この本は、後書きの解説を読むことによって完成する。
正直、読み始めから犯人の語りだと推測できてしまうし、歌に沿って殺人が行われるのも全て読める。
何を語りたい本なのか、なぜ児童書なのかは後書きにより明らかになる。そこを読まない限りただの後味の悪い気味の悪いミステリー小説であって、なんの実りもない読書になっただろうと思う。
以下抜粋
この作品の持つある種の"普遍性"こそ、賞賛に値すると思っています。
つまり、"家族"という最小単位の共同体が持つ弱さと、それが故の拘束力の強さを示唆している点で、この作品は稀有である、と私はいいたいのです。
<幸せな家族>に指名され、そしてそれを告発するために、"語り手=犯人"というトリックは選び取られているのです。この物語の英題が「The Happy Family」ではなく「The Blessed Family」であるということが、それを如実に示しています。本書におけるへ幸せな家族とは、社会という祭壇に供される”神聖な(=Blessed)生贄なのです。
一人また一人とその姿を消していくへ幸せな家族は、社会から消費(=圧殺)されながらも、むしろその絆”を強めていくのです。
勿論、その絆”は、決して甘く優しげな(=Happy)響きを持ったものではありません。むしろ、極めて拘束力の強い呪縛とでも称すべき、禍々しさを孕んだものなのです。これこそが、おそらくは神聖な(=Blessed)と本書が題された意味であり、この物語の根源です。
野上暁氏の追悼文によると、作者は家出というキーワードに強い拘りを持っていたようです。その作者が、なぜ家族を主題とした本格推理小説を書こうなどと考えたのでしょうか。
以降はあくまでも私の憶測になりますが、作者は家出を肯定するためには、先に述べたようなHappy なだけの生ぬるい家族を否定しなければならない、と考えたのではないでしょうか。作者が山本太郎の詩「その頃はやった唄」に強い衝撃を受けたのも、正にこれがそうした家族を否定した詩であったと少なくとも作者はそのように感じたからではないでしょうか。しかし、家族を否定するために書かれた『幸せな家族』は、結果的に家族の肯定すら突き抜けて、神聖な域にまで達してしまいました。そして、児童文学として一定の評価を受けてしまったのです。
氏の創作活動がそれ以降一種の行き詰まりを見せてしまったのは、こういったところに理由があるのかもしれません。