パリ政治学院政治思想学教授。パリ高等師範学校(ENS)に学び、1999年にフーコーについての研究によりパリ第12大学博士号を取得。『歩くという哲学 世界を動かした小説、詩、哲学は、歩行によって生まれた』より
「ソローは朝を信じている。というよりも、朝は人に信じさせる力を持っていることを知っている。歩く時には、世界の誕生に寄り添えるように、明け方に出発すべきだ。まだ青い時刻には、自然の鼓動が感じられ、我々の意志など何ほどのものでもないということが感得される。意志することとは、寄り添うことの対極にあるからだ。朝に歩く時は、急に回れ右をしたり、何かを決意したりすることなく、ただ一歩一歩、朝を追いかけるだけだ。一日が始まるということは、とにかく間違いのないことなのだから。もうすぐ日が昇り、すべてが始まるだろう。どれほど厳粛で声高な改心の決意も、たいていは脆いものだ。一日というものは、決して一大決心のようには訪れない。朝に歩いてみると、意志の力によらない、自然な始まりの力を知ることができる。」
—『歩くという哲学』フレデリック・グロ著
「そう、「歩く者」は、王者なのだ 88。大地が彼の領土である。「必要なもの」をひとたび獲得した者は、もはや不足を感じることはない。なぜなら、それはどこにでもあり、誰もに属し、かつ、誰のものでもないからだ。そこから、究極の逆転が生じる。豊かさが貧しさに、貧しさが豊かさに転じる。」
—『歩くという哲学』フレデリック・グロ著
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フーコーの最後の主著の最終巻が死後30年以上たって、ついに出版され、日本語で読める。これだけで、⭐️は5つは決まったようなもの。
「性の歴史」の1巻の「知への意志」で提示されたいわゆる「生政治」「マイクロポリティクス」などなどの概念と「性の解放」に関する言説の分析の鮮やかさは、圧倒的であった。
この話しが、どう展開するのか、期待していたところにでてきた2〜3巻は、なぜかギリシア、ローマ時代の話になって、一般的な性の歴史の記述としては興味深くあるものの、フーコーに期待していたものとは、ちょっと違う感じ。語り口も、なんだか平易で、淡々としていて、死を目の前にしたフーコーの最後の枯淡の境地かな?みたいな感じで、ちょっとはぐらされた感じがあった。
その後、コレージュ・ド・フランスなどでの講義録がでてくることで、76年の「知への意志」以降のフーコーの思考プロセスの一旦を知ることができ、ギリシャ、ローマ時代を検討していくなかで、フーコーが「主体」というテーマに関心を移して、スリリングな思考を繰り広げていたことがわかってきた。
それでも、結局、「性の歴史」はどうなっちゃたのかというのは、ずっと気になっていた。
それが、日本語で読めるのだから、これはやっぱりすごいこととしか言えない。
さて、内容であるが、正直言って、最初の100ページくらいまでは、ちょっと退屈な感じ。2〜3巻でのギリシア、ローマ時代における性の記述もそこまでエキサイティングなものではなかったけど、それでも、ヘ〜この時代はそんな感じだったんだね〜という興味はわく内容であった。が、キリスト教的な禁欲性が強まってくると、ギリシア、ローマの延長的なところもあるのだけど、読んでて、なんだか辛くなってくる。
それでも頑張って読んでいくと、「処女」「童貞」の話しになって、いわゆる夫婦間の性行為の関係の議論に展開し、徐々に話は面白くなってくる。
そして、最後は、アウグスティヌスの議論に流れ込んでいって、ここは、なんとも感動的というか、さすが、な展開。
細かい議論は、省略するが、ここではアウグスティヌスによる人間の「意志」ということ、そして「リビドー」といった概念についての議論が展開されていく。
なんとアウグスティヌスのリビドー論が、第1巻で議論されていた精神分析の話しに10数世紀を跨いで、繋がっていくんだ。
第1巻での議論が、こんな形で回収されていた、まさにここで「性の歴史」が完結したのだと感銘をうけた。
そして、アウグスティヌスの議論は、多分、ハンナ・アーレントのこれまた未完で終わった「精神の生活」の議論にも繋がっていくし、中動態、つまり文法的な主語=主体の問題にもつながるはずで最近の関心事にもずばり当たってしまった感じ。
