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日本に昔からある森田療法はアメリカで今流行してるマインドフルネスを包括してるらしい。アメリカで東洋思想が流行るってことは西洋思想の行き詰まりなんだよね。むしろ日本の方がアメリカよりも進んでるから残念ながら。日本より後進のアメリカを見習えって意味わからない。あんな300年近い歴史しか持たない国とは訳が違うから。
北西 憲二
1970年東京慈恵会医科大学卒業。1972-74年スイスバ-ゼル大学・うつ病研究部門に留学。1979年から1995年まで慈恵医大第3病院で森田療法の実践と研究に従事。その後成増厚生病院を経て、現在森田療法研究所所長・北西クリニック院長。著書に『実践 森田療法』、『森田療法のすべてがわかる本』(講談社)など。
はじめての森田療法 (講談社現代新書)
by 北西憲二
皆さんは、「森田療法」と聞いて、どのようなイメージをもつでしょうか。宗教的色彩の強い、特に禅との関係が深い精神療法、などでしょうか。 少し詳しい方は、西欧で発展した対話による精神療法とは異なり、臥褥療法(入院して、遮断的環境で一週間は、ひたすら床に臥していること)、患者さんの悩みを不問として、作業への取り組みを指導する修行的な精神療法とイメージするかもしれません。そして自分には、あまり関係がないな、と思われるかもしれません。
渇愛は自分と他の人に執着する欲望です。これらの過剰な欲望に基づく生き方の背後には、他人の目線にとらわれた受け身な生き方があります。悩むのは、人からの評価で自分を見ているからです。人に良く思われたいと気を遣い失敗を恐れてばかりいては、元から持っているはずの生きる力、その人本来の「あるがまま」を発揮できません。
森田療法を生み出した森田正馬は東洋の知恵に通じた人でした。その人生の軌跡をたどることから、森田療法の持つ知恵を説明したいと思います。
森田正馬(明治七年・一八七四年生まれ─昭和一三年・一九三八年没) が生まれ育った時代とはどのような時代だったのでしょうか。
明治・大正の時代は、異文化がぶつかり合う時代でありました。圧倒的な力をもった西欧文化・文明が日本に導入され、日本人の価値観や行動様式を根本からゆさぶったのです。森田療法の成り立ちとその人間理解を知るには、この時代の日本の知識人が経験した西欧文化との関わりと葛藤に目を向ける必要があります。明治・大正期の心ある知識人、哲学者、宗教学者、精神医学者は、一方で西欧的なものを積極的に取り入れ、他方では東洋の知恵を再発見して深化し、新しい学問体系を作る 糧 としました。
またこの時代は神経衰弱の時代です。社会体制や価値観が大きく変化することで、人々の流動性も飛躍的に増え、田舎から都会に移住してそこで教育を受け、職業につく人たちも増えてきました。このような時代には人々の不安、ストレスが高まります。それが「神経衰弱」という病の流行として現れてきました。これは現代の言葉で言えば、不安、抑うつ状態に該当します。この「神経衰弱」という概念はすでにありませんが、ある意味ではうつ病が国民病の一つとなっている現代を 彷彿 とさせます。
森田は、若年期からその神経衰弱に悩み、その解決に心血を注ぎました。
森田は高知県(土佐) の生まれです。 森田正馬は明治七年(一八七四年)、森田家の長男として生まれました。 森田の人生の背景はやや複雑です。 父 正文 は、二一歳のときに森田家の養子となり、森田の母 亀 女 と結婚しました。妻より四歳年下です。母亀女は、一九歳のときに結婚して長女をもうけましたが、夫婦仲が悪くて離婚、二五歳で正文と再婚しました。
郷士出身者の父正文も、誠実で他人にへつらうことが嫌いな正直者で、虚栄を嫌う人であったといいます。独立自尊の精神をもち、自分の家を自分で作り、それまで経験のなかった農作業を独力で行いました(野村章恒『森田正馬評伝』白揚社、一九七四年)。そして正馬に対して、厳しいしつけをしました。農作業を行う際は、細かい観察を行い、農作物の収穫に役立てたということです。正馬の細かく精神現象を観察しそこから理解しようとする態度は、父親似でしょう。
また執着気質は、愛する対象への執着が強い人でもあります。母が正馬に強い愛情を向け、息子を誇りとし、その世話を人生の最優先課題としたことは疑いもない事実です。たとえば正馬が大学に入って上京した次の年には、新婚の妻 久 亥 ではなく母親が彼の世話をしました。郷里に夫や他の子どもたちを残しても世話しなくてはならないと思うほど、母親にとって正馬は「特別な子ども」でした。
