松本敏治のレビュー一覧
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ネタバレ発達障害大全で紹介されて見た。面白かった。弟が自閉症でわたしもASDだが、確かに弟は方言を話さない。聞いたことがない。結論から言うと言語習得の方法に違いがあるためであるが、弟もアニメやラノベや小説のゲームばかり見ていた。(今も)そこで言語や、コミュニケーションのパターンを習得していたのだろう。自閉症の人は聴覚処理より視覚情報の処理の方が得意な場合もあるので、テレビや漫画など図示されているコンテンツは相性がいいのかも。自分の好きなシーンを振り返ったり、繰り返して観察することもできる。だから言語の学習教材として、わかりやすいのだろうと感じた。
また、わたし自身も適切な場面、相手に合わせてのコミュニケーションが苦手で、方言が出てしまったりする。相手に合わせて使い分けることが昔から困難で悩みでもあった。今回この原因がわかったのでスッキリ。これは脳の特性で、努力してもどうしようもないっちゃない。 -
Posted by ブクログ
自分自身、昔から「変わってる」「独特の完成を持っている」と周りから言われ続け、そして27歳になる直前にASDの傾向がもしからした自分にはあるのかもしれない、と思った時にこの本に出会いました。
津軽弁を話さないASDの子供たちの背景にある、他者の意図を理解することが難しい、という筆者の研究が自分の幼少期にも1部当てはまっていたことを実感しました。
考えたこととして、自分含めこういった子たちが学校の授業を受けるというのは本当に苦痛でしかないんだろうなというものがあります。紙ベースでの学習については定着しやすい一方、授業者が前で意図をもって講話する形式の日本の授業スタイルは本当に正しいものなのでしょうか。 -
Posted by ブクログ
津軽地域で乳幼児検診にかかわる著者の奥さんの「(お母さんはバリバリの津軽弁なのに)自閉症のお子さんは標準語でしか喋らない」」との噂話に「じゃあちゃんと調べてやる」と宣言し、「自閉症と方言」について研究を行う。自閉症と方言は発音の問題(先行研究多数)と断じていたが、その結果は著者を驚かせるのに十分すぎるものだった。
まず、津軽地域での研究では、自閉症(以下ASD)児は方言を発する頻度が目立ったが、著者はそれを「ASDの発話にみられる独特のアクセントやイントネーションは、方言を多用される社会では方言を使わないという印象として捉えられるのか。それは現場感覚なものだろう。妻の言うことも一理あるかも」と、率直な感想を抱いた。
だが、著者は「津軽弁(方言)を話さない=自閉症」という誤った図式が定着してしまわないよう、丁寧に研究を進めている。
津軽(青森県から全にわたって研究を行うのであった。方言について、ASD児が方言を獲得する過程についても丁寧な研究が行われており、当事者や当事者家族のみならず、TD(定型発達)の方々にも一読してほしいと思った。有名な「サリーとアン」の実験も出てきます。心理的または社会的な障害とする論もあり、非常に興味深く拝読させていただいた。
本書のデータも内容も大変興味深いものだった。噂を噂で終わらせまいとする著者の熱意に痺れる。読むのに少し時間がかかったが、読み応えがあった。続編も出ているとの情報を得たが、直ぐには私のお粗末な脳髄で情報整理ができそうにないため、間を開けて取り組もうと思った。
難解な専門用語が出てくる(角川ソフィア文庫あるある)けれども、大体気合い(著者の)と文章力(著者の)でなんとかなります!
