あらすじ
なぜ人々は戦争の歴史でいがみ合うのか。なぜ各国は戦争の歴史で争うのか――日本近代史の碩学が学生との対話を通じて「歴史」と「記憶」の意味を深く探っていく。ニューズウィーク日本版で大反響を呼んだコロンビア大学特別授業、待望の書籍化。主な内容「戦争の記憶」の語られ方/「歴史」と「記憶」の違いとは/変化する「共通の記憶」/それぞれの国で語られる「第二次世界大戦」/日系アメリカ人の物語が認知されるまで/「記憶の領域」には四つの種類が存在する/クロノポリティクス――現在が過去を変える/慰安婦問題が共通の記憶になるまで/誰が記憶に変化を起こしたか/記憶を動かす「政治的文脈」/戦争の記憶は、自国の都合のいい形につくられていく/アメリカが原爆を正当化する理由/自国の「悪い過去」にどう対処すべきか/過去と未来に対する個人の「責任」ほか
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Posted by ブクログ
歴史を(特に「先の大戦」の歴史を)学ぶ意義を再認識させてくれる良書です。
本来は「事実」であるはずの歴史の「認識」をめぐる対立が、戦後80年近く経っても今なお続いているのは何故なのか。
「歴史」や「記録」とは異なる、当事国同士の/当事者の/政府の/国民の「記憶」に着目した切り口は新鮮でしたし、説得力がありました。
そしてその「記憶」がどのように形成され、どのように作用し、そしてどのように変化してゆくのか。
「過去から学ぶ」とはどういうことか、未来をどう形作ってゆくべきか、とても示唆に富んだ読書でした。
教授と学生の対話形式の講義を書籍化したものなので文章もわかりやすく、学生も韓国・日本・アメリカなど多様な背景を持つ人が集まってオープンな対話をしており、彼らの一つひとつの発言からも学ぶことが多かったです。
先の大戦、「第二次世界大戦」とはいうものの、各国の「記憶」では自国や直接の相手国だけに注目しがちで「世界」という視点が抜けているという指摘も目からウロコでした。
改めて、日本が経験した「世界大戦」がどのようなものたったのか、世界の潮流を見ながら学び直したくなります。
Posted by ブクログ
歴史について考える際に歴史と記憶に分けるアプローチは新鮮でした。
歴史を自国に都合のいいように記憶として解釈するのは世界共通であり、簡単に他国の歴史認識を批判するが、歴史や記憶は相対的であり時代と共に変化し得るもの。
つい自分たちの理解が正しいと思ってしまうが、戒めのために歴史を学ぶ際に常に置いておきたい1冊。
Posted by ブクログ
私が本を読む理由の一つは「なぜ戦争が起こるのか」それを一つの方向からでは無く、各国=多数の折り重なる歴史の中から原因を探ってみたいと考えているからだ。だから著者の国籍に関係なく戦争に関する本を兎に角読み漁り、地政学や時には人間の心理を知るために心理学や精神医学の本まで漁っている状況だ。私はインターネットやテレビからの情報収集はあまり好まない(とは言えNHKだけは会話ネタとして観る)。理由は判りやすい映像や他人が話す言葉は、頭で考えるよりも感覚的に入ってきてしまい、ともすれば何も考えなくても記憶に焼きついてしまう。真実を導き出すのは自分の頭で考える行為しか無いと考えているからだ。書籍は嫌でも視覚から入ってくる文字を一度頭に焼き付け、前後の文脈やそれまでの流れの中から筆者の意見や主張への理解を導き出そうとするとから、自分の頭をより使うことになっている。読んでいて違和感を覚えればよく考えている証拠であり、素直に次の文字を期待する時は筆者の意見を過去の自分の知識と照らし合わせて、新しい考えや考えの補強として受け容れている証拠だ。本を読むことは私にとって考える時間だ。
