小山聡子の作品一覧
「小山聡子」の「もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年」「鬼と日本人の歴史」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
- 作者をフォローする
- フォローすると、この作者の新刊が配信された際に、お知らせします。
無料マンガ・ラノベなど、豊富なラインナップで201万冊以上配信中!
「小山聡子」の「もののけの日本史 死霊、幽霊、妖怪の1000年」「鬼と日本人の歴史」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
ビジネス・実用
ビジネス・実用
ビジネス・実用
Posted by ブクログ
冒頭、藤原道長の「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を引用し、著者はこう言う。「これほどまでに栄華を極めた道長は、周囲の貴族から怨みや嫉みも大いに買っている自覚があった。その上、病気がちで精神的にも脆弱だったこともあり、非常にモノノケを恐れていたのである」(「まえがき」より)。はてさてあの道長がそんなものを怖がっていたとは?と古代史に詳しくない私などは思ってしまうのだが、古代の人びとにとって人間の体を抜け出した霊魂(元に戻る場合は「生き霊」、元の体に戻らなければ「死霊」であり、いずれも「モノノケ」[物気])は主として病気をもたらすものとして恐れられていたらしい。道長自身の『御堂関白記』には怖がりすぎてあまりモノノケについて書かれていないらしいが、同時代の貴族の古記録(藤原実資『小右記』など)にはそう記されているとのこと。しかもそのモノノケ退治を自分自身でやることもあったとは、道長のイメージもだいぶ変わってこようというものである。また『小右記』に登場する油瓶の形になったモノノケの話はおそろしくもありおそろしくもなしであるが、一般に「鬼」の形に近似することも多かったモノノケがさまざまな姿を取って描かれていることも面白い(pp.68-75)。
日本人の死生観、霊魂観がやがて中世、近世、近代、そして現代に至るまでどのように変わって来たのかをちゃんとした歴史学の立場(要するに文献史学の立場)から繙いていく本書は、著者の専門分野が中世ということもあって、古代の終わりから中世を扱う第1章から第3章までが圧倒的に面白く読ませる。とくにモノノケを調伏する方法などを詳しく辿った第2章などは知らないことだらけで非常に面白かった。上段でも述べたが、頭の中で考えたことではなく、そうした具体性の中にこそ死生観や霊魂観が現れてくるのであろう。その点、第4章で近世の平田篤胤がモノノケ調伏を法師どもの謀略とする(p.185)のは、まさに「近代的」すぎてつまらないとも言えよう。
Posted by ブクログ
『浄土真宗とは何か』
2023年5月22日
親鸞の生涯やその思想について、簡潔にまとまった一冊。浄土真宗の入門にふさわしい。
本書では、親鸞以前の平安時代における密教から平安浄土教、さらには源信による臨終行儀にも触れる。浄土真宗の前夜を説明することで、親鸞の思想における矛盾への理解がしやすくなっているだろう。
本書は、親鸞の人間らしい側面に焦点を当てており、大変興味深かった。歴史上の人物、ことに宗教家ともなると、完璧超人いう理想化したイメージを抱きがちである。しかし、本書では人間味あふれる親鸞像が提示され、その苦悩にあふれた一端に触れることができ、親しみをもって読むことができた。
親鸞の思想といえば「他力本願」が有名だが、親鸞自身も真に「他力本願」となるのは難しいと語っている。妻・恵信尼が娘に与えた手紙には、親鸞が病気でうなされている際に、『無量寿経』を唱えてしまったことが書かれる。自力の心(自分の力によって運命を変えようとすること)に気づいた親鸞は、よくよく気を付けねばならないとしている。
また、彼の説いた教説には誤解を与えかねないものも多い。親鸞の思想では、他力の信心を得たときに極楽往生が確約されるため、臨終時の来迎を待つ必要はないとしている。それにも関わらず、曇鸞や法然の臨終時の奇瑞を称えているのだ。これでは、臨終行儀を行った方がよいと考える信者がいても無理はない。
自身の子・善鸞の義絶についても、理想化されすぎた親鸞からの視点からのみ論じ、善鸞を「親不孝者」とする論説に疑問を呈している。善鸞にも言い分があったはずだが、文書が残っていないこともあり無視されてきた。後世に生きる我々は想像するしかない部分もあるが、善鸞側の意見を考えるとまた違った見方ができるだろう。
上記のように、親鸞にも人間としての苦悩や揺れあった。完璧な人間ではなかったのだ。また、一人東国に向かった善鸞においても、必要に応じてその思想が変化するのは仕方なかったのではないだろうか。現在となっては、真相はわからないが、理想化されたままの親鸞像で語ることの危険性を説いている。
自身の理想的な思想と現実の間で苦悩したり、90年という長い生涯の中で言説に揺れがあったり。よくよく考えれば人間として普通のことだ。本書では、そのような「人間」親鸞に迫った大変興味深い一冊だった。
Posted by ブクログ
古代から通史で見る「鬼」。
もともとは中国の鬼と仏教の鬼の観念の輸入だけど、日本の土壌で受容したいものだけを受け入れてアレンジされて、というのがおもしろい。
古代〜中世前期には実在するものとして恐れられ、
実在しないと認識されてからも物語で語られ続け、現代になっても娯楽として楽しまれている(「鬼滅の刃」!)。
その一方で、鬼と表現されてきたのは社会的弱者。
嫉妬に苦しむ女性が鬼の姿で表現され、体の形状に異常を持つ子が鬼子と呼ばれ、外国からの漂流者が異国からきた鬼とみなされた。ここから「鬼畜米英」につながるとは。
「おにばばあ」という言葉は使われても「おにじじい」は一般に使われない。に、はっとした。差別と偏見を映す鏡としての鬼。現代とも無縁じゃない。