マックス・ヴェーバーのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
社会学は多元論。〜宗教、経済の因果は単純ではない〜
■所感と評価
ウェーバーは多元論を用いるが単純化しないと理解難しいので、あえて単純化すると「天職を全うするという倫理が世俗内に広まった結果、富の蓄積につながり、皮肉にも営利主義→資本主義の精神を生んだ」と強引に解釈できる。ただこれだと語弊があり過ぎるので、様々なキーワードの定義とそれらが生まれた背景と与えた影響を丁寧に見ないといけない。
そもそも我々は戦後のパラダイムやレジームが当たり前の様に感じるが、歴史で見るとまだまだ浅く、今後新しい概念が何から生まれるかは非常に複雑であり、単純にVUCAや情報化社会といったことからだけでは予測できない。まして16〜17世紀の宗教改革が資本主義精神を生む"一翼を担った"(あくまで一要素)のは誰も想像できなかっただろうし、そもそも資本主義という概念すら当時はなかったはず。
★すぐに役立つ知識は皆無でまさに教養。イージーカムイージーゴー。時々あえて本書の様な役立たないが世の本質をあらゆる角度から切りまくる本を読むことで、本質は何かを抽象的に考える力を身につけていきたい。
非常に読みづらい。もう少し簡単な言葉で訳してくれたらいいのに、と思いつつも正確にウェーバーの意図を汲むとこうなるのだろう。訳者解説が非常に丁寧でわかりやすいので、①ざっと全体読む→②訳者解説→③精読すると理解が深まりそう。
おそらく内容的には最高の古典なのだが、いかんせん理解が難しく評価は普通となった。
■概要 〜めちゃくちゃざっくり〜
・カトリックには世俗内的禁欲はなく、修道主義の様な世俗外的な禁欲。ここで言う禁欲は何かを控える修行僧的なものではなく、ひたすら何かに打ち込む"行動的禁欲"。
カトリックの修道的な考えだと「祈り働け」が有名。
・それがルターの訳や宗教改革によって天職という概念となって表れるのだが、ややこしいことにルター派の禁欲はまだプロテスタントの倫理に直接は影響しない。
・その後のカルヴィニズムやピュウリタズムの中で天職やら世俗内的禁欲が広まることで、働く→富が増える→でも浪費しない→ますます富む。これが資本の蓄積を生んだ。
・やがて(ここが飛躍してるように思えるが、自分の中で説明できていないだけで、ちゃんと書いてあるんだろうけど)近代資本主義がいよいよ外から、ー上記の倫理(エートス)からくる行動は「内面的」ー資本の蓄積と消費ではなく再投資を促すことで、Protestantismの倫理や資本主義の"精神"なるものを必要とせず、ただただ近代資本主義的な行動が残ったのだという
・マルクスの唯物史観とは一線を画すものの、唯物史観批判のために書いたというのは的外れの論評。ウェーバーは多元論(ゆえに注釈が多い)を駆使しつつ、その中でもプロテスタントの倫理・エートス、天職観念に着目しただけ。資本主義の精神を宗教改革に見出した、という単純なものではない。(だから話が複雑) -
Posted by ブクログ
もうずいぶん昔のことになるのですが、池上彰さんが選挙特番で小泉進次郎議員を取材した際に話題にしていて、気になっていた本書。
ちょうど夏に文庫フェアが開催されていて、比較的ページ数が少なめだったこともあり、気軽な気持ちで手にとってみました。
著者のマックス・ヴェーバー(1864-1920)はドイツの政治・社会・経済学者。
本書は彼が1919年に行った学生向けの講演が元になっています。
当時のドイツは、第一次世界大戦での敗戦後、ドイツ革命と後に呼ばれた動乱のさなか。
・「政治」とは「権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である」
・「国家」とは、「ある一定の領域の内部で(中略)正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」
との定義のもと、ドイツの現状を批判的に捉えながら、職業としての政治はどうあるべきかが述べられています。
まわりくどいところが一切なく、はっきりしていて、「直截」という表現がぴったりくるヴェーバーの文章。
なかでも、職業としての政治に身をささげる人間は、「信条倫理」と「責任倫理」のパラドックスに挟まれることになる、という部分が心に残りました。
理解しきれていないかもしれないけど、「信条倫理」は、自分が正しいと信ずるところを行って結果は神に委ねること、「責任倫理」は、人間の欠陥のあれこれを計算に入れること、つまり結果のためには時として手段を選ばない、ということかなあ。
そしてヴェーバーは「信条倫理家はこの世の倫理的非合理性に耐えられない」と指摘しています。
私は別に政治を職業にしているわけではないけれど、自分には「信条倫理」に偏ったところがあるかも、と読みながら少しぎくっとしました。
正しいと思うことに則って行動すること自体は良くても、それが独善的になったり、結果に結びつかなかったりする場合もあることに、注意しないとなあ。
「修練によって生の現実を直視する目をもつこと。生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力をもつことは欠かせない条件である」という言葉がヒリヒリと沁みました。
