MWムウという漫画
リボンの騎士
火の鳥
頭良ければとりあえず医学部目指させるみたいなのに偏見持ってたけど、手塚治虫の事を知ったら、医学って素晴らしい教養なんだなと思ったから、それも悪くないと思うようになった。手塚治虫みたいに医者にならなくても半端ない教養人になれるから。
同性愛を過剰に差別発言する人はだいたいそいつも本当はホモかレズだよ。これは私の経験上確実にそう。だからレズを差別発言する人は羨ましいんだなと思って見てる。
「 手塚こそは日本漫画の「母」でした。手塚以降の世代の代表的な漫画家は、ほぼ全員が手塚からの影響を認めています。そこには模倣から反発まで、ありとあらゆるタイプの「影響」が見て取れます。ビートルズがロックに与えた以上の影響力を、手塚は漫画にもたらしたのです。こうした存在が空前絶後であることは論を俟たないでしょう。 そもそも手塚は、現代漫画の基本フォーマットを一人で構築したと言っても過言ではありません。それこそ表現の形式から、「擬音」や「漫符」(冷や汗や怒りの静脈など、主として感情を表す記号表現)の文法、あるいは漫画表現のポイントであるコマ割りや吹き出しといった形式的な部分まで、漫画の基本文法を完成させたのが手塚でした。 以下は私の持論ですが、あらゆる表現ジャンルの中で、漫画ほどすみずみまで「感情」の充満した表現は他に類を見ません。最大最強の「感情のメディア」が漫画なのです。もちろん、小説や映画でも感情は描かれます。しかし、それはあくまで「全体の一部」でしかない。一方の漫画は、そのほとんどのコマに感情が描き込まれています。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「こういった傾向は、アメコミ(*)やバンドデシネ(*)など海外のコミックにも見られない日本の漫画だけの特質です。そして、私見では、この基本フォーマットも主に手塚が発明・開発したものであり、以降の日本の漫画全般に、この非常に優れた感情表現の形式は受け継がれています。 感情の記号的表現を「漫符」(竹熊健太郎)とか「形喩」(夏目房之介)と呼びます。そのすべての起源が手塚というわけではありませんが、そうした手法で漫画表現に自由に感情を導入するきっかけを作ったのは手塚と考えて間違いないでしょう。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「重要な特性はまだあります。例えば、視認性が高いということ。漫画は感情のメディアであると同時に、「顔のメディア」でもあります。だから、ほとんどのコマに顔が描かれていますよね。これは、もちろん手塚以前からの傾向なのですが、後述するように彼は漫画の「顔のメディア」としての特性を、かつてないほど拡張し、自在に使いこなしました。 私たち人間は、目の前に顔があったら、それを見ずにはいられないという認知特性を持っています。ゆえにコマに顔が描かれていれば、ついつい凝視してしまう。そして、顔を認識すれば、そこから先はほぼ自動的に、その顔が誰の顔であり、どんな感情を宿しているかを読み取る、というか読み込まされてしまうのです。 感情というのは、そのまま「意味」と言い換えてもいいでしょう。漫画というメディアは、読者に意味を半強制的に読み込ませる仕組みとして、非常に優れた機能を持っています。この特性を生かしたのが、学習漫画などの類です。漫画は非常にリーダビリティが高いため、情報を詰め込む時に、文章はおろか動画などに比べてもたいへん効率がいいメディアなのです。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「最近になって手塚の遺族が、手塚の机の引き出しに秘匿されていたエロティックな落書きを公表して話題になりましたが、手塚の〝丸っこい〟描線は、それ自体がエロスをはらんでいることはよく指摘されます。この描線は初期のディズニー的な絵柄に由来するものですが、要するに手塚はディズニーアニメが本質的にはらんでいたエロチシズムを半ば無自覚に作中に取り込んで、その描線で女性を描いてしまったのです。 漫画に描かれる女性が萌えキャラとして可愛く描かれるのは、今でこそ当たり前ですが、これも実質的には手塚が創始者と言っていいでしょう。美少女と言っても竹久夢二から松本かつぢ(*)に至る抒情系の少女画とは完全に別系統です。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「しかし、そういった意味ではちょっと可哀想なところもあるんですよね。リスペクトする人が多いわりには、意外と若い世代に読まれていなかったりする。これはもったいないことだと思います。ですので今回、手塚をあらためて語り、その魅力を伝える機会を頂いたことは、非常に喜ばしいことです。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「ただ手塚には、「医学的正確さ」など平気で無視できる強さがあった。医大出で、じっさいに医学博士であるという強みもあったと思うのですが、作品においてはむしろ「医学的正確さなんぞクソくらえ!」