無事に学費を父親に出してもらうことに成功した森田は、学業にも精を出すようになり、中学時代よりはるかに成績は良くなりました。そして、当時の若者らしく青春を謳歌しました。土佐出身者の集まりである土佐会の幹事となり、多くの友人と交わっていたようで、周囲からは変人、ひょうきん者と見られていたようです。 一方で、中学時代に増して、年に数回パニック障害の発作を起こしました。二三歳のときには、何か言おうとすると心臓が止まるような激しい恐怖に襲われ、驚いた母親が医者を呼んで、やっと落ち着きを取り戻すということもありました。
幾度となく死の恐怖を体験したことから、医学を志し、なかでも精神医学を専攻したいという思いを強めていきました。 また同時に、一八歳ごろから、おそらく本人の死の恐怖に基づくものと思われますが、宗教に興味をもちました。宗教の他にも奇術、迷信、奇跡、 呪詛、骨相、人相の書を読みあさるようになります。「東洋哲学」「仏教史」「奇術新報」などの雑誌も愛読していました。彼の思想の背景がよく理解されるとともに、人間の心の現象や働きに強い関心を抱いた好奇心あふれる若者であったことが窺えます。
森田は腹式呼吸、 白隠 禅師 の内観法なども試みます。結果として悩みは解決しなかったものの、このような試みは、後に森田療法の理論をつくり、また悩んでいる人たちの心理を知る上で役に立ったようです。とくに仏教、なかでも禅と浄土真宗の考え方は、後に治療の武器となりました。
さて回り道はしましたが、一八九八年(二五歳) に東京帝国大学医科大学に入学しました。大学入学後も相変わらず死の恐怖に基づく多くの身体症状にとらわれ、受診した内科で神経衰弱及び 脚気 と診断され、治療を受けていました。多くの薬も処方されていたようですが、やはりよくなりません。
明治三五年(一九〇二年) に東京帝国大学医科大学を卒業した森田(二九歳) は、父親の反対を振り切ってただちに精神医学を専攻し、当時精神医学担当であった 呉秀三 教授の門に入りました。この時期の森田は 意気軒昂 で、自ら悩んだ神経衰弱の研究と治療に積極的に取り組んでいこうと決意します。大学院生となり、研究題目として「精神療法に就いて」という論考を提出したときには、指導教官であった呉教授は何の注意も与えず、何だか賛成しないような顔つきでした。森田はそれを、はなはだ物足りなく感じたようです。
森田が千葉医専に行っていたらどうだったのでしょうか。果たして森田療法は生まれていたでしょうか。当時の感覚としては、官立の医専への赴任はたしかに大出世でした。しかし森田は、迷いに迷って師匠の命令に背き、自由な開業医の道を選びます。森田がかつて父に反抗したように、その反骨精神でもって、東大の呉教授という権威に対して反発したとも考えられます。官立の医専の教授であれば、安定と権威は得られます。しかしながら、縛られることも多くなることでしょう。固有で自由な生き方を重視したのでしょうか。これも〝いごっそう〟である森田らしい選択ともいえましょう。新しい精神療法を作り出すためには、今までにない柔軟で、自由な発想を必要とします。森田のこのように自由な生き方そのものが自由な発想を可能にし、結果、森田療法を生んだのです。
ですが、森田は独自の精神療法の確立をあきらめませんでした。このしつこさこそ、森田の性格の特徴の一つです。 この性格が不安や恐怖、悩みを取り除こう、という方向に向かうと、それ自体にこだわるためにとらわれてしまい、悩みからなかなか抜けられません。神経衰弱に悩まされた思春期から青年期までの彼はそうでした。しかし自分が取り組みたいことを見つけた森田は、さまざまな挫折にもめげず、しつこさを活かしてそれを追求していきました。
西欧の多くの治療法は症状の軽減、消失を目標としていますが、ここに大きな違いが存在します。森田療法は、患者の訴える症状を直接取り上げず、日々の生活に入り込むことを指導することで問題の解決を図ります。これは患者の持つ生きる力を引き出し、目の前の作業を通してその力を発揮させることによって、回復を図るという治療戦略です。そのような治療戦略に適しているのが、家庭という治療の場だったのです。 こうして、森田療法が誕生しました。
森田が行った入院森田療法は、臥褥期(社会、家庭から離れ、四~七日間、トイレ、食事以外は終日寝ている事を要請される時期、患者が退屈感を覚えたら、次の時期に移行する)、軽い作業期(外出は許されず、家の中での軽い作業、観察をする時期、約一週間)、重い作業期(さまざまな生活を維持するための活動、作業を行う。作業は、食事の支度、風呂を焚くこと、動物、植物の世話など多岐にわたった)、複雑な実際生活期(社会復帰の準備をする時期) の四期としました。そこでは気晴らし行為などは禁じられ、その日その日の作業などへの積極的な取り組みが要請されます。
