『じっさいには,そのときの幼児の身たけに見あうごく小ぶりの傘にはそれほどしゅるいがなかったので,おとなたちどうしのやりとりはたちまちすんでしまい,うなづくことだけがうながされているばめんでうなづいただけの者は,でもしきりになにか言いたかった.』
夢の描写に脚色を加えることが一切禁じられたら、そこに
...続きを読むは明確な筋道や物語は決して存在し得ないような気がするのだが、「abさんご」の文字列が構築する世界はひょっとするとその正確性が求められている夢の描写なのかも知れないと思う。ここで進行している物語めいたものが、現在進行形ではなさそうなことは比較的容易に想像がつき、過去の記憶の断片が言葉に置き換えられつつあるのだなと、すっと了解される。しかし、その先に広がっているだろう世界のことが解らない。何処にも辿り着けない、置き去りにされた印象が頁を繰る毎に深くなる。
横書きにされた文章の読み難さは、左程言葉と言葉の構築する世界を隔てているようには感じられないのだが(馴れれば情報が左脳から右脳へ引き渡され咀嚼されるまでの時間差を意識することはなくなる)、咀嚼されたものを眺めても、それがまるで初めて学んだ外国語のセンテンスを何とか意味のある日本語に置き換えただけの文章を眺めた時に感じるものと同様の感慨しか受け止められない。読み終えた頁だけが増えてゆく。知らず知らず積もって来るようなものが手許に残らない。
方や、縦書きの文章の方を読むと、そこには確かにかなを多用して横書きにされた文章を産み出した作家と同じ作家がいることは解るが、こちらの物語はもう少し雪の上の足跡のようなものを残している印象を持つ。しかし、それとて束の間の痕跡だろうと受け止めた瞬間に達観してしまうような淡い痕跡である。ただ、道という言葉がたちまちアスファルトで舗装されたそれを意味しない時代を生きて来た世代である自分の遠い記憶と呼応するものがここにはあり、苦く甘い郷愁を呼び覚ましはする。ただ、それをいつまでも自分が抱えていたいのか否か、そこを予期していなかった角度から責められたような心持ちにはなる。
しかし、やはりそこから何処へも動いてゆかない、のである。そしてそのことを少し訝しく思っている自分がいることを誤魔化すことは出来ないのである。