あらすじ
インド古典中もっとも有名な本書はヒンドゥー教が世界に誇る珠玉の聖典であり、古来宗派を超えて愛誦されてきた。表題は「神の歌」の意。ひとは社会人たることを放棄することなく現世の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能である、と説く。サンスクリット原典による読みやすい新訳に懇切な注と解説をくわえた。
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Posted by ブクログ
インドで最も有名な神様のクリシュナが、戦の寸前に戦そのものに意味を見出せず戦意喪失したアルジュナ王との対話形式で教えを説いた作品。
全体の半分が本編で、残り半分は訳注+解説となっている。
どうにか普通の暮らしの中でもヨーギン達の境地に近づけないだろうかと思っていたところ、『行為と行為の結果を放棄(ブラフマンに捧げる)しつつも自己の義務は果たすべきである』という点に救われた。
スピリチュアル界で言うところの"ワンネス"や"ハイヤーセルフ"などを真に理解したい人におすすめ。
ブラフマンに感謝を忘れず純質的な選択を心がけていきたい。
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第1章からいきなり戦争の話かと思いきや、戦うの相手というのは。。。自分の心を惑わす自分のあり方、というものです。ヨーガ・スートラや言霊学、もちろん仏教、釈迦の教えの理解を深める世界的名著。
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めちゃくちゃ丁寧に注釈が付けられている(およそ全体の半分程度)おかげで、栞2枚を片手にページを行ったり来たりしながら読み進めた。
大切な戦いを前に戦意を喪失したアルジュナに発破をかける神の言葉、という『マハーバーラタ』の一部分を切り取った作品ながら、現代の私たちにも大切な思想だと思う。
インド思想に触れたのはこれが初めてなので完璧にわかっているわけではないのだけれど、私はこの一冊をきっかけに、関連の書籍に手を出し始めました。
もう少し勉強してから読んだら、また見方が変わるのかもしれない。
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272P
インド古典中もっとも有名な本書はヒンドゥー教が世界に誇る珠玉の聖典であり、古来宗派を超えて愛誦されてきた。表題は「神の歌」の意。ひとは社会人たることを放棄することなく現世の義務を果たしつつも窮極の境地に達することが可能である、と説く。サンスクリット原典による読みやすい新訳に懇切な注と解説をくわえた。
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ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」(神の歌)。
本書を正しく理解するには、ヴェーダやウパニシャッド哲学、ヨーガの知識が必要不可欠。ゆえに難しい。
けれど、「果報を意図して、偽善のために祭祀を行う場合、それを激質的な祭祀であると知れ」「捨離により直ちに寂静がある」「欲望、怒り、貪欲。これは自己を破滅させる、三種の地獄の門である」といったあたりは、なるほどと思わせる。
老荘思想は、形ばかりで真心の伴わない儀礼を批判する。また、ありのままを受け入れる姿勢は、故加島祥造さんの詩集「求めない」を想起させるし、万物に宿るとするクリシュナ(本書ではシヴァ神と概ね同義)は、まさに八百万の神と似た性質を持つ。以上浅薄な理解だけど、こう考えるとヒンドゥー教も案外身近に感じられる気がする。
一回挫折した「リグ・ヴェーダ」も通読したい。
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まずもって、一読したくらいで全容を理解できるような書物ではない。いや、理解できる日など来るのだろうか。それでも、このバガヴァッド・ギーターには現代を生きる私達にとっても活きる教訓のかけらたちが散りばめられている。
たとえばサンニャーサ(放擲)行為者は行為にのみ意識を注ぎ、行為の結果は行為の根源であるブラフマンに返すという考え方。
とかく「成果を出さなければ」という圧力が、外からも自分の心の内側からも湧き上がってくる。その結果、「成果が出せそう」な手元のこじんまりとした範囲でできることを探してしまうことになる。
そうではなく、ひたすらに行為に意識を注ぐことこそが行為の結果、成果につながるのかもしれない。賽は投げられた、果報は寝て待て。
この岩波文庫版は解説が充実している。また、本書の背景となるマハーバーラタについてもかいつまんだ説明がなされている。バガヴァッド・ギーターとはなんぞや、という興味をもったときに手に取る一冊として最適なのではないか。
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『バガヴァッド・ギーター』(श्रीमद्भगवद्गीता)は、700行(シュローカ)の韻文詩からなるヒンドゥー教の聖典のひとつであり,ヒンドゥーの叙事詩『マハーバーラタ』第6巻にその一部として収められている。パーンダヴァ軍の王子アルジュナと,彼の導き手であり御者を務めているクリシュナとの間に織り成される二人の対話という形をとる。