まだまだ、理解できていないことも多い。第1〜3巻も含めて、読み直ししつつ、もう少しこの世界に浸っていることにする。仲正さんの「講義」も時を同じくして、出ていることだし。 -
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ミシェル・フーコーの「性の歴史」第4巻が出たという事実をネットショップで発見したときは本当に驚愕した。「性の歴史」1巻から3巻については、今から30年も前に、20歳辺りの私が大事に読み返し、ことに第1巻は何度も何度も再読した当時の愛読書だったのである。フーコー自身の死によって未完の書物として打ち切られたものと思っていたのに、その続刊がまさか今になって発行されようなどとは、夢にも思わなかった。
本書の訳者解説を読んだところ、フーコーは死ぬまえに、未公刊の遺稿は勝手に出版しないように、などと指示していたということだろうか。それがよくわからぬ経緯によって2018年にフランスで結局刊行され、邦訳が昨2020年12月に出たのである。
本書「性の歴史」第4巻は、フーコーの死(1984年)の時点で既に書き上げられており、もうじき出版の筈であったそうだ。従って、本書はメルロ=ポンティの遺稿メモをまとめたようなものとは異なり、完全に記述された完成した書物である。
読んでみると、この第4巻こそが「性の歴史」のシリーズ名にふさわしい、と思わせるものであった。
3世紀から5世紀辺りの、初期のキリスト教のテクストを探索して、処女・童貞性とか結婚とかの概念の形成をとらえてゆこうとする。「文献学者」であったニーチェにヒントを得たと思われるフーコーの得意の「考古学」の手法である。
西洋文化の初期において自己および他者をいかに管理しようとしたかが探られているようだ。
この原初の状態の把握によって、実は現在の社会の諸事象に対峙するための知を得ようとしているのだと理解したい。
とはいえ、これは3ー5世紀の西ヨーロッパのキリスト教関係の言説プロセスを追うという極めて限定的な仕事であって、そうした「知の原初的形態」としては、フーコーが手がけなかった中国史、インド史、あるいはまた別の文化の歴史・・・といった膨大な各領域において探究が残されている筈だ。
こういうのを読むと、セネカなどもフーコー風の読解法で読み込んでみたくなってくる。と同時に、「性の歴史」の1巻から3巻もまた読み返したくなったのだった。 -
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ひたすら偉人たちにとっての歩行が成した意味、について書かれていた。
歩くということに焦点を当てて描かれている本は読んだことがなかったので、貴重な読者経験だった。
だけど、哲学かと言われれば哲学ではない気がする、?。伝記に近い。
以下抜粋
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多様性への憧れと十字路の誘惑。歩くことの喜びとは、ひとつの美の誘いから、別の美の誘いへと自分を移ろわせることである。ある道を曲がる気が起こるのは、その道が他の道とは似ていないはずだという漠然とした予感によるものだ。
「利益」と「益」の違いは次の点にある。「利益」をもたらす行為ならば、わたしではない他の誰かによってもなされうる。その誰かは、その行為を行なうことによって、利益を手にするだろう。
となると、先を越されまいとして、わたしは急ぐ必要が生じる。それが競争原理だ。一方、「益」をもたらすものとは、誰かに肩代わりしてもらうわけにはゆかない行為だ。選択のためのよき基準は、「わたしの代わりにこれを誰かができるだろうか?」と問うことだとソローは書いている。そして、誰かに代わってもらったらまるで意味がなくなること|生きること、歩くこと、愛すること、楽しむことーこそを率先してやるべきなのだ。
その繰り返しは機械的ではなく、不毛でもない。撫でることは、呼吸のように、それ自身から養分を得て、それ自身の中に、その運動を繰り返すための資源を見いだす。撫でることは、確かにひとつの探索の動作ではあるが、そこで求められているものは、もっと遠くを探すための糧だ。そのために必要な条件は「急がないこと」である。ゆっくりと、急がないことによって、撫でることは、表面を深く探索するためのひとつの技法となる。