と言わんばかりに、一話完結スタイルでぐいぐい描いてしまうところがあり、それが作品のダイナミックな魅力に繋がっていました。今考えても、ひとつひとつが極上の短編として読める本作が、毎週少年誌に掲載され、同時進行で他の連載も描いていた事実には驚かされます。 本作を厳密な医学的視点から読めば、いろいろとアラはあります。しかし同じ医師として言えることは、根幹部分にあるアイディアや発想のありようは、まぎれもなく医師のものだ、ということです。合理性とヒューマニズムのバランス感覚などに、医師ならではのリアリズムを感じます。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「また、別の大きな特性も指摘できます。それは、ものすごくサービス精神が旺盛なことです。だからこそ、彼は徹底的に時代に寄り添うことができた。そういう意味では、例えばつげ義春(*)のように、己の価値観や資質を前面に出し、時代を超えてそれを貫き通すタイプの天才ではありませんでした。 時代の要請に沿えるということは、すなわち読者にサービスのできる人だった、ということです。作風がどんどん変わっていくのも、世の中のニーズを汲み取って、その都度チューニングしていたからに他なりません。 また、自分より売れている作家への嫉妬の強い人だったそうですが、それは、「人々が何を求めているか」ということに対する自分のセンサーが鈍ることが許せなかった、ということだと思います。読者に自分を合わせていきたい、という気持ちが強烈にあったのでしょう。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「もう一つ、手塚の漫画が若い人にあまり読まれていない理由として、漫画カルチャー自体が変わってしまったことも挙げられます。彼の漫画は、今の視点から見ると描き込みが薄く見えたり、絵にしても、もちろん上手いのですが、今の時代における「絵の上手さ」とはちょっと違った上手さだったりする。あるいは、今の漫画と比べると、コマの数や、一コマ中に描かれる人物の数が多すぎるように見えたりする。つまり、現代の漫画ファンには、スタイルとして少しとっつきにくい印象があるかもしれない。 慣れてしまうとハマると思うのですが、現代の読者が諸手をあげて歓迎するようなタッチかというと、ちょっと違う気がします。しかし、単なる古典や教養ではなくて、今読んでも十分に楽しめる娯楽であり、読まれるべき作家であるということは、声を大にして言っておきたいと思います。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「 もっとも、当時、戦争や空襲を経験している漫画家は他にもいます。精神医学的に言えば、そうした過酷な体験をしたからこそ、そのトラウマゆえに描けない人も当然いるわけです。ところが手塚は、体験したからこそ描くんだ、と言い切っている。これは、捉え方によっては自己治療と言えるのかもしれません。トラウマ体験を忘れようとするのではなく、繰り返しくわしく語り直す手法を「暴露療法」といいますが、作品制作にもそうした効果があるのかもしれません。 一方で、戦後はその反動からものすごい解放感もありました。いろいろな表現が自由にできるようになり、大好きな映画も見放題。そうした悲喜こもごもがせめぎ合うような形で、彼にとっての戦争というものが位置付けられていると考えられます。 さて、そんな優れた長編漫画家としての手塚を考える時に、私が特に推したいのは『きりひと讃歌』『奇子』の二作です。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「こうした、表情の唐突な変化等で内面を表現する手法は、同性愛や猟奇殺人をテーマにした後年の『 M W』(小学館「ビッグコミック」に、一九七六 ~七八年にかけて連載)などにも見られます。 もっとも同作では、同性愛者で、主人公の犯罪に協力させられている神父の心の葛藤といった内面的要素は入ってくるものの、ことさらそれが物語の推進力となるわけではありません。ただ、カトリックの神父という立場の主人公が、今で言えば「魔性のゲイ」的な殺人鬼にどうしようもなく惹かれていくという、苦悩と背中合わせの享楽を描く上ではきわめて効果的な設定です。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「お金があれば欲しいと思うし、女がいれば抱きたいと思う。誰もがそれぞれの立場から、胸に秘めた打算的な欲望を追求していきます。思惑は皆それぞれで、誰もが自己中心的に動くわけですが、それらが巧妙に絡み合い、複雑で魅力的なストーリーを生み出していくのです。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「これは私が臨床の現場で実感していることでもあるのですが、現代の若者世代では、物欲も性欲も、あらゆる欲望が希薄になりつつあります。お酒も飲まず車にも乗らない。地位や名誉への渇望も薄い。かつてのような「人間には性欲があって当たり前」みたいな発想は通用しにくい。