森田の治療を受けたある患者の日記から当時の入院森田療法の実際を見てみましょう。 日記によると、臥褥六日間から起床したのち、軽い作業期、重い作業期の注意は次のようなものでした。文章は平易に変えてあります。 一、毎日、洗面直後および就寝直前の二回、古事記を音読すること。 二、臥床時間は、七、八時間を超えないこと。 三、毎夕食後、日記を書くこと。 四、昼間は一日中、戸外へ出て、夜間は他の室に随意作業をして、決して自室に閉じこもらないこと。 五、治療中は常に他の患者さんとのおしゃべり、ブラブラ歩き、口笛、歌を歌うこと、遊ぶこと、体操をすること、など、すべてきばらしになるようなことは禁じる。 六、臥褥の後の二日間は、体を使った作業、高いところの仕事、掃除などもしないで、草取り、落ち葉拾い、枯葉取り程度の軽い作業にとどめること(軽い作業期、四日~七日)。 七、三、四日の後、次第にほうきでの掃除、雑巾がけなどのやや重い作業に取り組むこと。 八、二、三週間の後、作業に没頭できるようになると共に、読書も許可する。読書はいつでも、どこでも、文中の場所を選ばず、また覚えようとすること、理解しようとすることはしないこと(重い作業期、数週間)。 九、これより数日の後、買物など、簡単な用事のための外出を許可する(実際生活期)。 (森田正馬『神経衰弱と強迫観念の根治法』白揚社、一九二六/一九九五年) このように現代人の目から見ると厳しい作業主体の入院生活です。しかし、今と違って、大家族で育ち、集団生活にもある程度慣れており、日常の家事手伝いといった作業なども身近だった当時の青年たちにとっては、たいして苦にならなかったのでしょう。
発作性神経症とは、現代でいうパニック症、広場恐怖症、全般性不安障害などが含まれます。 発作性神経症は、二つの不安からなります。一つは不安発作で、発作的に起こるものです。呼吸困難、息苦しさ、 動悸、発汗、めまい、四肢の震え、たちくらみ、胸部の圧迫感などの激しい発作を経験します。それと共に多くの人が死ぬのではないかという死の恐怖を経験します。あるいは自分の思いも寄らないことをしてしまうのではないかと恐れます。大多数の人は、救急車で病院にかつぎ込まれた経験がありますが、検査で異常は見つかりません。しかし一度この不安発作を経験すると、また発作が起こるのではないかという予期不安が出現します。これが二つ目の不安です。不安が不安を呼び、不安が不安を強めていくのです。
三つ目が森田が不治の病と一時はさじを投げた強迫観念症です。強迫観念症には、さまざまな恐怖症が含まれます。恐怖症とは、動物恐怖や閉所恐怖、高所恐怖、乗り物恐怖などのことです。他の人には想像もつかないことも、その人にとっては真剣な恐怖の対象となります。なかでも代表的なものが対人恐怖(社交恐怖) と強迫症(強迫性障害) です。
対人恐怖で悩む人は、いずれも人前での自分の態度や振る舞いが不適切に感じられます。そのため、恥じたり、困惑したり、脅えたり、緊張したりします。そしてそれゆえ人に受け入れられない、軽蔑されると悩みます。対人恐怖の程度がひどくなると、自分の欠点ゆえに人に避けられる、嫌われていると考えます。決して醜くないのに自分の顔が醜いと信じている醜貌恐怖、自分の体臭、ガスがもれていると悩む自己臭恐怖、優しい目をしているのに自分の視線が鋭い、相手にいやな感じを与えると悩む自己視線恐怖などがあります。
ここに森田療法の最大のキーワード、「あるがまま」という言葉が出てきます。この言葉についての詳しい説明は次章に譲りますが、この「あるがまま」という言葉、そして森田療法は、やはり森田自身の生きざまから生まれました。
森田は子どものような素直な心の持ち主でもあり、周囲に甘えた人でした。悩みが多く、しつこくとらわれやすい人でした。しかし、常識にとらわれない子どもの心が、森田療法という独創性のある治療法を生み出しました。彼の個性が光として輝いたのです。そして悩み多く、解決へしつこくとらわれることが森田療法を作り上げる上で、重要な役割を果たしました。彼の自己治療の試みがそのまま森田療法の骨格を作ったのです。彼の悩みはそのような意味では、創造の病でありました。
