清水幾太郎のレビュー一覧
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普段読んでいる文章術の本とは違った。エッセイのような感覚だった。いや、エッセイというより、講義を聞いているような感じ。
自分には難しかったな。
でも、段落ごとに小見出しがあったので、読み進めやすかった。
文章に対する好き嫌いがある人は、立派な文章を書ける素質のある人。
なんでかというと、それを真似ることで、文章修行の道に入っていけるから。
好き嫌いが素質に!?ってなったけど、理由を読んで納得。
好きなものに近づきたくて、真似をすることって楽しいから、自然とたくさん修行できるのか。
表現に自由がなかったときに、制限の中で少しでも自分の意志を表すことのやりがいとかは、今は想像もできないな。。 -
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文章の書き方指南本で、名著としてしばしばあげられる一冊。
「小さい魔物である」と熱く語られる「が」に関しては、あまり意識したことはなかったが、いわれてみれば確かにそうだ。
「が」の前後で反対の意味のこともあれば、並列だったりもする。「殆ど無数の意味がある」のである。
著者流の書き方に、おおむね異論はないのだが、「『無駄な穴埋めの言葉」を大いに使おう」は、使わない派の谷崎潤一郎に賛成。
接続詞を多用する文章は、書き手の考え方が整理されていなかったり、文章の並びがおかしかったりするものだ。
時折挟まれる論評や小ネタが案外面白い。例えば、「日本語の発音やアクセントが広汎な問題になり始めたの -
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歴史認識を記載している内容となっております。少し翻訳的にわかりづらいところがありますが一体歴史とはどう捉えるべきなのかということを哲学的に考察することができます。歴史を考えるにあたっては勉強にはなりますが難解な書物でもあります。歴史と言うものは見る人によって捉え方、考え方が違い、歴史を考える方のフィルターを通して、歴史がどうであったかの解釈は変わってきます。その歴史とは過去のものであり現在の価値観から過去を見る見方、また過去があったからこそ現在の今があると言う見方、様々な価値観、捉え方の解釈がありますが、この本は哲学的な考察を持って歴史を考える本であり勉強にはなりますが、少し論理的迷路に陥る感
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みなさんは蕎麦は好きですか? 僕は好きです。駅中でよくみる立ち食い蕎麦のお店によく行きます。忙しくて時間がないときでも、出てくるの速いし、完食するのにも時間がかからないし時短になりますよね。そんな蕎麦が読書と似てるらしいです。
その意味で、読書は、蕎麦を食うのに少し似ている。蕎麦というものは、クチャクチャ噛んでいたのでは、味は判らない。一気に食べなければ駄目である。すべての書物がそうだとは言い切れないが、多くの書物は、蕎麦を食べる要領で、一気に読んだ方がよいようである。
P112
蕎麦食べるときってなぜか早食いになります。蕎麦を食う如く読書したほうがいいみたいです。とにかく速く数をこなして -
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清水幾太郎の「愛国心」を読み、とても冷静ですっと読み込めるものだったから、その人がどういうあたりを気にかけながら書くものなのか……ついでに自分もこういう冷静な書き方をしてみたいものだと思って、購入した。
こういう書き方の本はこれ含め3冊持っている…のかな。
どれも共通しているのが、書くことは自分を表現すること、なのである。
私は自分が思ったことを直で書くことが苦手で、こういう記録なども相当苦手だ。それで、小説という形を用いて、別の登場人物に託すことになるのだが、間に何が入っていても、書いている者は私なのだから、書くことは私を書くことなのだ。
その書きものだが、現在まるで書けないでいる。
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著者の清水幾太郎は、太平洋戦争敗戦から60年安保闘争にかけて、「日本のオピニオン・ リーダー」、「進歩的文化人」の代表と言われた社会学者・評論家。
本書は1972年出版のロングセラーで、著者自らの読書経験と、それを踏まえた「本はどう読むか」の技術が述べられている。
私は60年安保以降に生まれた世代であり、著者の政治思想や過去の社会的な活動についての積極的な賛否は持たないが、本書に述べられている読書についての考え方・技術は、今でも少なからぬ読書論・読書術の書籍に引用され、影響を与えている。
「本はどんな無理をしても買う。私がいつまでも貧乏なのは、おそらく、この主観主義的読書法の結果であるに違いな -
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論文執筆マニュアルとしてはかなり古い本ですが、今読んでも学べることが多いように感じます。とくに、文章のスタイルを真似ることの重要性を述べ、そこから模倣を通して思想そのものの理解にまで説き及んでいるところは、論文執筆マニュアルの範囲を超えて大切なことを教えられたように思いました。
そのほか、はっきりとした逆説の意味を持たない接続助詞「が」の問題を指摘している箇所も有益だと思います。「が」を完全に追放することを勧めているのではなく、文章の論理的なつながりにそのくらい意識的でなければいけないというのが、おそらくは著者の真意なのではないかと考えます。