本書は戦争に関する歴史認識がどの様に形成され、本来どうあるべきかについて、学生達との対話形式で一緒に考えていくような構成になっている。ふと気付くと私もまるでその場で一緒に授業を受けている感覚に陥る。参加するメンバーは日本人だけでなく(コロンビア大学で行った)、韓国人、中国人、アメリカ人、インドネシア人など多岐にわたる。これは授業の主要なテーマが「第二次世界大戦」と呼ばれる世界規模の戦争を対象にしている事にも関係するようだ。その中でも日韓で問題になる慰安婦問題、日米の太平洋戦争における主要な解釈の隔り、さらに中国の抗日戦争などいくつかテーマを絞って議論が進められる。
本書を最高評価した理由は、もちろん結果的に発生し終結という結果をもたらした事象に対して、世界中の国々の抱える問題、さらに国家間の対立、各国の国内問題など要因が複雑に絡み合っていると言う当たり前だが理解が難しい理由を改めて考えさせてくれるきっかけになった事が挙げられる。判っているものの第二次世界大戦という呼び方すら、アメリカやイギリスの呼び方であり、日本なら大東亜戦争や太平洋戦争、中国は最近抗日戦争と呼び始めるなど国により様々だし、もっと言えば開始された年度も全く異なっている。これは国ごとに捉え方が全く違うという事を改めて考えさせられた。
次に現在我々の頭の中にあるものが果たして「歴史」なのか「記憶」なのかという事。私は本書でこの考え方に触れた瞬間、何か長年考えてきた事の答えを探す手法を一つ見つけた感覚に陥った。そうなのだ、私の知っている歴史もたかだか数百冊の記述から得られたものであり、メディアや教科書から入ってきたもの、父が戦時中の記憶として話してくれた事、言わば寄せ集めた「記憶」にしかすぎない。これは大半が「記録や歴史」では無く記憶なのだ。そしてそれらをわかりやすく四つの領域に分けて考えている。国が政治的に導く「公的(オフィシャル)」、新聞や民放各局のメディアが、出版社が伝える「民間」、そして父のように実際の体験者や戦時の栄養不足が要因となり父親を失った母などから聞く「個人」、そして何が真実かを議論するような場・誌面などを第三者的に眺めることによって入ってくる「メタ・メモリー」。私の記憶もこれら四つの領域から入ってきたもので形成されており、しかも私が過去に触れてきた範囲からしか形成されていない。
筆者はそこに警鐘を鳴らす。一つの国や立場から作られた歴史は、決して各国共通の記憶にはなり得ないのである。それぞれの考え方や立場を尊重し、聞く耳を持たなければ、それは単に南京虐殺を完全否定する日本人や世界中に慰安婦像を立てる韓国人の気持ちなどはわからないのだ。ついつい我々は教えられたもの、見たもの聞いたものを一つの真実として捉えがちだ。またそれに合わない考え方を誤りと決めつけ受け容れようとしない。この態度こそが現在の日中韓の歴史認識問題の根本的原因であり、日米戦争におけるヒロシマの原爆肯定感に対する対立的な考え方の元になっている。勿論私は原爆自体を全く肯定するつもりはないが、そう考えるアメリカ人を否定しようとは思わない。広島の被爆者に哀悼の意を示しながら、アメリカで我が子を失った母親の気持ちも理解する。
そういった多角的な歴史の見方を学ぶべきであり、さらにそこから私たちが負っている責任が何であるかを考える必要がある。日本の中でさえ、戦時生まれ、戦後高度成長期に入った時代、私のような沖縄変換後に生まれた昭和世代、そして平成・令和に青春を謳歌する世代と、それぞれ学んできたことも違う。世代の差を超越した理解や国境を越えた理解がこれからの世界の平和を齎すのは間違いない。テレビをつければ各国首脳が過去の他国からの侵略を非難し、ナショナリズムを掻き立て、更には自国の不満を他国への憎しみにより伏せようとする姿が映る。本書を読み終わった読者達はきっとそれを見て違和感を覚えるだけでなく、今その国の背景を知ろうとする人間になっている事だろう。
私の人生のテーマに大きなヒントを与えてくれた本書に感謝する。
Posted by ブクログ