彼らが、ギラギラと欲にまみれた『奇子』の登場人物たちを見て、心からの共感を覚えるのは難しいでしょう。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「 手塚は天才でありながら常識人だった、ということはすでに述べましたが、私はそれと同様に、メンタル的にもすごく健康な人だったと考えています。そのため、欲望に狂った人間を描いても、あるいは狂気そのものを描いても、精神科医として見ると、どこかステレオタイプなきらいがあったことは否めません。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「それではなぜ、手塚が漫画にポリフォニーを導入できたのか。私は、彼が真の意味で「教養人」だったからだと考えています。 私の考える教養人の定義というのは、知能の高さや、博識かどうかとはあまり関係なく、「知識を身体化できる人」、これに尽きます。知識を情報としてインプットするだけで終わらず、自身の身体性の中にそれを位置づけ、文字通り血肉化した上で、それをアウトプットできるかどうか、その能力を「教養」と呼んでいます。グーグル型の知性の対極に位置づけられるような知性のあり方、とも言えますね。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「教養人としての姿勢が早い段階で確立されたということが、手塚にとっての大きな強みだったのだと思います。彼にしか描けないキャラクターを作り上げながら、同時に自分の分身ではなく、外的な要素をあわせ持った、自律した人格として「存在」させ、その声、その存在、その関係から物語を紡いでいく──。そんな離れ業が可能だったのも、手塚が真の意味での教養人だったためではないか。「教養」が死語になりつつある今、そんなことを痛感しています。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「私は「文学的な意味で長編漫画を描けた人間は手塚しかいなかった」「キャラが引っ張っていく作品は、たとえ長くても長編とは呼べない」と言いました。これは、手塚が物語を創る上で、例外的にキャラに依存しない漫画家だったからです。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「個の死を肯定しなければ、種の存続は維持できないという、大きな視点に立った上での生命賛歌──こうした思想を持つに至った理由の一つには、彼が医学を学んだ人間であったことが大きく関係しているはずです。 医学や、医学教育というものは、それこそ膨大な人の死の上に成り立っています。例えば、解剖実習などはその典型ですが、遺体の献体なしには成り立ちません。薬品の開発にせよ手術の手技の開発にせよ、おびただしい「失敗」、すなわち人の死があってこそ発展してきました。 医学は、まさにそうしたたくさんの死の上に、個人の生命を存続させる技術として発達してきた歴史があります。ただ「命が大事」と言っているだけでは、医学というものは成り立たない。人が死ぬからこそ医学が発展していくという逆説は、まさに「個の死を肯定しなければ、種の存続は維持できない」という真理に通ずるのではないでしょうか。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「そんな僕が、手塚治虫に開眼したのは、『火の鳥』と出会ったのがきっかけでした。 あるとき中耳炎になって、自宅からは少し遠い耳鼻科の病院に通っていた僕は、病院のすぐそばの古本屋にたまたま入り、虫プロから刊行されていた大判・雑誌サイズの『火の鳥』が並んでいるのを見つけます。そのなかからふと「未来編」を手に取って、買って帰りました。 さっそく読んでみて、あまりにも強い衝撃を受けます。こんな漫画が世の中にあったのかという驚きと、強烈な感動のなかで読み終えました。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「小学校低学年の頃から、僕はすでに映画を物凄くたくさん観ていました。『カサブランカ(*)』のような名画から、当時のアメリカン・ニューシネマ(*)、『太陽がいっぱい(*)』やフランソワ・トリュフォー(*)監督作品のようなフランス映画、さらにはイングマール・ベルイマン(*)監督の神をテーマにした映画などまで、テレビや映画館で、ありとあらゆる洋画をひたすら見まくっていた。 そんなマセた映画少年からすると、漫画は面白いことは面白いけれども、映画ほどの感銘を受けるということはなく、やはりどうしても物足りません。ところが、手塚治虫の『火の鳥』を読んだときに、生まれてはじめて漫画で感動した。むしろ映画以上の感動を覚えて、とても驚いたのです。そして、「よし、とにかく手塚治虫を読みまくろう!」と、僕の心にいきなり火がついたのです。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「それからは、取り憑かれたようにその古本屋に通い詰め、まず虫プロの『火の鳥』を全巻買い揃えて、読破しました。