私自身、ASDの傾向もあると主治医に口頭で言われたことがある。また詳しく訊いてみようと思った。場合によってはnoteに書きます! -
Posted by ブクログ
自閉スペクトラム症(ASD)の子が方言を話さないというのは、自身の息子の印象とも合っており興味深く読んだ。
息子は小1で三語文程度の発語はあるが、本書に書かれているようにビデオや本からその場に応じたセリフを抽出したような話し方をする。
そのような現象が、ASDが持つ意図理解の困難さに起因するという説が述べられていて、なるほどと思った。
本書の段階ではまだ仮説の段階のようだが、言語能力障害の原因の検証が進むことを願っている。そして、息子とのコミュニケーションがもっと取れるような日がくればうれしい。
次は本書の続編の「リターンズ」を読んでみる。 -
Posted by ブクログ
『自閉症は津軽弁を話さない』の続き。前作を読んだとき、“定型発達(TD)は普通・正常、自閉スペクトラム症(ASD)は○○ができない・異常”という意識が前提にあることに違和感を覚えた。別にこれは、著者の松本さんがそういう偏見を持って書いている!と非難したいわけではなくて、自分の意識も含めて、あれ?という気付きを導く違和感を得た、という意味。
その後、横道誠さんのムーミン本で「ニューロダイバーシティ」という概念を知り、この違和感はさらに高まった。そこでこの『〜リターンズ』を読んでみたら、松本さんも「私たちが普通と思っている普通ってなに?」という視座からの考察を深めているように感じた。中でも、「もしも自閉スペクトラム症の子が二十五人、定型発達の子が五人のクラスがあったら」という章は魅力的だった。「なんであの五人は、同じタイミングで先生の方を見るの?なんであの五人は、みんな似たような意見を言うの?ほとんどの子たちは思い思いのペースで過ごしているのに、あの五人は他の子の様子を伺って振る舞いや意見を変えたりしているよ」というふうに感じるのではないか、という思考実験。
私がこれを読んでまっさきに思い出したのは『窓ぎわのトットちゃん』のトモエ学園のこと。そして横道さんの本、これは「ムーミン谷はニューロマイノリティたちのコミュニティ」という仮説に基づいて書かれていて、“安心して自閉していられる”、“いっしょにいるのにひとりでいるような気分でいられる”といった言葉で、住人たちにとっての心地よさが表現されていた。それから自分自身が属したことのあるコミュニティのうち、これに近いものと、そうでないものと、それぞれ思い浮かんだ。私は、「自分はこちらでないと生きられない」とまでは思わないけれど、どちらかといえばムーミン谷で暮らしたい、と今は強く思う(←「どちらかといえば」と言いながら「強く思う」という揺らぎに我ながら笑ってしまう)。
読めば読むほど、普通で正常でマジョリティだとされる「定型発達」などというものが、本当に存在するのだろうかと、謎が深まる。そんなに人は均質化したいの?してるの?みんな違うんじゃないの?どこでどう切るかの問題でしょ?と。
以下は、気になったキーワードやキーセンテンスの備忘メモ。
・社会的ルール(明示的と暗黙的とがある)に比べて、オリジナルルールが強すぎる
・社会性の障害の元にあるのは、社会的刺激を処理する能力の弱さではなく、自発的に社会的刺激に興味を向ける傾向の弱さかもしれない
・ASD幼児が、人とのやりとりは楽しまないがロボットとのやりとりは楽しむという報告がある。ASDは「心理化フィルタ」がうまく働かないため、人の発する多量の生データをそのまま受け取って交流がうまくいかないが、ロボットだと余分な情報がカットされているから心地よいのではないか、という仮説。心理化フィルタが働かないとは、認知粒度が細かいということ。粗く全体を捉えるのが苦手。
・ASDの人の中には、意識的に社会的手がかりに着目することで社会的ルールを獲得し、相手の心を読み取ろうとする人もいる。→本書には書かれていないが、これは「擬態」というやつ?生存戦略? -
Posted by ブクログ
終盤、方言の話から少し離れて(というかそこからさらに深まって)、「ASDの人に対して“ですます調”で行動指示をする」というシーンを発端に「意図」の話になっていったあたりからが特に面白かった。その部分に関してのみの感想を書き残しておく。
私の解釈による、ASDと「意図」について本書に書かれていたことのざっくりまとめは以下の通り。
・意図とは単なる欲求ではなく、成し遂げたいことに向けてプランを立てて調整しようとする心の働きのこと。人の行為は意図に基づいている(「心の理論」)。
・私もあなたも自由意思(意図)を持っている。相手になにかしてほしい行為があるときは、相手の意図に働きかけて意思決定してもらわないといけない。求められた行為をするかしないかは相手が決めること。説明、懇願、恫喝、媚態など戦略は様々。
・ASDは、自分が何をしたいという思いはあっても、それが相手の意図への働きかけによって達成されるということへの理解が弱いと思われる。
・ASDの方から、自分たちは人に気を遣っているという発言を聞くことがある。またASDの子を持つ保護者が、彼らは人の視線をとても気にしていると観察する声も聞く。だが筆者は、ASDの方たちの相手への気遣いや心の読みは自己完結的であると感じる。相手に尋ねてその理解(意図理解)が正しいか確かめたり(意図参照)、相手の意図変更を試みたり(意図調整)する行為が弱い、またはしていない、というふうに見える。
私は、特に最後のポチに挙げたような特徴は、ASDと診断されない人でも、心の安心や安全が欠けて勇気や元気が足りなくなって、人とのコミュニケーションに疲れているようなとき、普通に起こり得ることではないかと感じた。
私は自分がそうなったら、その状態を「調子悪い時期だな」「自分は今コミュニケーション不全に陥ってるな」と捉えると思うが、ASDというものがもし何かしら生来の脳の特性に起因するものなのだとしたら(※本書ではASDの原因には触れられていない)、私の捉え方によるとその人は「常に不調」ということになってしまう。でもそれがその人のありのままの姿だとすると、そのままでは生きづらいと感じさせてしまう社会のほうが、狭量で、バリアフリーでない、と言えるのかもしれない。