もうすぐ、衆議院議員選挙がありますね。
投票した議員が必ず当選するわけでもないし、自分の望みが政策に反映されることも果てしない道のりで、それが「生の現実」ではあるけれど……ヴェーバーにならって「それにもかかわらず!」と心の中で唱えながら、投票所に行ってこようと思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ世界史や思想史で頻繁に言及される本書。高校時代や予備校で耳にしたことがある方も多いと思います。で、その趣旨たるや、「天が授けた過分の賜物。この賜物を用いて天職を全うし蓄財することこそ神の栄光に適う行為である。そしてこのエートスこそ、近代資本主義の一因となった。」
こんな感じだと思います。
私は、まっさらな状態から本を読みだすというより、本当に上記のようなことが書いてあるのかな、と探り探り読んでいく形のアプローチをとってみました。
その点で結論を言えば、大体書いてあった。こう言えると思います。
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その中でも、本書での一番の出色は、資本主義の発展(「お金」)とプロテスタントの倫理規範(「清貧」)という、いわば逆説的な二つの概念が実は通底する、というダイナミズムだと思います。
カトリックでの修道院出家生活と世俗の生活(プラス贖宥状で罪を拭う)という二分法的分類ではなく、プロテスタント各派の世俗内倫理の徹底と「天職(Beruf)」という職業倫理との徹底という世俗一元的な在り方との違いはきっちり書かれていたと思います。つまり、プロテスタント的生活においては、神様のために慎ましい生活をする(節約する)、そして神様のために仕事頑張る(「天職」)、その結果お金溜まる、と。いわゆる在家においても清い生活を実践することで神への道を全うする。
この命題を明らかにすべく、詳細な宗派分析とプロテスタント文学からの例証がなされています。ルター派、カルヴァン派、メソジスト、長老派、クウェイカー等々。
このあたりの詳細はキリスト教の勉強の足りない私にはちんぷんかんぷんでした。そう、本書のダイナミズムを味わうためには神学、わけても聖書理解が必要だと思い知りました。そもそもプロテスタントの宗教改革は、誤解を恐れずに言えば聖書主義から始まったことを鑑みれば、その聖書の基本的理解がなければ本書の理解もおぼつかないと言えると思います。新訳も旧約も適当にしか読み込んでいないと本当に厳しい。
あと、プロテスタンティズムが蓄財と結びついていた点はわかりましたが、近代資本主義の発展とどこまで結びつくかについては通読一回だけではよくわかりませんでした。つまり事業の拡大や発展・再投資についての分析はあまりなかったかのように思いました。
本書の主張に沿えば、再投資や事業拡大も神の意志に沿うべきなのですが、プロテスタントがその再投資の方針・分量などをどのように判断したのか気になりました。
ただかすかに最終段で、米国について、世俗の禁欲的倫理が忘れ去られ職業倫理が残ったことがシニカルに描かれていました。
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久しぶりにドイツ系の思想本を読みました。
実に読みにくい。そして、注釈が長い!注釈に大事なことが書いたり、批判者に批判返ししてたり笑 訳者の大塚氏は相当頑張ったのだと思います。原文は見ていませんがそう感じました。
哲学、社会学、宗教学、神学、ドイツ文化、キリスト教等々に興味がある方は何とか読めると思います。ただ、内容をよりよく理解するには聖書の通読(新約・旧約あわせて)数回しておくとよいと思いました。私も聖書を読んだらまた読んでみたいと思います。 -
Posted by ブクログ
禁欲(清貧・純潔・服従)を守りながら、勤労にはげめ。祈り、働け。『ベネディクトゥス戒律』539 ※モンテ・カシノ(伊の中部)の山の上にある修道院。
あなたが神に救われるか、救われないか。それは神によってすでに決められている(カルヴァン予定説)。あなたの運命はすでに決まっている。この世での善行は関係ない。儀礼(サクラメント)をしても救われる保証はない▼人は自分が救われるのか分からない。不安。孤独。自分は神に選ばれた人間だと確信したい。欲望を克服し、自然からできるだけ遠い地点に行くことができる。それは選ばれた(救われる)人間にしかできないはず▼禁欲に勤めよう。職業労働を頑張ろう。安息日以外は週6日働きづめ。富はあくまで神と自分との関係を示すしるしであり、欲望を充たすものではない▼享楽的な消費はしないのでお金が手元に残る。それを再投資して事業が拡大。利潤を最大化する最も合理的な方法を考える。近代資本主義を生み出したのはこうした精神▼しかし資本主義が発展するにつれて、神との関係・禁欲は忘れ去られ、営利・快楽の追求が目的となっていく。『倫理と資本主義の精神』1904 (95)
アメリカは多民族・多宗教であるが、アメリカで生まれて暮らしていると、個人の宗教とは関係なく、特定の信念・価値感(civil religion)をもつようになる。ロバート・ベラーBellah『Civil Religion in America』1967 -