そして、そこにある他の色々な手塚作品も、片っ端から買っては読んでいくことになります。なにせ古本屋ですから、一冊百五十円くらいと安かったので、小学生のお小遣いでも、どんどんゲットできました。 SF短篇シリーズの『ライオンブックス』などから、のちには『奇子』のような、大人の世界を描いた作品まで、そこで買って読みました。さすがに子供心にも「いま俺はエロティックなものを読んでいるな……」と思ったものです。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「女性たちは、サファイアが女だから王位を継承できないことに反対し、家事や育児をボイコットして、女性の権利を賭けて一丸となって戦い出したのです。まさにフェミニズム運動(*)そのもので、手塚先生がフェミニストの一面を持っていたことをうかがわせる描写と言えるでしょう。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「サファイアが王家の娘であるのに対して、ヘケートが魔女の娘であることも対照的です。 王家は社会的秩序やモラルの象徴であり、王家出身のサファイアは、当然モラルに従わなければいけません。しかし、ヘケートは悪魔の娘だから、モラルや規範を気にしない。自分がしたいことをしていい立場だから、自由奔放なキャラが成り立つのでしょう。 さらに言えば、ヘケートが母親のヘル夫人に逆らうのは、ずっと昔からある、親から娘への「女の子なんだから、おとなしくしなさい」「おしとやかにしなさい」という抑圧へのアンチテーゼです。 おそらく、当時『リボンの騎士』を読んでいた男の子っぽい女の子、今で言うトランスジェンダーの要素を持っていた女の子にとって、ヘケートの存在は救いだったのではないでしょうか。あの時代にこんな自由な女の子が描かれたのは、奇跡のようにすてきなことだったに違いありません。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「実は、結城と賀来は、男同士でありながら肉体関係を持っているのです。 結城は女装してもバレないほどの美貌の持ち主で、しばしば女性に扮して悪事を働きます。賀来神父は、それとは対照的な、いかつい顔の体格のいい男で、同性愛を神にそむく行為として嫌悪しつつも結城の誘惑に抗えません。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「あれほど同性愛を嫌悪し、結城を非難していた賀来神父が、実は先に手を出していた。こうなると、どちらが善か悪かなんて、一概には言えません。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「世間の常識に対する手塚先生のアンチテーゼは、『 M W』の重要なテーマである「同性愛」にも見てとれます。『 M W』が発表された七〇年代は、今よりも同性愛に対する世間の風当たりははるかに強かったはずです。そんななか、主人公の二人が同性愛の関係にあるという設定は、青年漫画とはいえ、少なからず衝撃的だったのではないでしょうか。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「結城は男の賀来だけでなく、異性とも肉体関係を持つバイセクシャル(*)です。自分の犯罪計画に必要な女性たちと関係を持ち、利用するだけ利用して、用済みになったら躊躇なく殺します。若い女性だけでなく、太った中年の外国人女性とも、その夫である中年の外国人男性とも、策略のためには平気で関係します。 もっと言えば、彼の相棒である凶暴なメス犬・巴と濃厚にたわむれるシーンもあります。ありとあらゆるタイプの男女、さらには人間以外とすらまぐわうことのできる、常識はずれのキャラクターなのです。「常識的」に考えると、性別も年代も問わず誰でも(獣でも)相手にするなんて、とんでもないことのように思えます。しかし、よく考えてみてください。相手を陥れるのはもちろんダメですし、獣は現実的ではないにしても、「誰でも性愛の対象にできる」ことの、いったい何が悪いのでしょう? 「中年の太った男性(女性)となんて、あり得ない」とか「若くてきれいな女性(男性)がいいに決まっている」などという「常識」は、誰が決めたのでしょう?」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「 こうした事情を理解して欲しいと思う一方で、性の問題は非常に複雑で、当事者ですらよくわかっていないことも多いのです。性的少数者を明確にジャンル分けするのは難しいし、彼ら彼女ら全ての性別をはっきりさせることにも無理があります。だから、「性はグラデーションなのだ」「曖昧なままでもいいじゃないか」と、分けられないものを受け入れる気持ちも大切なのではないでしょうか。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「それにしても、手塚はどのようなものを手がかりにして、このような『華厳経』的イメージへと至ったのでしょうか。 