認知療法は森田療法と一見すると似ています。ここで混同されないよう違いを述べておきましょう。認知療法では、不安や抑うつを引き起こす思考のゆがみ(クセ) を合理的なものに変えることから、不安、抑うつをコントロールしようとする治療法です。対して森田療法では、不安、抑うつをありのままに受け入れていこうとする柔軟な思考(心の態度) を身につけ、そしてその人の持つ生きる力を生活の場面で発揮することを目指します。受容(アクセプタンス) モデルです。同じように思考のあり方を問題にしますが、その方向は一八〇度違います。また「生きる力」という考え方は認知療法にはありません。
私は、このような反自然的(人為的)な生き方を「我執」と呼んでいます。 反自然的な生き方をしていると、人生の節目で行き詰まりやすく、苦悩に陥りやすくなってしまいます。そして、森田療法では、反自然的なあり方から自然なあり方への転換を促していきます。
そんなAさんが変わったのは、高校に入ってからです。進学校でしたが、友人との仲違いから、クラスメイトから無視されるような、いじめに近い経験をしたのです。その頃から、明るさをすっかり失い、自分が変な顔をしているのではないか、そのため人に変に思われるのではないか、と人前で緊張し、性格も暗くなっていきました。そんな自分がいやで、また落ち込んでしまいます。外出もままならなくなり、心療内科で治療も受けました。うつ状態ということで薬物療法も受けましたが、効果はありませんでした。
Aさんの診断名は、対人恐怖、慢性抑うつ状態(社会恐怖、気分変調症。ICD-10) です。
日記療法とは、日常生活・社会生活の中での取り組みや実践を、毎夕、日記に書いてもらう治療法で、一九一九年、森田正馬が入院森田療法を始めたときから行われていました。しかし、すべての人に日記療法を行うわけではありません。日記療法を望まない人は、面接だけ行います。 頭の中だけで考えた抽象的な自分探しは新しいとらわれを生み、その人を「自分はこうでないといけない」と縛り、結果として悩みの袋小路に追いやってしまう可能性があります。そして、「何をしたいのかわからない」「何の意欲もわかない」としばしば訴えることとなります。しかし、自然なその人らしさは、頭で考えて結論が出るのではなく、行動を通してわかってくるものです。今のつらい状況をありのままに受け入れていったときにこそ、世界は広がっていきます。
悩む人には、「日記を書くことがあなたの治療のための作業です」と伝えます。実際一年間日記療法を続ければ、三六五日、自己の内面を見つめることになり、問題の解決に日々取り組むことになります。
「現実の自己」をありのままに受容すること、すなわち「受容の促進」と共に、重要なのが「行動の変容」です。とらわれの綱引きから離れ、生きる力(生の欲望)を生活の取り組みに向けていく試みとも言えるでしょう。そのためには、素直に○○したいという気持ちを大切にして、その気持ちのまま動くことを助言します。
「行動の変容」を起こすための次の段階は、「生の欲望を行動と結びつけること」です。生きる力(生の欲望)の実践となり、私たちの生きる基盤となります。 まずは、生きる力(生の欲望)に気づくことを促します。 私は悩む人に「あなたの生きる欲望は症状と格闘していて、本来の自分を生かす方向に向かっていませんよ」という助言をします。この指摘は、深みにはまっている悩む人ほど「なるほど」と受け入れやすい助言です。
またゴルフ好きなHさんは、大切なお客さんの招待ゴルフが苦手で、特にパットがダメでした。お客さんに見られている前で、緊張してしまい、手がうまく動かなくなる経験を何度もしていました。ところが、プレゼンテーションがうまくいったその週末ゴルフで、今までになくパッティングがうまくいったのです。「これも開き直りの精神です」「森田療法はゴルフもうまくするのですね」と面接で話し、二人で笑いました。
彼女は、他者特に親との関わりの中で、自分が受け入れられていないと感じると、落ち込み、死にたくなり、怒り、そして不快な身体症状と葛藤していました。 最初はIさんの話を聞くことを主とし、簡単に対人関係における悪循環を指摘することにとどめました。治療の焦点は共感的でない父親への怒り、そして自分が愛されていないことへの恨み、そして死にたくなる感情をめぐって、展開していきました。そのような感情について「それ自体自然なもの、責任ないもの、ただそれを感じていくこと」などと助言し、一方で「ご両親の態度もそうですが、現実は思うようにはならないですよね」と伝えていきました。また行動への踏み込みを折にふれて助言しました。しかし、治療はなかなかスムーズには進みませんでした。