本書は日本語で読めるものとしては定番であろう。本文はともかく,巻末の解説のまとまりが良い。
以下解説よりメモ:
知性のヨーガ,行為への専心,知性,ブラフマンの境地,行為の超越,プラクリティ,祭祀のための行為,知識の重要性,行為の放擲,行為のヨーガ,平等の境地,ブラフマンとの合一,ヨーガに登った人,専心した者,常修と離欲,理論知と実践知,神のヨーガ,真の知識は信愛により実現する,至高の知識
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インドの古典哲学。ここに東洋哲学の源がみられる。多くの僧が学んできたことはここに礎があるように思う。ここには、色即是空に通じるものもあればポアの思想として悪用された原形もある。それくらい幅広く東洋的な哲学が展開されている。仏教徒にとっての旧約聖書のように思う。これが、あの思想や教えに繋がったのかたくさん発見がある書だと思う。
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確かに魅力的な聖典で、短いおかげで何度も再読したくなる。ヨーガやってる人は読んでおいて損はないし、インド文化、インド哲学における「実践」ということを考察するには必読。
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ガンジーの愛読書だったそう。
要約すると、戦争で親戚と戦うことに戸惑うアルジュナをクリシュナが戦うように勧めるという話。対話形式。
ただその進め方が深くて面白い。
生命の永遠性や、放擲・捨離の観点、無始無終、過去現在未来に偏在する神(ここではブラフマン)
仏教とすごく近いと感じた。
アルジュナの束縛は「生」への執着ととらえると、クリシュナが戦えと促すことに納得がいった。
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空洞化のうそ、ザ・フィフティーズおよびタオ自然学など、リファレンス多数。「神の歌」と訳されるタイトルのついた本書は、十八巻よりなる大叙事詩 マハーバーラタの第六巻に編入される、ヒンドゥ教でもっとも有名なインド古典とされている。
まえがき部分からどんどん神様が出てきて、がんがん子孫を産んでいく展開には、一瞬固唾を飲んだが、本編ではあらゆる迷いを断ち、本性から生ずる自己の行為にのみ専念することの重要性を説く。
オッペンハイマーも救いを求めた本書は、どこかアントニオ猪木の「行けば分かるさ」でも有名な清沢哲夫(暁烏哲夫)の「道」、あるいは般若心経と強い繋がりがあるように感じられた。
Posted by ブクログ
難しそう、、と勝手に読む前に思っていたがアルジュナとクリシュナの質疑応答形式になっているので、読みやすく内容も理解しやすかった。
最初は私もアルジュナと同じ迷い(なぜ人は殺し合わなければいけないのか。こんなにも良心が傷んでいるのに)があったが、聖バガヴァッドの言葉に勇気づけられた。自分のなすべきことに従い、知力を持って専心して行為を成せ。
常に万物が自己にあることを意識し、迷いを無くすことを求めよ。
善悪の価値観や、今まで信じていた自分の良心なんて捨てたとしても、この世は何も変わらない。
それならばなすべき事を一心に行為に移し、精一杯生きよ、と私はこの本から学んだ。
もちろんこれからも良心の葛藤や、こうなってほしいという願いは次々に出てくるだろう。
でも少しだけ、始まりも終わりも無く、全ては無に帰ると思えたら、心の乱れも少なくなるのかも。
Posted by ブクログ
難解だが興味深かった。「行為の『放擲』」、すなわち行為の結果にあれこれ期待したり思いめぐらせたりしないことが善であり、また、行為は、成されることが決まってあるからその行為に専心すべしという考え方は、私の勝手な結びつけだけれど、ライプニッツと少しだけ通ずるものがある気がする。そしてこのギーターにてクリシュナは「私」を名乗っているが、専心によってクリシュナにたどり着いたものはかれに等しい、というのもなんとなくだが広がりを感じるなどした。他の神に対し信心、「行為の『放擲』」を行っているものも、じつはあらゆる神の基であるクリシュナに捧心している、というのも、私には、寛容に思われるような、気はした。以上はすべて主観であることをお断りしておく。
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「私は決して存在しなかったことはない。あなたもここにいる王たちも…。また我々はすべてこれから先存在しなくなることもない」輪廻転生を説くヒンドゥー教典のひとつ。敵に親族がいることで躊躇う戦士アルジュナに、クリシュナは言う。殺しても肉体が消えるだけで本性は消えない。だから殺すことを躊躇う必要はない、と。そしてアルジュナは戦意を呼び覚ます。死をネガティヴに捉えると、これは政治的宗教的狂信者であり悪であり狂となる。ほとんどの宗教が死をマイナスに捉えないのでこの考えが真実となり、大義のための宗教戦争は躊躇なく繰り返される