SF映画や小説などの影響もあるでしょうね。もしかすると、手塚が医学を学んでいたことにも関係しているかもしれません。手塚は一九六一年に医学博士号を取得していますが、研究テーマはタニシの生殖細胞に関するもので、博士論文のタイトルは「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」でした(*)。もしかしたら手塚は、超ミクロな生殖細胞を電子顕微鏡で観察しながら、そこに全宇宙の存在、全ての生命の根源を見ていたのかもしれません。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「手塚漫画には、ミクロな視点で個人の内面を描いた作品もあれば、『火の鳥』のようなマクロな視点で世界全体を俯瞰して描いた作品もありますが、こうしたミクロとマクロの両方に同時に視点を置くという姿勢も『華厳経』のものの見方と同じです。手塚のなかには、いくら個人の内面に注目しても、それだけでは多様な生命のすべてを照らし出したことにならないし、逆に全体ばかりに目を向けても、個を軽視するような方向に向かってしまう──という想いがあったのでしょう。手塚は類まれなバランス感覚で、「大きな生命の流れ」と「個別の人間の営み」の両方に軸足をおいて漫画を描き続けたと思われます。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「たとえば、『火の鳥』のなかに描かれている生命観や人間観や宗教観は、それほどユニークで独特なものだというわけではありません。これまでにもしばしば哲学や宗教思想や文学などでも語られてきたテーマなのです。しかし、実際に作品を読むと、もっと大きな気づきを感じる。あまりの壮大さに、めまいを起こすほどの力があります。異界へと連れて行かれてしまうような感覚になるほどの魅力があります。 では、なぜ言葉や文章にしてしまうと、それが伝わらないのでしょうか。なぜ、漫画にすると、ダイレクトに宗教性が伝わるなどということが起こるのでしょうか。それは、漫画は「記号」が多用される表現方法だからです。記号を使うとひとつのコマのなかに多くの情報を詰め込むことが可能となるため、奥行きのあるメッセージを一気に伝えることができるのです。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「多様な記号を駆使する漫画表現が宗教性を伝えるのに向いている──というと意外な感じがするかもしれませんが、じつはそれもある意味で当然なのです。なぜかというと、もともと宗教は象徴(記号)を使って宗教の体系を表現し、伝えるものだからです。たとえばキリスト教における十字架は、イエスの死と贖罪、復活と昇天などが凝縮して込められた象徴です。キリスト教の本質を端的に表す象徴なのです。キリスト教の信仰をもっている人は、十字架を見ただけでキリスト教そのものをダイレクトにキャッチします。密教における曼荼羅も同じです。曼荼羅は密教がもつ宇宙観を象徴表現で表したもので、これによって密教が説く世界を一気に伝えることができます。すなわち、成熟した記号の組み合わせを使う表現方法は、時に宗教性を発揮することが起こるということです。そうなると、非常に記号を発達させてきた日本漫画が、宗教性を発露することはむしろ当然のように思えます。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「私のまわりのお坊さんのなかにも「手塚治虫の『ブッダ(*)』を読んで仏教がわかった」という人が何人かいました。直截的に宗教を取り扱っていなくても、宗教性を発揮している漫画もあります。つげ義春の『無能の人(*)』などは、仏教的な価値観がただよっています。ジブリのアニメにも宗教的な感性が描かれていますね。この世俗社会の価値観を揺さぶる力をもっています。あるいは、私などは、さくらももこ(*)の『ちびまる子ちゃん』で描かれている、「登場人物にツッコミを入れる影の声」にも、仏教感覚を連想するときがあります。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「手塚は、このあまりにも悲しい物語のラストに、「私とあなた、敵と味方、損と得などといった枠組みが全部はずれた眼で観れば、この世界は光り輝いており、すべての生命は等しく美しいのだ」と言い放っているのです。本来、すべての生命はキラキラと輝いている。しかし、その輝きに蓋をしているのは私たち人間自身です。人間の「自分の都合にもとづくはからいや執着」が蓋をしているのです。我々は自分の都合というフィルターを通して認識しているので、生命本来がもっている輝きが見えないというわけです(すごく仏教的な解釈になってしまいましたが……)。」
—『別冊NHK100分de名著 わたしたちの手塚治虫』斎藤 環, 園 子温, 等著
「偉ぶらない、出しゃばらない、いばらない。 偉大な人ほど、いつも謙虚でいるものです。」
—『手塚治虫 壁を超える言葉』手塚治虫, 松谷孝征著