その頃から、Iさん自身が「べき」思考で自分を縛っていること、自分の感情や人との関係はどうにもならないことに気づき、受け入れられるようになっていきました。自分なりのペースで家事などにも取り組めるようになりました。そしてIさん本来の人なつっこさ、世話好きなどの面が出てきました。 二〇代から続いた親との葛藤は、影を潜め、むしろしっかり者の娘として、少しずつ老いていく両親も支えることができるようになったのです。受け身だった人生により積極的に関われるようになったことで、思春期から続いた気分変調症(神経症性うつ病) は成人期後期で終わりました。
Bさんは民家の庭を見てなごんでいたことを思い出しました。通勤の行き帰りにそれを楽しめるようになったのです。「何年ぶりかです」と笑って報告する様子は、あたかも生き生きとした少年のようでした。また仕事では本来の人なつっこさ、面倒見の良さを発揮するようになったのです。週末には家族と散歩を楽しみ、また親との関係も穏やかなものとなってきました。
講談社現代新書には岩井寛先生の不朽の名著『森田療法』(一九八六年) があります。 岩井先生は、私が一九七〇年に慈恵医大精神医学教室に入局し、精神医学を学び始めたときに、外来で精神療法の手ほどきをしてくれた先生です。当時から精神療法のみならず、美学、 病 跡 学(傑出した人の生涯をたどりながら、病と創造性について精神医学的に研究するもの) など幅広い領域にその才能を発揮していたまぶしい存在でした。
最後に、今日本でもてはやされているマインドフルネスという用語について見解を述べたいと思います。 マインドフルネスという魅力的な用語は、アメリカで新たな装いをもって命名され、Google社が導入したことでも話題になりました。そして日本でも大きな関心を生み、それらに関する図書が多数翻訳され、その実践も報告されています。 しかしこの用語が新しい概念のように無条件で取り入れられることに対して、私は懸念を抱いています。 マインドフルネスそれ自体は、上座部仏教の実践の一つである瞑想法であり、東洋的、あるいは仏教圏内に属する人間理解や気づきの実践法です。マインドフルネスとは、パーリ語の「sati」(気づき) の訳です。その気づきを、スリランカの僧侶、グナラタナは次のように定義します。 気づきとは、ありのままに観察することです。ありのままに観察するとは、物事を歪めることなく、あるがままに気づくということです。あるがままとは無常・苦・無我の真理です。 (バンテ・H・グナラタナ〔出村圭子訳〕『マインドフルネス 気づきの瞑想』サンガ、二〇一二年)
これを読まれた方は、すぐに森田療法の「あるがまま」について連想するでしょう。 二〇一五年一一月八日に行われた東大での公開講座「日本文化と心理療法─禅やマインドフルネスとの関連に注目して」も多くの反響がありました。そこでは禅、森田療法、内観療法などが取り上げられ、私も「マインドフルネス、あるがまま、そして森田療法」というテーマで話しました(北西憲二「マインドフルネスとあるがまま」『精神療法』第四二巻四号に収録)。
マインドフルネスには少々静的な印象を受けます。マインドフルネスは、今ここでの体験への関わりにのみ焦点が当たっています。私たちの悩み、苦悩をそのまま受け入れていくことのみに注意を払っているようです。体験をありのままに受け入れるにはどのようなことが行われなければならないのか、そしてそれがなされたときに、どのような心理的、行動的変化が起こってくるのか、について十分に述べられているとは…
日本独自の精神療法である森田療法は、禅、浄土真宗などの仏教の人間理解、さらに広くいうならば、東洋における人間理解から影響を受けており、そこにはすでにマインドフルネスの人間理解を内包しています。 ではなぜ今、大国アメリカでマインドフルネスがブームになっているのでしょうか。それは私の独断で言えば、科学的思考万能の文明が行き詰まったのではないのか、ということです。思考万能とは、すでに本書で述べてきたように、頭でっかちな自己意識が身体、内的自然を支配し、優位に立っている自己のあり方といえます(図二、第二章)。 マインドフルネスは、そのような科学的思考の行き詰まりを埋めるものとして注目されたのではないでしょうか。
マインドフルネスの流行現象は、分断されているように見える思考と身体、内的自然を再び結ぶものであり、それ自体がきわめて私たちの心の健康や苦悩からの回復に重要であることを物語っているように思います。そしてこのような思考が肥大した自己のあり方は決してアメリカだけではなく、現代の日本にも共通し、それゆえマインドフルネスが求められているのです。 マインドフルネスの思想も含めた、もっと大きな知が森田療法です。ここにも、森田療法が現代でも意味を持ち続けられる根拠が見えるのではないでしょうか。