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聞き慣れない言葉と格闘しながらなんとか読み進めた。解説、さらに松岡正剛氏のサイトを読んで、ようやく内容がこなれて理解できてきたところ。大切なのは誠実に生きること。古典は良い。
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まえがきの家系図の理解に半日以上かかり挫折しそうになったけれど、時間をかけた甲斐があった。身体がある以上行動しなければならない。その中で結果や欲望や執着を手放すことが大切なんだなぁ。ヨーガを健康のためにやりたいと思っているけれど、心の垢を手放すためにやってみたいと思った。もう少し理解できるようになったら、また読みたい。
Posted by ブクログ
ヴァルナ、ジャーティー、ダルマ、ヨーガ、アートマン、ブラフマン、ニルヴァーナ、バクティ、カルマ、プルシャ、マナス、等々、仏教を含むインドの思想で学ぶ言葉が、ヒンドゥー教の聖典では実際にはどのように用いられるのか。それを垣間見ることができる。内容は繰り返しが多いので、言わんとしていることの大枠が理解できていればさほど難しくない。訳注、巻末解説も有用。
Posted by ブクログ
この世に生まれたからには、定められた行為に専念する事。
あらゆる者の身体にあるこの主体(個我)は、常に殺されることがない。それ故、あなたは万物について嘆くべきではない。
もしあなたが義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉を捨て、罪悪を得るであろう。
相対を離れ、常に純質に立脚し、獲得と保全を離れ、自己を制御せよ。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してもならない。
執着を捨て、成功と不成功を平等のものと見て、ヨーガ(実践)に立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地。
愚者が行為に執着して行為するように、賢者は執着する事なく
、世界の維持のみを求めて行為すべき。
賢者は専心して行為しつつ、愚者達をして一切の行為にいそしませるべき。
諸行為は全てプラクリティ(根本原質)の要素によりなされる。我執(自我意識)に惑わされた者は、「私が行為者である」と考える。しかし、要素と行為が自己と無関係であるという真理を知る者は、諸要素が諸要素に対して働くと考えて執着しない。
思考器官(マナス)は諸感官より高く、思惟機能(ブッデイ)は思考器官より高い。そして、彼(個我)は思惟機能よりも高い。自らの自己(アートマン)を確固たるものにして、欲望という難敵を殺せ。
自ら自己を克服した人にとって、自己は自己の友である。しかし、自己を制していない人にとって、自己は敵のように敵対する。
梵天(ブラフマー)の世界に至るまで、諸世界は回帰する。だが、
神に達すれば、再生は存在しない。
非顕現なものに専念した人々の労苦はより多大である。全ての行為を神のうちに放擲し、神に専念してひたむきなヨーガによって神を瞑想し、念想する人々は、生死流転の海から救済される。
神に知性を集中せよ、それができないなら常修のヨーガによって神に達する事を望め。もし、それもできないなら、神の為の行為に専念せよ。神の為に行為をしても、あなたは成就に達するであろう。もし、それもできないなら、神へのヨーガに依存して、自己を制御し、全ての行為の結果を捨てよ。
知識は常修より優れ、瞑想は知識より優れ、行為の結果の捨離は瞑想より優れている。捨離により、直ちに静寂がある。
全ての者に敵意を抱かず、友愛あり、哀れみ深く、「私のもの」という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、
常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、神に意(こころ)と知性(ブッデイ)を捧げ、神を信愛する事。
苦楽を平等に見て、自己に充足し、土塊や石や黄金を等しいものと見て、好ましいものと好ましくないものを同一視し、冷静であり、非難と賞賛を同一視する。尊敬と軽蔑を同一視し、味方と敵を同一視し、一切の企図を捨てる。このような人が要素を超越した者と言われる。
世界には二種のプルシャ(人間)がある。一つは可滅のもの。可滅のものは一切の被造物。不滅のものは揺るぎなき者と言われる。しかし、実は三つ目のプルシャがあり、それは最高のアートマンと呼ばれる至高のプルシャ。
なすべきであると考えて、定められた行為を、執着と結果とを捨てて行う場合、それは純質的な捨離である。
最初は毒のようで結末は甘露のような幸福、自己(アートマン)の清澄さから生ずる幸福は純質的な幸福である。感官とその対象の結合から生じ、最初は甘露のようで結末は毒のような幸福。それは激質的な幸福である。最初においても帰結においても、自己を迷わせる幸福、睡眠と怠惰と怠慢から生ずる幸福、それは暗質的な幸福である。
何ものにも執着しない知性を持ち、自己を克服し、願望を離れた人は、放擲により、行為の超越の最高の成就に達する。
神に最高の信愛を捧げ、神の信者達の間にこの最高の秘密を説く人は、疑いなく神に至るであろう。
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有名なインド叙事詩『マハーバーラタ』の一部。インド思想は多様で複雑だけれど、ここにエッセンスがギュッと凝縮されています。
