上村勝彦のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」(神の歌)。
本書を正しく理解するには、ヴェーダやウパニシャッド哲学、ヨーガの知識が必要不可欠。ゆえに難しい。
けれど、「果報を意図して、偽善のために祭祀を行う場合、それを激質的な祭祀であると知れ」「捨離により直ちに寂静がある」「欲望、怒り、貪欲。これは自己を破滅させる、三種の地獄の門である」といったあたりは、なるほどと思わせる。
老荘思想は、形ばかりで真心の伴わない儀礼を批判する。また、ありのままを受け入れる姿勢は、故加島祥造さんの詩集「求めない」を想起させるし、万物に宿るとするクリシュナ(本書ではシヴァ神と概ね同義)は、まさに八百万の神と似た -
Posted by ブクログ
まずもって、一読したくらいで全容を理解できるような書物ではない。いや、理解できる日など来るのだろうか。それでも、このバガヴァッド・ギーターには現代を生きる私達にとっても活きる教訓のかけらたちが散りばめられている。
たとえばサンニャーサ(放擲)行為者は行為にのみ意識を注ぎ、行為の結果は行為の根源であるブラフマンに返すという考え方。
とかく「成果を出さなければ」という圧力が、外からも自分の心の内側からも湧き上がってくる。その結果、「成果が出せそう」な手元のこじんまりとした範囲でできることを探してしまうことになる。
そうではなく、ひたすらに行為に意識を注ぐことこそが行為の結果、成果につながるのかもし -
Posted by ブクログ
『バガヴァッド・ギーター』(श्रीमद्भगवद्गीता)は、700行(シュローカ)の韻文詩からなるヒンドゥー教の聖典のひとつであり,ヒンドゥーの叙事詩『マハーバーラタ』第6巻にその一部として収められている。パーンダヴァ軍の王子アルジュナと,彼の導き手であり御者を務めているクリシュナとの間に織り成される二人の対話という形をとる。
本書は日本語で読めるものとしては定番であろう。本文はともかく,巻末の解説のまとまりが良い。
以下解説よりメモ:
知性のヨーガ,行為への専心,知性,ブラフマンの境地,行為の超越,プラクリティ,祭祀のための行為,知識の重要性,行為の放擲,行為のヨーガ,平等の境地 -
Posted by ブクログ
空洞化のうそ、ザ・フィフティーズおよびタオ自然学など、リファレンス多数。「神の歌」と訳されるタイトルのついた本書は、十八巻よりなる大叙事詩 マハーバーラタの第六巻に編入される、ヒンドゥ教でもっとも有名なインド古典とされている。
まえがき部分からどんどん神様が出てきて、がんがん子孫を産んでいく展開には、一瞬固唾を飲んだが、本編ではあらゆる迷いを断ち、本性から生ずる自己の行為にのみ専念することの重要性を説く。
オッペンハイマーも救いを求めた本書は、どこかアントニオ猪木の「行けば分かるさ」でも有名な清沢哲夫(暁烏哲夫)の「道」、あるいは般若心経と強い繋がりがあるように感じられた。 -
Posted by ブクログ
難しそう、、と勝手に読む前に思っていたがアルジュナとクリシュナの質疑応答形式になっているので、読みやすく内容も理解しやすかった。
最初は私もアルジュナと同じ迷い(なぜ人は殺し合わなければいけないのか。こんなにも良心が傷んでいるのに)があったが、聖バガヴァッドの言葉に勇気づけられた。自分のなすべきことに従い、知力を持って専心して行為を成せ。
常に万物が自己にあることを意識し、迷いを無くすことを求めよ。
善悪の価値観や、今まで信じていた自分の良心なんて捨てたとしても、この世は何も変わらない。
それならばなすべき事を一心に行為に移し、精一杯生きよ、と私はこの本から学んだ。
もちろんこれからも良心の葛 -
Posted by ブクログ
ネタバレ難解だが興味深かった。「行為の『放擲』」、すなわち行為の結果にあれこれ期待したり思いめぐらせたりしないことが善であり、また、行為は、成されることが決まってあるからその行為に専心すべしという考え方は、私の勝手な結びつけだけれど、ライプニッツと少しだけ通ずるものがある気がする。そしてこのギーターにてクリシュナは「私」を名乗っているが、専心によってクリシュナにたどり着いたものはかれに等しい、というのもなんとなくだが広がりを感じるなどした。他の神に対し信心、「行為の『放擲』」を行っているものも、じつはあらゆる神の基であるクリシュナに捧心している、というのも、私には、寛容に思われるような、気はした。以上