小山聡子のレビュー一覧
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冒頭、藤原道長の「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を引用し、著者はこう言う。「これほどまでに栄華を極めた道長は、周囲の貴族から怨みや嫉みも大いに買っている自覚があった。その上、病気がちで精神的にも脆弱だったこともあり、非常にモノノケを恐れていたのである」(「まえがき」より)。はてさてあの道長がそんなものを怖がっていたとは?と古代史に詳しくない私などは思ってしまうのだが、古代の人びとにとって人間の体を抜け出した霊魂(元に戻る場合は「生き霊」、元の体に戻らなければ「死霊」であり、いずれも「モノノケ」[物気])は主として病気をもたらすものとして恐れられていたらしい。道長自身の『御堂関白記』には怖がりすぎてあまりモノノケについて書かれていないらしいが、同時代の貴族の古記録(藤原実資『小右記』など)にはそう記されているとのこと。しかもそのモノノケ退治を自分自身でやることもあったとは、道長のイメージもだいぶ変わってこようというものである。また『小右記』に登場する油瓶の形になったモノノケの話はおそろしくもありおそろしくもなしであるが、一般に「鬼」の形に近似することも多かったモノノケがさまざまな姿を取って描かれていることも面白い(pp.68-75)。
日本人の死生観、霊魂観がやがて中世、近世、近代、そして現代に至るまでどのように変わって来たのかをちゃんとした歴史学の立場(要するに文献史学の立場)から繙いていく本書は、著者の専門分野が中世ということもあって、古代の終わりから中世を扱う第1章から第3章までが圧倒的に面白く読ませる。とくにモノノケを調伏する方法などを詳しく辿った第2章などは知らないことだらけで非常に面白かった。上段でも述べたが、頭の中で考えたことではなく、そうした具体性の中にこそ死生観や霊魂観が現れてくるのであろう。その点、第4章で近世の平田篤胤がモノノケ調伏を法師どもの謀略とする(p.185)のは、まさに「近代的」すぎてつまらないとも言えよう。 -
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『浄土真宗とは何か』
2023年5月22日
親鸞の生涯やその思想について、簡潔にまとまった一冊。浄土真宗の入門にふさわしい。
本書では、親鸞以前の平安時代における密教から平安浄土教、さらには源信による臨終行儀にも触れる。浄土真宗の前夜を説明することで、親鸞の思想における矛盾への理解がしやすくなっているだろう。
本書は、親鸞の人間らしい側面に焦点を当てており、大変興味深かった。歴史上の人物、ことに宗教家ともなると、完璧超人いう理想化したイメージを抱きがちである。しかし、本書では人間味あふれる親鸞像が提示され、その苦悩にあふれた一端に触れることができ、親しみをもって読むことができた。
親鸞の思想といえば「他力本願」が有名だが、親鸞自身も真に「他力本願」となるのは難しいと語っている。妻・恵信尼が娘に与えた手紙には、親鸞が病気でうなされている際に、『無量寿経』を唱えてしまったことが書かれる。自力の心(自分の力によって運命を変えようとすること)に気づいた親鸞は、よくよく気を付けねばならないとしている。
また、彼の説いた教説には誤解を与えかねないものも多い。親鸞の思想では、他力の信心を得たときに極楽往生が確約されるため、臨終時の来迎を待つ必要はないとしている。それにも関わらず、曇鸞や法然の臨終時の奇瑞を称えているのだ。これでは、臨終行儀を行った方がよいと考える信者がいても無理はない。
自身の子・善鸞の義絶についても、理想化されすぎた親鸞からの視点からのみ論じ、善鸞を「親不孝者」とする論説に疑問を呈している。善鸞にも言い分があったはずだが、文書が残っていないこともあり無視されてきた。後世に生きる我々は想像するしかない部分もあるが、善鸞側の意見を考えるとまた違った見方ができるだろう。
上記のように、親鸞にも人間としての苦悩や揺れあった。完璧な人間ではなかったのだ。また、一人東国に向かった善鸞においても、必要に応じてその思想が変化するのは仕方なかったのではないだろうか。現在となっては、真相はわからないが、理想化されたままの親鸞像で語ることの危険性を説いている。
自身の理想的な思想と現実の間で苦悩したり、90年という長い生涯の中で言説に揺れがあったり。よくよく考えれば人間として普通のことだ。本書では、そのような「人間」親鸞に迫った大変興味深い一冊だった。 -
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古代から通史で見る「鬼」。
もともとは中国の鬼と仏教の鬼の観念の輸入だけど、日本の土壌で受容したいものだけを受け入れてアレンジされて、というのがおもしろい。
古代〜中世前期には実在するものとして恐れられ、
実在しないと認識されてからも物語で語られ続け、現代になっても娯楽として楽しまれている(「鬼滅の刃」!)。