ヒンドゥー教と聞くととっつきにくいけれど、行為の結果に執着することをやめよ、ただ神のために心を注ぎ、正しい行いをせよ、という教えは、仏教よりも分かりやすく受け入れやすいもののように感じます。
読み物としても面白く、人間の姿(仮)をしていたクリシュナが最高神であるところの真の姿を現わす場面はシビれます。インドの神様は説得力がすごい。強い。
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行為に専心することに人の幸福があるという哲学を説いたインド思想の名著。
詩的表現の美しさとあいまって不思議な魅力を放っている。
ある種カースト制度の維持に欠かせない根本思想となっていた側面もあり、批判的な言説も多いが、ここまで人を魅きつけるのは一定の普遍性を帯びたメッセージがあったからであろう。
ともすれば、自由意志の放棄とも取られかれない主張でもあり、そのことが批判を生み出しもしたが、カウンターカルチャーという文脈からは強力な言説にされもした。
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バガヴァッド・ギーターは、マハーバーラタの一部。
聖バガヴァッドとアルジュナとの対話。それをサンジャヤが王に報告している様子。
聖バガヴァッド=ヴァースデーヴァ=クリシュナ(人間の姿)、ということでよいのかな。
結果に執着せず、行為に専心せよ。
やたら聖バガヴァッドを褒め称える内容で、だんだん滑稽に思えてくる。私の理解が浅すぎるからかもしれないが。注釈をちゃんと読まないと理解には遠そうだ。
ヒンドゥーのカタカナ語が多いので、もっと意訳してほしいとも思ったが、それを岩波文庫に期待するのはナンセンスか。
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東洋的な知恵。という観点からは、タオイズムなんかとあわせて、読んでなきゃ話しにならない的なムードが漂う古典。
その影響は、インド文化圏にとどまらず、広く世界中で愛読者がいるらしい。60年代のヒッピームーブメントでも、結構、人気の本だったんじゃないかな。 John Lennonの歌詞の中に「私はギータを信じない」というのが確かあったはず。
というわけで、前から気になっていたのだが、なんとなく読んでみることに。
戦争で親戚一同を敵にまわして戦わなければならない状況で、悩み戦意を喪失したアルジュナにクリシュナが、究極の教えを授けて、戦いの赴かせるというシチュエーションは大変ドラマティックだし、社会的な現世の努めを果たす事と悟りに至る道が両立することを示していて、その辺は、とても共感するのだが。。。。
けど、なんだかやっぱり分からないなー。解説を読んで、なんとなく分かったように気になるけど、本文を読んでもそれ以上の感想はでてこない。
Posted by ブクログ
行為の結果を動機とするのはやめて、ひたすら行為そのものに集中しなさい…。
こんな至言をあんな昔に思いついたインド、やっぱ哲学的にはチートだと思う。みんな救え!とか見捨てるな!とか言ってる時に「救われるかどうかに意味はない、ただ宇宙のあるがままと同一になりなさい」とか…。頭では解るけど難しすぎ。読んだあと無性にマニカルニカー・ガートに行きたくなった。あそこはヒンドゥー教の聖地だけど。
Posted by ブクログ
これを読まずしてインドは語れないと言われ手にとった。「バガヴァッド・ギーター」(神の歌)は、ヒンドゥー教の古典の中でももっとも有名なもので、大叙事詩「マハーバーラタ」」に収められた。
簡単に言うと、「結果を考慮せず絶対者に委ね、行為そのものを目的とせよ」として、身内の殺し合いを正当化するお話。
冒頭のまえがきでストーリーの前提が説明されるが、登場人物がとても多く、名前を覚えるだけでも大変だ。
頭を使うな、という点は、オウム真理教の「頭をとる」修行や、人生の重要な事をしきたりで決定するシーク教を始めとする多くの原理主義宗教でも見られる。日本のオカミ意識や、製造業にも同様の傾向は見られる。
これらの文化では、マスのそれぞれは重要な選択を行わないことを善とする。しかし、選択が制限されていながらも、いやだからこそ自己決定感が強い傾向があるのも興味深い。
また、「考えるな」とは説くが行為は継続しろという。これは、老荘の「無為にして為さざるは無し」にも通じる。何も考えず、社会人として目の前の事にだけ集中してあくせく働きさえすれば、悟りに達して幸せになれる。
フロイトも、性倒錯は、行為と対象の分離によると指摘している。
こんな事と、個人主義のまん延と、「一人一人が考えよう」「みんなの〇〇」などという言説を見ていると、何が個人の幸せで、何が社会集団的に正しく、またそれを丁度よいバランスで実現する意思決定システムとはなんぞやと思うと、民主主義や市場メカニズムに付与しなければならない制約(という名のイデオロギーなのだが)を考える上でのヒントになるような気がしてくるけれど、集団の規模や設定する期間(と継続性)によって、解はおおきく違ってくるわけで(それも境界で急変したりする)、結局は何がいいかなんて、論理的にはわからない。
みんなが考えれば世の中が良くなるなんて、まだ私には信じられない。