キャロル・グラックのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
歴史を(特に「先の大戦」の歴史を)学ぶ意義を再認識させてくれる良書です。
本来は「事実」であるはずの歴史の「認識」をめぐる対立が、戦後80年近く経っても今なお続いているのは何故なのか。
「歴史」や「記録」とは異なる、当事国同士の/当事者の/政府の/国民の「記憶」に着目した切り口は新鮮でしたし、説得力がありました。
そしてその「記憶」がどのように形成され、どのように作用し、そしてどのように変化してゆくのか。
「過去から学ぶ」とはどういうことか、未来をどう形作ってゆくべきか、とても示唆に富んだ読書でした。
教授と学生の対話形式の講義を書籍化したものなので文章もわかりやすく、学生も韓国・日本・ -
Posted by ブクログ
私が本を読む理由の一つは「なぜ戦争が起こるのか」それを一つの方向からでは無く、各国=多数の折り重なる歴史の中から原因を探ってみたいと考えているからだ。だから著者の国籍に関係なく戦争に関する本を兎に角読み漁り、地政学や時には人間の心理を知るために心理学や精神医学の本まで漁っている状況だ。私はインターネットやテレビからの情報収集はあまり好まない(とは言えNHKだけは会話ネタとして観る)。理由は判りやすい映像や他人が話す言葉は、頭で考えるよりも感覚的に入ってきてしまい、ともすれば何も考えなくても記憶に焼きついてしまう。真実を導き出すのは自分の頭で考える行為しか無いと考えているからだ。書籍は嫌でも視覚
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戦争の「歴史」として一般に語られるのは「記憶」であって、事実として公式に記録された「歴史」ではない。「記憶」は国や立場、年齢などの違いで異なる内容であり、それは変わってゆくものでもある。自分たちや他国・他者の「記憶」が、それぞれどのように作られてきたものか(個人の経験、公式の記録、マスメディア・・・)意識することで、自国・他国の歴史を尊重する視点を持てるし、過去の出来事に向き合った上で良い未来を築く責任が私たちにはあると。
ときどき、身近な人たちがごく自然に他国の人に対して酷い発言をするのを聞き「この人のこの考えはどこからきたものか」と不思議に感じることがある。それが個人の直接的な体験から来た -
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戦争は無くなれ、と、こうした本を読むと常に思うが、無くならないのは何故か?
戦争をしたいかと聞かれたら、みんなしたくない、あって欲しくないと答えると信じているが、戦争に踏み切る人々がいるのでしょう。
この本にあるように若い世代の様々な国の出身者を交えて世界中でこうした対話をして、歴史を学ぶと少しずつでも良い方へ向かうように思いますね。
学生の一人が感情的になり過ぎずに冷静な議論ができたと言っていて、良い人材だと思いましたね。
日本ももっとこういう教養のあるやり取りをしていく仕組みや機会を多く産まれることを祈念します。
自分も頑張ろー!! -
Posted by ブクログ
-記録の歴史から記憶の歴史-
慰安婦に関しての自分の認識は、歴史というよりも外交力学の道具という程度だった。コロンビア大学での学生と歴史学教授の対話で得た新しい視点は、歴史を作る新しいプレイヤー、カルチャー(というよりコモンセンス?)。意外だったのは80年代以前まで、韓国内で慰安婦を語る事は韓国政府から弾圧されてきた。それ以前には戦争とは公的記録であり個人の記憶(オーラル・ヒストリー)は記録と見なされなかった。性質上、戦争時の性への人道暴力は記録に残らない。証言が公になってきたのは2ndフェミニズムの勃興によるところが大きい。(日本だけではなく、WW2での同様の事例が公になるのは同時期)
・各 -
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過去を歴史と記憶で二分し、記憶について分析する試みは興味深かった。
特に印象に残った点は、記憶は政治的問題を引き起こす危険性を孕んでいるということである。日韓・日中関係は戦後80年を経て尚、歴史認識で対立している現状であり、その原因は記憶の物語が各国で異なるからという説明は腑に落ちた。また、記憶が政治によって変容されるという論には、河野談話から安倍談話への移行を見るに、確かに起こり得る現象であると理解出来た。
最終章にもあったように、歴史を学び、悲劇の再来を防ぐ責任を私たちが積極的に請け負って行動する生き方が現代人に求められていると感じた。 -
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ネタバレ著者は明治時代から現代までの日本の近代史を専門とする歴史家。コロンビア大学で行われた特別講義で、著者は様々なバックグラウンドを持つ若い学生たちと第二次世界大戦について議論する。
過去を語るにあたり、「歴史」と「記憶」で分けて考えることにしているという。「歴史」は史実として歴史家や学者が歴史書に書くもの、「記憶」は教科書、記念館、映画、テレビなどを通じて多くの人々に伝わる「共通の記憶」。
記憶の物語は「国民の物語」なので、国によってそれぞれ別の物語になるという限界がある。例えば、パールハーバーを騙し打ちと捉えるアメリカと、原爆の投下から平和への使命を与えられた日本の見方。また、「記憶」はナシ -
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2017年11月から翌年2月までコロンビア大学にて日本近現代史を専門とする著者を囲んで行われた全4回の学生との対話を本にしたものである。学生は日本を含む多国籍な出自を持っているが、発言に相応に生まれ育った国の影響が見て取れるのが面白い。一方で、その発言はグローバルな共通理解の範囲の中にあるとも言えるし、逆に国際政治を学び、興味を持って議論に参加する彼らの発言がグローバルスタンダードであると考えるべきなのかもしれない。
全体テーマは「戦争の記憶」で、各回は次の通り。
第一回 Memory and History
第二回 Operations of Memory
第三回 The Comfort -
Posted by ブクログ
戦争についての多国籍学生らによる対話。
・歴史と記憶を分けること。
・その記憶はどこで覚えた?という質問はドキッとする。どこの国でいつ受けた教育かによって決まってくる。
・記憶は、公式、民間、個人、メディアの記憶の4種類がある。公式は意外と人口に膾炙しておらず、強いのは他の記憶。
・第二次世界大戦も国によって記憶する物語が異なる。中国にとっては不屈、インドネシアにとっては独立のための肯定的な受け止め方であった点が新鮮。
・慰安婦問題について、韓国、中国、日本、アメリカ人に順番に質問する場面は少しハラハラする。でも相手の意見を尊重する前提さえあれば、争いは生じない。
・記憶も変化する。ひとつは個 -
Posted by ブクログ
慰安婦について、「もうお金を払ってるし、お互い納得したので解決済み」とする、やっと最近になって日本で出てきたストーリー的なものを、韓国では教育レベルで刷り込んできたんだろうなあ。
韓国人学生の物言いに淀みがない。
上記の事実に対してもそれが何か、と言った感じだ。
この対話の中でも歩み寄りみたいなものはあまり感じられなかった。
まあ、訳されたものだからニュアンスまで汲み取れてない前提ですが。
日本人としては詰められても「困惑」の一言に尽きてしまうのではないか。
個人としての責任。
最後に出てきたトピックについて考えさせられる。
最後の学生の結局は政治の問題ではなく私たちの問題なのでは、という指