アフリカでは、焼畑農耕が熱帯雨林に広がり始めると、雑草を好む蚊の繁殖場所となり、マラリアが猛威をふるうようになった(p.94)。中央アフリカと東アフリカで、19〜20世紀にヨーロッパ人が農地を広げた際も、ツェツェ蝿が増加して睡眠病を流行させた(p.96)。
インドのカースト制度は、侵入者のアーリア人は南部と東部の高温多湿の風土病を避けるために、土着の人々はアーリア人が持ち込んだ天然痘などの文明に伴う病気を避けるために、互いの疎隔意識から発生したのかもしれない(p.161)。
BC30年までの地中海では、油や葡萄酒などの輸出向きの余剰生産物が生産できる場所であれば、どこでも都市的中心地が形成されたため、その結果として農民は土着の権力者と国家の二重の支配を免れたが、長期的な政治的不安定と戦争が繰り返されることになった(p.167)。
ヨーロッパも中国も紀元後数世紀までは新しい病気によって社会体制が破壊されるほどの打撃を受けかねない状態だった。ローマでは、165〜180年、251〜266年、542〜543年に疫病が流行し、750年まで間歇的に繰り返した(p.192,202)。
モンゴルが勢力を拡大すると、アジア北部の草原地帯の交通が発展した。草原地帯に生息するげっ歯類の小動物は腺ペストを保菌していたと考えられる(p.12)。中国の人口は、モンゴルの侵略が始まる前の1億2300万人から、モンゴルを追い払った1世紀後の6500万人へ激減した(p.28)。北西ヨーロッパでは、14世紀までに人口が飽和状態に達し、気候が次第に悪化して不作が増えたため、黒死病が襲う1世紀前から人口減少が始まっていた(p.32)。1340年代にペストが流行してから、イギリスでは1世紀以上も人口が減り続けた(p.37)。14世紀以降に西ヨーロッパで毛織物生産が発展し、人口が減ったため厚い衣類が出回るようになったことによって、皮膚感染によるハンセン病の患者が減少した(p.50)。悪疫に対して教会は硬直した対応しかできなかった一方で、行政官は素早く対処したため、ドイツやイタリアをはじめとした都市国家で世俗的な生活と思想が広がっていった(p.61)。バルカン半島では、町に住んでいたイスラム教徒が人口を減らし、田舎の農民は昔ながらの信仰を守っていたために、19世紀のキリスト教民族解放運動につながった(p.66)。ペストの流行によってモンゴルの隊商交通路も破壊され、16世紀には農耕民が西部草原地帯に入り込み始めた(p.70,71)。
16〜17世紀の間に世界の交通が密になると、すでに確立しているヒトの病気は破壊的に流行することがなくなり、小児病となっていった(p.115)。1850年以降になると、医学的治療が人類の平均寿命と人口増に大幅な変化をもたらした(p.139)。