定期的に本作を読み返しており、今回新訳が出たということで早速手にしてみた。
この新訳版には適度に注釈が付け加えられ、文章も従来の訳書より読みやすくなった様に思う。
しかし最も新訳の恩恵にあずかっているのは、本書を通してたった一人の語り手であるクラマンスである。彼を露悪的かつ魅力的に、そして親しげに
...続きを読む表現することは、本書の仕掛け(罠)上で欠かせないからだ。
話の大筋は以下の通りである。
語り手であるクラマンスは、かつてパリで名を馳せた弁護士で、私人としても善行やその振舞いから評判であった。
当時の彼は順風満帆な人生を送っており、自身が「高みにある」ことを信じて疑わなかったが、あるきっかけから罪の意識が芽生える。つまり弁護士の仕事も弱者への親切や施しも、人よりも道徳的に高みにありたいという自己愛からくるものだと悟ったのだ。自分に嘘を付くことに耐えられず、罪の意識から裁かれることを恐れるようになったクラマンスは、足掻いた末についに高みにありながら裁きから免れる方法を発見する。
それは「告解者にして裁判官」となることであり、そこに至るまでの過程を彼の語り口からなぞっていく…。
この告解者にして裁判官というもの(クラマンスは職業と自負)について。
簡潔に言えば、彼自身を含め誰しも犯しているであろう罪をあらかじめ自白(告解)し、露悪的かつ親しげな態度で相手も同罪であることを認めさせ、共犯者に仕立て上げる。そこから先に自白したという道徳的優位を利用して、相手を裁くのである。
どういうことかというと、罪を裁くことができるのは先立って罪を認めた者だけであり、相手から言葉巧みに共感を引き出してから告発するというもの。
クラマンスは自己愛と人に裁かれることへの恐怖から、人より先に自分を裁き、然るのちに相手を裁くという結論に至った。
彼は根城である酒場メキシコ・シティで、獲物を捕えては告解→共犯→裏切りというプロセスを繰り返し、人からの裁きを免れつつ心の安寧を保っている。
職業が変われど、正義の弁護士であった頃と彼は変わらない。自身を高みに置くために、聞き手を引きずり落としては裏切っていることを除いて。
「転落」はいくつかの訳書が出ており、クラマンスの職業については翻訳のゆれがあった。
私が知る限りでは“裁き手にして改悛者”、“改悛した裁き手”、そしてこの新訳の“告解者にして裁判官”である。
私はフランス語が分からず原著を読めないので実際のニュアンスはわからないが、本書の内容を考えると改悛より告解という訳が適切だと感じる。
なぜならクラマンスは自分の罪を認めても、それを悔い改めることはないからだ。
ざっくばらんな説明になってしまったが、本書はあとがきに訳者による丁寧な解説が付されており、初見では難しい本書の理解を深めることができるだろう。
もっとも理解したところで、現代も”告解者にして裁判官”たちで至る所が埋め尽くされていることに気付かされ、人間不信と虚無感が残るだけである。
そうなれば誰しも自身の安寧(決して救済ではない)のため、進んでクラマンスとならざるをえない。
長々と書いてしまったが、もしここまで読んでいる方がいれば大変ありがたく、報われる思いである。
それではようこそ、メキシコ・シティへ。