戦争の「歴史」として一般に語られるのは「記憶」であって、事実として公式に記録された「歴史」ではない。「記憶」は国や立場、年齢などの違いで異なる内容であり、それは変わってゆくものでもある。自分たちや他国・他者の「記憶」が、それぞれどのように作られてきたものか(個人の経験、公式の記録、マスメディア・・・)意識することで、自国・他国の歴史を尊重する視点を持てるし、過去の出来事に向き合った上で良い未来を築く責任が私たちにはあると。
ときどき、身近な人たちがごく自然に他国の人に対して酷い発言をするのを聞き「この人のこの考えはどこからきたものか」と不思議に感じることがある。それが個人の直接的な体験から来たものだと知り納得できたり、なんとなく想像できる場合もあるのだけど。
そのようなことに限らず、自分の考えがどう形成されてきたのかは常に意識していないと危険。正しいと思ってもそうでないことは意外と多いような気がしているし、いろんな本を読んで気づかされることも多い。
この本は、バックグラウンドの大きく異なる学生たちそれぞれから見た「歴史」の違いが具体的に語られ、とてもわかりやすかった。若いうちに実際にこういう勉強して、たくさん考えた人たちが政治家になってほしいのだけど。
#戦争の記憶 #コロンビア大学特別講義 #学生との対話 #キャロルグラック #講談社現代新書 #読書 #読書記録 #読書記録2022
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Posted by ブクログ
戦争は無くなれ、と、こうした本を読むと常に思うが、無くならないのは何故か?
戦争をしたいかと聞かれたら、みんなしたくない、あって欲しくないと答えると信じているが、戦争に踏み切る人々がいるのでしょう。
この本にあるように若い世代の様々な国の出身者を交えて世界中でこうした対話をして、歴史を学ぶと少しずつでも良い方へ向かうように思いますね。
学生の一人が感情的になり過ぎずに冷静な議論ができたと言っていて、良い人材だと思いましたね。
日本ももっとこういう教養のあるやり取りをしていく仕組みや機会を多く産まれることを祈念します。
自分も頑張ろー!!
Posted by ブクログ
自分が知っている歴史上の事件の情報がどこからきているものか振り返り、記憶と歴史を区別して考え、物事が起きた複雑な背景を整理・理解する作業の大切さが、今いかに求められているか、ちょうど隣国の中傷を煽る社会風潮の中で、立ち止まって皆に読んでほしい1冊になりました。
Posted by ブクログ
-記録の歴史から記憶の歴史-
慰安婦に関しての自分の認識は、歴史というよりも外交力学の道具という程度だった。コロンビア大学での学生と歴史学教授の対話で得た新しい視点は、歴史を作る新しいプレイヤー、カルチャー(というよりコモンセンス?)。意外だったのは80年代以前まで、韓国内で慰安婦を語る事は韓国政府から弾圧されてきた。それ以前には戦争とは公的記録であり個人の記憶(オーラル・ヒストリー)は記録と見なされなかった。性質上、戦争時の性への人道暴力は記録に残らない。証言が公になってきたのは2ndフェミニズムの勃興によるところが大きい。(日本だけではなく、WW2での同様の事例が公になるのは同時期)
・各国それぞれに戦争の記憶があり、それはシロクロハッキリしたバイナリー(被害者、勝者)
・「二度と繰り返さない」は抽象的で意味を持たない。何故そこに至ったのか、どういう時代背景でそこに至ったのかを知る(というより自分で考える事)
・それは市民としての責任である。自国の歴史ではなく、他国の歴史(歴史観)を知る。
・「過去への責任」は清濁をあわせ自国、他国を知る事
非常にタイムリーな内容だった。
Posted by ブクログ
過去を歴史と記憶で二分し、記憶について分析する試みは興味深かった。