その一方で、鬼と表現されてきたのは社会的弱者。
嫉妬に苦しむ女性が鬼の姿で表現され、体の形状に異常を持つ子が鬼子と呼ばれ、外国からの漂流者が異国からきた鬼とみなされた。ここから「鬼畜米英」につながるとは。
「おにばばあ」という言葉は使われても「おにじじい」は一般に使われない。に、はっとした。差別と偏見を映す鏡としての鬼。現代とも無縁じゃない。 -
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鬼滅好きが高じて鬼について知りたくなったため読んだ。
鬼が日本でどう捉えられてきたのかという話。
鬼は元々人間が死んだものとされていて、中国から渡ってきた。それが怨念を残して死んだもの、厄災を運んでくるもの、実在しないもの…というようにどんどん捉え方が変容していったが、障がいを持って産まれた子や外国人など、マイノリティを『鬼』として扱うのはあまり変化がなかった。
その中でも女性に関する差別が酷く、女性は劣悪などと言われ鬼と見做されることも多いことに驚き衝撃だった。
日本人特有なのかはわからないが、マイノリティを不気味なものと見做したり女性を劣悪だと考えている人はいまだにいるだろう。
本書を読んで鬼の歴史に関する知識を得たと同時に、歴史の中の女性の扱われ方についてもっと知りたくなった。 -
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遥か昔、恐ろしい存在であった「もののけ」が時代の移り変わりの
中で、どう変容していったかを豊富な史料から解き明かす。
序章 畏怖の始まり
第一章 震撼する貴族たちー古代
第二章 いかに退治するかー中世
第三章 祟らない幽霊ー中世
第四章 娯楽の対象へー近世
第五章 西洋との出会いー近代
終章 モノノケ像の転換ー現代
主要参考文献、古文書・古記録の幽霊一覧有り。
もののけ、モノノケ、物の気。
古代は得体の知れない死霊の気が病気や死をもたらす存在でした。
天皇や貴族は、僧や陰陽師の調伏や供養に頼っておりました。
時代が経るにつれて「もののけ」は変容していきます。
調伏を行う者や手段の変容・・・双六や囲碁、将棋が用いられたり、
依代となる者がいたり、庶民には山伏や巫女、民間陰陽師が
行ったりしますが、中世以降は医学の発展が関わってきます。
幽霊と怨霊の区別が曖昧になっていき、
近世では死霊の存在が懐疑的になり、また平和な世、
刺激を求める対象になり、娯楽に取り込まれていきます。
かつて怪異だった妖怪や化け物は草双紙で視覚化し、
モノノケも、妖怪や幽霊、化け物との区別が明確でなくなります。
近代、文明開化と西洋の影響に翻弄され、衰退し、或いは注目。
現代、小説や漫画で描かれる姿は自然の中に追いやられます。
そして、人間との対立と共生。『もののけ姫』も登場。
様々なイメージとキャラクター化により、人に近づく存在に。
物の気、物の怪、モノノケ。
日本人の近辺にいたモノは、かつての畏怖の対象から、
時代の変遷と共に、ヒトの精神、世情等の様々な変化を経て、
ヒトに寄り添うまえに至るという、その変化の面白さを、
教えてくれる内容でした。 -
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歴史学の立場から、浄土真宗について、開祖親鸞やその家族、継承者らの信仰の実態を明らかにしている。
これまで浄土真宗の開祖として理想化するかたちで語られがちであった親鸞、そしてその家族・継承者について、史料に基づいて、他力に徹しきれず、理想と現実の間で揺れ動く等身大の姿を描こうとしているところに本書の特色がある。
本書を通じて、宗教者といえども、完璧ではなく、迷い、揺れ動く人間なのだということを感じた。また、本書は、臨終行儀への着目など、歴史学研究としても水準が高いものだと感じた。
ただ、「浄土真宗とは何か」と表題を掲げているにしては、必ずしも教義どおりになっていない歴史的実態を明らかにすることに力を入れ過ぎ、肝心の浄土真宗のそもそもの教義・思想についての記述が薄いのではないかという気はした。また、終章の最後で「親鸞の教えは、現代社会における諸問題解決の糸口になるかもしれない」とまとめられていたのは、非常に唐突に感じた。 -
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鬼について、ひとまとめにした新書。鬼とは、時代によりとらわれ方は色々あり、外国からもたらされたもの、疫病といったところや、何より自身を正当化するために蔑視すべきマイノリティを鬼と見なしていたところが非常に興味深い。そしてそれは戦争期における鬼畜米英といったものも含まれ、現代においても、例えばコロナが蔓延し始めた時に、マスクをしていない者がいれば、自主警察といったものが現れたりするなど何処かでそういった狭い認識で他者を差別しているところが日本人は忘れてはいけないのであろう。
参考文献の多さから、よくよく研究されていることが分かり、「おわりに」のコメントには鬼滅の刃にも軽く言及しているのは面白い。