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マックス・ヴェーバー(1864~1920年)は、ドイツの政治・社会・経済学者。社会学の第二世代を代表する学者で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年)は、社会学の名著として有名である。
本書は、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)終戦直後の敗戦国ドイツの革命的状況の中で、著者が死去する前年の1919年1月に、ミュンヘンで大学生向けに行われた講演(更にパンフレットとして出版され、死去後『科学論論集』に収められた)の邦訳である。(姉妹編の『職業としての学問』もほぼ同じ時期のものである)
本書でウェーバーが言わんとしたことは、大まかにいえば以下である。
◆「政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中・・・であれ、ようするに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である。」
◆「ぎりぎりのところ道は二つしかない。「マシーン」を伴う指導者民主制を選ぶか、それとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。」
◆「政治家にとっては、情熱、責任感、判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。」「政治家は、自分の内部に巣くうごきありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服していかなければならない。この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観的な献身と距離にとって不倶戴天の敵である。」
◆「人が信条倫理の準則の下で行為するか、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である。」「およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。」
◆「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわじわっと穴をくり貫いていく作業である。・・・自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が-自分の立場からみて-どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。」
信条倫理と責任倫理は両立し得ないこと、政治は「暴力」であることを明らかにした上で、「それにもかかわらず」の精神を持った人間のみが政治を行うことができるとの主張は、高度な普遍性を持ち、現代においてもその重要性が薄れることはない。
翻って、現代の世界・日本を見回してみて、この天職を持った政治家がどれほどいるかと考えたとき、絶望的な気分になるのは私だけではないだろう。ヴェーバーが今の世界を見たら、どんなことを言うのだろうか。。。
(2020年11月了) -
Posted by ブクログ
ネタバレライフワークやキャリアデザインという言葉がもてはやされている。少し違和感があったし、日本と西洋の企業の職務分担がどうしてこうも違うのか不思議だった。
本書では宗教改革により、腐敗した教会・修道院に反する立場から世俗の労働が尊重されるようになり、カルヴイニズムでは救済されていることを常に自己審査し証明するために労働が信仰の手段として組織化・合理化をたどった説く。
富の追求を目的とすることは邪悪だが、敬虔な労働に勤しんだ結果富を成すのは神の恩寵だという!
西洋の労働観がどのように生まれ資本主義に組み込まれ現在に至るのかその源流を紐解いてくれる。そしてアメリカでこの禁欲的労働観は救済の証明という宗教的・倫理的側面を削ぎ落とし強力な秩序を形成する。
大変興味深かった。さらに、世界でも異常なぐらい時間に厳しくもっとも成功した社会主義国と一時は呼ばれた日本は戦争に破れ文化的・伝統的指針から切り離された所に、アメリカからのプロテスタンティズムが真空状態で完全に宗教から切り離されて流れ込み、それゆえに資本主義国家として成功できたのではないかと思ってしまう。良質で勤勉な労働力を持つことに成功した、という意味で。 -
Posted by ブクログ
初の古典。とにかく日本語が意味がわからない。最後の解説から読めばよかったと読み終わったあとに気づく。
解説いわく、宗教的な強制的禁慾という精神が、本当の意味での資本主義を形成していき、最終的にな宗教的倫理観に基づく禁欲行動が形骸化してしまい、鉄の檻として、自分たちを資本活動に邁進させてしまっている。そんな分析をしている本だと分かった。
鉄の檻という言葉を使っているから、ヴェーバーは資本主義の活動自体を、生活を制限するものとして考えていたのかな?とか考える。
ただの漢字と平仮名に目を通す作業だったが、背景がわかったうえでもう少し読んでみても面白いのかもしれない