本に親しむことで可能になるのは、自らを燃料として自らを完成させてゆくことだ。その時期がくれば、とプラトンは言う、炎がランプの油を燃料にするように、思考は魂を燃料にして燃え上がり始める。そうなればもう、ひっきりなしに灯志に着火してやる必要はなく、炎はいつまでも明るく輝いている。思考が魂を燃料にできるようになったからだ。そうなれば、もう書物を取り去っても、哲学の火は消えない。 -
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ネタバレ『歩くという哲学』は、フレデリック・グロが「歩く」という行為を通して人間の思索や創造、自由、孤独、社会的実践など多様な側面を掘り下げる哲学エッセイです。著者は、ルソー、ニーチェ、ソロー、ランボー、カント、ガンディーなど、歴史的な思想家や詩人たちが歩行をどのように捉え、人生や思想にどう位置づけていたかを豊富なエピソードとともに紹介しています。
本書の魅力は、「歩く」という一見単純な行為が、これほどまでに多義的で奥深い意味を持つことを鮮やかに示している点です。ルソーにとっては歩くことが思索や創造の源泉であり、ニーチェは身体の動きと自然との一体感が偉大な思考を生む条件だと考えます。ソローは森を歩くことで野生や自由を取り戻し、ランボーは放浪と自己放棄の中に自由を見出します。カントは規律としての散歩を重んじ、ガンディーやキング牧師は歩くことを社会的実践や連帯の象徴としました。それぞれの歩行には、個性や時代背景、思想の違いが色濃く反映されています。
また、著者は歩くことを単なる運動や移動手段としてではなく、自己との対話、世界との新しい関係の発見、時間や存在の再発見の契機として捉えています。現代社会の「速さ」や「情報過多」に対するアンチテーゼとして、歩くことの持つリズムや偶発性、自己再生の価値を再評価する視点は、日々忙しく過ごす私たちに新たな気づきを与えてくれます。
翻訳も丁寧で、フランス語特有のニュアンスや哲学的な用語の訳し分けに工夫が凝らされています。訳者あとがきでは、marcherやprésenceといったキーワードの訳語選択に迷いがあったことが語られ、文脈ごとに最適な日本語を探る苦心が伝わってきます。哲学書としては平易で詩的な文体も魅力で、難解さを感じさせずに深い思索へと誘ってくれます。
私自身も定期的に長時間のウォーキングを習慣にしており、歩きながら独り言を録音し、AIで分析するという現代的な「歩く哲学」を実践しています。歩くことで思考が整理され、新しい発想や自己との対話が生まれる体験は、本書で語られる歩行の効用と深く重なります。人間の脳や知が「移動」と不可分で進化してきたという進化論的視点も、個人的な実感とよく響き合いました。
「歩くこと」と「考えること」は本質的に結びついており、動かない知には何かが欠けてしまう――そんな直感を、本書は多くの実例とともに裏付けてくれます。忙しい現代人にこそ、歩くことの哲学的な意味を見つめ直すきっかけとしておすすめしたい一冊です。 -
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ここまで、ナメクジが這うように膨大な時間をかけて、断続的に『性の歴史』全四巻を読んできたが、残念ながら僕にはフーコーが何を言いたいのかピンと来なかった。というか、はっきり言ってつまらなかった。
ということで、以下の感想はほとんどの人にとって何の参考にもならないだろう。/
フーコーが何を言いたいのか分かっていないのだから、批判などできようはずもないが、それでも若干の不満が心に残った。
フーコーは、本書で「欲望の解釈学」を展開するにあたって、2〜5世紀のキリスト教教父たちの文献を分析しているが、それは何故なのだろう?
世界にはたくさんの宗教が存在し、その構成は次のとおりだ。
1. キリスト教:約24億人 (世界人口の約32%)
2. イスラム教:約18億人 (世界人口の約25%)
3. ヒンドゥー教:約11億人 (世界人口の約15%)
4. 仏教:約5億人 (世界人口の約7%)
5. 無宗教:約12億人 (世界人口の約16%)
もちろん、フランスではキリスト教が一番多いだろうが、世界的に見れば、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教などの歴史の分析も必要だったのではないか?
あるいは、旧ソ連や現代中国の社会主義や共産主義国家における状況だっておさえておくべきだったのではないか?