特に印象に残った点は、記憶は政治的問題を引き起こす危険性を孕んでいるということである。日韓・日中関係は戦後80年を経て尚、歴史認識で対立している現状であり、その原因は記憶の物語が各国で異なるからという説明は腑に落ちた。また、記憶が政治によって変容されるという論には、河野談話から安倍談話への移行を見るに、確かに起こり得る現象であると理解出来た。
最終章にもあったように、歴史を学び、悲劇の再来を防ぐ責任を私たちが積極的に請け負って行動する生き方が現代人に求められていると感じた。
Posted by ブクログ
著者は明治時代から現代までの日本の近代史を専門とする歴史家。コロンビア大学で行われた特別講義で、著者は様々なバックグラウンドを持つ若い学生たちと第二次世界大戦について議論する。
過去を語るにあたり、「歴史」と「記憶」で分けて考えることにしているという。「歴史」は史実として歴史家や学者が歴史書に書くもの、「記憶」は教科書、記念館、映画、テレビなどを通じて多くの人々に伝わる「共通の記憶」。
記憶の物語は「国民の物語」なので、国によってそれぞれ別の物語になるという限界がある。例えば、パールハーバーを騙し打ちと捉えるアメリカと、原爆の投下から平和への使命を与えられた日本の見方。また、「記憶」はナショナリズムと結びつけられるケースが多々あるため、著者は、一国だけを研究していては戦争の記憶を理解できないとしている。
著者の「罪」と「責任」についての記述が印象に残った。戦争犯罪が「自分たちと関係がない何世代も前のこと」で済ますのではなく、何があったかを理解して次の世代に伝えることが大事。
Posted by ブクログ
2017年11月から翌年2月までコロンビア大学にて日本近現代史を専門とする著者を囲んで行われた全4回の学生との対話を本にしたものである。学生は日本を含む多国籍な出自を持っているが、発言に相応に生まれ育った国の影響が見て取れるのが面白い。一方で、その発言はグローバルな共通理解の範囲の中にあるとも言えるし、逆に国際政治を学び、興味を持って議論に参加する彼らの発言がグローバルスタンダードであると考えるべきなのかもしれない。
全体テーマは「戦争の記憶」で、各回は次の通り。
第一回 Memory and History
第二回 Operations of Memory
第三回 The Comfort Women in Public Memory
第四回 The Past in the Present
第二次世界大戦からすでに70年以上が経過し、実体験として知っている人がいなくなるにつれて、「記憶」がどのように形成されるのかはますます重要となり、それは政治の問題となって「記憶の政治」が経ち現れてくる。それは忘却されてなかったものとなるどころか、日本においても中国や韓国との間でますます課題となり続けているし、欧州でもアメリカでも同じように「記憶」のし方が課題となっているのである。
「記憶」は作られる。それは個人の記憶でも、集団の記憶でもその観点においては同じことのように思われる。どのように記憶されるかは、また個人でも集団でもその記憶のし方がその記憶を強化する形となったときにそのように定着される。その記憶をゆさぶることができるのは、他者の記憶であり、記録を含めた他者への敬意であろう。
ヘイトスピーチに代表されるように、過去の他者の記憶の蓄積がないものほど、単純な記憶によって自らの行動に影響させやすい。今、もし戦争の記憶が問題となるのであれば、それはネットワークの拡大による記憶の生成と取得があるからにほかならない。また、戦争の記憶は必然的にナショナリズムに結合する。
「記憶の物語とは「国民の物語」なのです」
と語る。
「「歴史は正確であろうと」します。ですが、歴史は必ずある立場に立って書かれているので、正確であろうとする試みがいつも成功するとは限りません」