フーコーは、次のように書いている。
【真理の義務は、信仰として、そして告白として、キリスト教の中心にあるということだ。「コンフェッション」という語の伝統的な二つの意味〔罪の告白と信仰の宣言〕は、そうした二つの側面をカバーしている。(略)
もちろん私は、キリスト教において信仰として理解された真理の義務の問題は脇に置いたままにして、告白として理解され、過ちと救済のエコノミーにおいてその効果を得る真理の義務のみを考察するつもりである。しかし、それら二つの側面のあいだの関係は、絶えず思い起こされねばならないだろう。そしてそれはまさしく、過ちについて「真を語る」ことが、キリスト教において、罪の告白を求める宗教(略)の大多数に比べておそらくはるかに重要な位置を占め、いずれにせよはるかに複雑な役割を果たしているということを、常に強調する必要が生じるであろうからだ。少なくとも、ギリシアおよびローマの宗教と比べて、キリスト教は、その信者たちに対し、自分自身について「真を語る」という義務を、その形式においてはるかに高圧的なものとして、その内容においてはるかに多くを要求するものとして課したのである。
そうした「真理陳述」の新たな諸規則を通じてこそ、キリスト教において肉に関して語られたことを理解しようと試みなければならないのだ。】/
フーコーはギリシア、ローマとは比較したと言うが、それならイスラム教やヒンドゥー教はどうなのか?
キリスト教だって数多の宗派があるだろうし、それらの教義は千差万別なのではないか?
世界の戦争や地域紛争の多くが宗教に起因している中で、たかがヨーロッパだけの宗教の歴史を分析して、これが(世界の)『性の歴史』ですなどと、フーコーにだけは言ってほしくなかった。
同じくフーコーの『狂気の歴史』は「古典主義時代における」との限定がつけてある。
今回も同様に、「初期キリスト教における」という限定をつけるべきではなかっただろうか?
ほらほら、おじいちゃん、解説読むのまた忘れてるよ。
「キタ――(゚∀゚)――!!」
だから、そこじゃないって! -
Posted by ブクログ
本書では山や森を歩くことから、街中の移動、公園の散歩、政治的なデモ行進、聖地巡礼まで、様々な活動スタイルが取り上げられています。
そして、ランボーやルソー、ネルヴァル、ニーチェ、ソロー、ガンディー、キルケゴール、カント、ヘルダーリン、ソクラテス、プラトン、ボードレール、ワーズワース、プルースト等々、世界に影響を及ぼした思想家や作家たちが、どのように歩いたか、歩くことによって、そこから何が生まれたか、という話を交えながら、著者自身が歩きながら何を感じ、どのような思考を巡らせているかということが綴られています。
歩くというのは単純な作業です。片方の足を出し、つぎにもう片方の足をさらに前に出す。その繰り返しです。無意識にできることです。
幼子もある時期が来ると、自ら立ち上がって歩き始めます。歩くことは本能なのです。
著者が歩く理由は、自分を取り戻すため、自分を見失うため、遅さを楽しむため、他者に対しても、自己に対しても、自分を空いた状態にしておくため、さらには、ある種の疲労感を味わうためだそうです。
自分も歩くことが好きなので、良く歩きます。街中を歩くときは速足で、野山や公園を歩くときはゆっくりと、意識的に速度を変えています。
自分にとって歩くという行為は、あえて言うなら精神を解き放つことであり、自身と向き合うことでもあります。自然の中を歩くときは、外の世界と自分の内側にある世界を、無自覚なまま融合させているような気さえします。
歩くという行為は孤独な作業です。自分があきらめてしまっては、もうそこから先に進むことができなくなるのですから。歩くことは自分と対峙すること、自身との関係性を深めることです。孤独という言葉は、ネガティブに受け取られがちですが、けっしてそうではありません。
人生は自身との語らいによって形成されるものです。もちろん、他者の言葉や行為に影響を受けることもありますが、それが正しいことかどうか、受諾すべきかどうかということは、自身との語らいによって判断しなければなりません。人は所詮、孤独な生き物であるということを、むしろ積極的に受け入れるべきだと思います。孤独とは自由であり、自然に身を委ねることなのですから。
人類は直立二足歩行を手に入れたことで、世界を広げ、思考を深めることができるようになりました。歩くという行為が、人を人たらしめているのです。
自分も含めて、現代人は時間を気にしすぎ、時間に縛られています。よくよく考えてみると、何をそんなに焦っているのか不思議に思えてきます。答えはすべて自然の中にあると気づいているのに。