「正確な歴史」というものがあるのかどうかもわからない。アメリカ人にとってのパールハーバーの記憶は、日本にとってのそれとは異なる。一方で、「アメリカと日本は、共同して両方の国にとって心地よい太平洋戦争の物語を作り上げました」というのは戦後の経緯としてきっと正しい。「アメリカの物語は原爆までを語り、日本の物語は原爆から始まります」- 日本の戦争の記憶には、空襲と原爆投下と玉音放送によって戦争が終わるという物語があるが、そこには中国との戦争が欠けている。南京事件が国内でかきたてる騒動は、それが物語に組み込まれてこなかったことにも由来する。
また、グローバルにおける戦争の記憶の位置づけも変わってきた。著者が指摘するように歴史に対する謝罪が政治の舞台で論点となるようになったのは、戦後しばらくの時間を置いてからのことだ。それに対して意識的でなくてはならないし、おそらくは個人の責任もそこにはある。政治家もメディアも国民の方を向いている。LGBTに対する見方が劇的に変わったことからわかるように、あることに対する見方が変わるのに思ったよりも時間は必要ない場合もある。
著者は慰安婦をテーマに取り上げて、「慰安婦が共通の記憶に取り込まれるプロセス」について議論する。学生たちの反応は、慰安婦について東アジア史で学んだという人が多く、知識を有していた。これは、20年前はありえなかった話だという。
「ホロコーストの記憶はジェノサイドに対する世界の見方に変化をもたらし、一方、慰安婦の記憶は戦時における女性への暴力に対する見方を変化させたのであった」
「ホロコースト」と「慰安婦」の問題を並列に並べることに違和感を覚える人もきっと多いだろう。戦時の性暴力に関してはおさらくは多くの人が知っているように、慰安婦の問題は特異なものではなかったという人も多いだろう。それを知った上で、「記憶の政治」に関わらなくてはならないということを言わんとしているのではないかと思う。いずれにせよ、国際政治の中で、日本が記憶の政治において失敗をしていることは、その結果から明らかであり、多くのものごとと同様それを他責にすることは何の解決にもならないのだから。
Posted by ブクログ
戦争についての多国籍学生らによる対話。
・歴史と記憶を分けること。
・その記憶はどこで覚えた?という質問はドキッとする。どこの国でいつ受けた教育かによって決まってくる。
・記憶は、公式、民間、個人、メディアの記憶の4種類がある。公式は意外と人口に膾炙しておらず、強いのは他の記憶。
・第二次世界大戦も国によって記憶する物語が異なる。中国にとっては不屈、インドネシアにとっては独立のための肯定的な受け止め方であった点が新鮮。
・慰安婦問題について、韓国、中国、日本、アメリカ人に順番に質問する場面は少しハラハラする。でも相手の意見を尊重する前提さえあれば、争いは生じない。
・記憶も変化する。ひとつは個人からの突き上げによって。ひとつは国際的な外部からの圧力によって。国ごとの政治的な関係によっても変わってくる。
・記憶の継承、ポストメモリーということがこの時期によく言われる。過去を知り、どのように戦争を予防するか、将来への働きかけが問われる。
Posted by ブクログ
慰安婦について、「もうお金を払ってるし、お互い納得したので解決済み」とする、やっと最近になって日本で出てきたストーリー的なものを、韓国では教育レベルで刷り込んできたんだろうなあ。
韓国人学生の物言いに淀みがない。
上記の事実に対してもそれが何か、と言った感じだ。
この対話の中でも歩み寄りみたいなものはあまり感じられなかった。
まあ、訳されたものだからニュアンスまで汲み取れてない前提ですが。
日本人としては詰められても「困惑」の一言に尽きてしまうのではないか。
個人としての責任。
最後に出てきたトピックについて考えさせられる。
最後の学生の結局は政治の問題ではなく私たちの問題なのでは、という指摘にハッとする。
とりあえずお互いの言い分というものをよくよく理解するのが第一歩か。