アトゥール・ガワンデのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
死すべき定め
数多くの死を見続けた医療従事者が自らの医療体験ならびに家族の死から、現代の高度に医療が発達して寿命が延ばせる時代に死とは何か?幸福な死とは何かを問う本。
現代医学の介入がない時代は人々は命にかかわる病気に自分が冒されていると気がつくのと死ぬまでの間隔は数日から数週間の単位であった。
しかし現代はCTスキャンなどの早期発見や延命技術によって年単位にまで伸びている。
それだけ、その余命期間は人や家族は思い悩むことになる。
重い病気にかかってる人は単に長生きしたい以外に大切なことがあり、調査によると、苦しまないこと、家族や友人と絆を深めること、意識をたもつこと、他人の重荷にならないこと、自分の人生を完結させたという感覚をもつことになる。
とくに余命宣告をうけると人は時間をより意識する。人が自分の時間をどうつかうかは与えられた時間がどのくらいあると認識するかによって影響をうける。
人は単に存在してるだけでなく、衣食住のためだけでもなく、己自身をこえた大義を人は求めている。
死を無意味にしない方法は自分自身を家族や近隣、社会、神、歴史などなにか大きなものの一部とみなすことだ。
そうしなければ死すべき定めは恐怖でしかない。
マズロー理論だとまず安全安心の次に自己実現となる。そう考えると余命宣告の人は生きがいよりまずは余命を伸ばすことが最重要になるはずだが、患者のQOLはそれではいちじるしくさがる。限られた時間のなかで医療の依存状態にある人が生きる尊厳を保てるようにえんじょすることが大事だ。
だからこそ家族は事前にもし自分が余命宣告をうけた場合、どうするか?何を望むかをはなしあっとくべきだ。
たとえばラ・クロッセ市はエンドオブライフ(人生の終焉)にあたって組織的キャンペーンを行い以下の4つの情報を集めた。
1、心臓がとまったときに心肺蘇生を希望しますか?
2、気管内挿管や人工呼吸器のような積極的治療を望むか?
3、抗生物質の投与を希望するか?
4、自分の口で食べれなくなったらチューブや点滴で栄養補給を希望しますか?
このことで、患者がICUにはいる前から大事なことについて時間をもって関係者と準備をできるようになった。
エンドオブライフをどうすごすのか?についてしっかり話し合ってないと、「私としたことがなんてことなの!お父さんが本当にやりたいことをきいてなかった」という事態になりうる。
そのうえで終末医療の医師に切なのは治すことのできない病を相手にしてる自覚と、患者が残りの人生をどういきたいのか?を「問い、つたえ」ること。コーチングのような存在になるのだろう。
少子高齢化社会、超高度化社会にこれから日本は突入するがこれはうらをかえせば、歴史上、例をみないほど人がたくさん死ぬ時代になる。
いかに育てるか?いかいに生きるか?が問われたこれまでの時代から、いかに死ぬか?がおおきなテーマになっていくだろう。
自分も人生の折り返し地点を迎えてるので、いかに死ぬか?に向き合ってみたい、とおもわれる人生を考える上でおおきな転換点となる一冊であった -
Posted by ブクログ
もうよくなる見込みはない、という病状にある人たちに本当は何をするべきか?という問いを探るハードな本。多くの人は苦痛のない平穏な死を望みながらも、過酷な闘病生活の沼にはまって苦しみ、孤独の中で亡くなることになる。また、施設は安全と医療が行き届いてはいても孤独でプライバシーのない、尊厳を奪われた状態になりがち。いったい私たちは、科学と医療の進歩で何を追い求めてきたのか?どのようにすれば、死地に立つ人たちとその家族に現実を受け入れる勇気を与え、尊厳を取り戻せるのか?という話が、著者の家族を含め実在の人々のエピソードを通じて語られる。
その人たちの病状や生活を奪われる苦しみも克明に語られるので、読んでいてぞっとしたり重い気分にもなるけれど、自分や身近な人たちにもその時は必ずやってくることを強く意識させられた。私の祖父は病苦で自殺していて、それが彼の尊厳を守る方法だったことは受け止めているが、祖父や家族にとってもっといいやり方があっただろうともずっと思っている。結局のところ、お前は、お前の親のことはどうするのだ、と繰り返し問われている気がするのだ。
死に瀕する人は生き方を鮮明にする。そして考えるのは死ぬこと自体ではない。一生涯かけても答えが出ないかもしれないことに、ある時いきなり清算を求められるのは厳しいものだ。 -
Posted by ブクログ
名著だと思う。おそらく自分がICを至上主義とするような情報提供的医師として生きてきたのであればこの本が人生を変えてくれる本になっただろう。しかしこれほどまでにACPの意味や終末期の難しさが論じられている今読んでみると、この本によって医者人生が変わるということはなかった。
とはいえ、死が迫った患者と厳しい会話をすることによって本人や家族がいかに救われるのかということは内省的な気持ちも持ちつつ読むことができた。
多分bad newsの伝え方とか、予後の伝え方のようなものは、方法論で解決する問題ではない筈だ。
相手は患者であるまえに人間なのである。
だからやはりACPとは主治医がするべきなのだ。 -
Posted by ブクログ
「生まれ落ちたその日から、私たち全員が老化し
はじめる。」(序P9)
人は生まれたからにはいつか死なないといけない。
「死ぬべき定め」に直面したとき、死に直面した
本人や家族そして医師はどのように終末期を選択し
その選択に従って実行していけばいいのか、を模索した
例が挙げられている。
前半は老いによる死、中盤は病気(主にがん)による死
後半は著者の父と著者の家族が「死すべき定め」に
対してどのような行動を取ったのかがつづられている。
現在、高齢者は敬われる存在ではなく希少価値を失った
ため、家族の在り方も変わってしまった。生き方の
自由と自立に恵まれた反面、家族システムの地位は
下がった。
老いに対して人は奇跡のストーリーに飛びつくが、
それは逆にそういったファンタジーについて
行けなくなってくると申し訳ない気持ちにしてしまう。
現在アメリカは高齢者のケア、終末期に入所する施設は
移行期にあり、様々な人が様々な方法にトライしている。
昔の救貧院は「救う」の文字が入っているのに
姥捨て山のようだった。ナーシング・ホームが進化した
「アシステッド・リビング」は「言うは易く、行うは
難い。」ため、質がどんどん下がっていった。
ナーシング・ホームの三大伝染病「退屈と孤独と絶望」
を叩くには、命、例えば観葉植物、畑と花園、動物は
とても有効だった。
病気による終末期はある日突然直面することになる。
本人、家族そして医師すらも模索しながらベストな
ものを提供したい…とはならず、あれこれと治療を
勧め、結果、患者の体力を削り、穏やかな最期を
迎えられない結果となることが多かった。死期を
穏やかに伝え、最期はどうするのか、どうしたいのかを
患者本人に決定させているいくつかの例が挙げられている。
最後に、著者の父が「死ぬべき定め」と向き合うこと
になり、著者とその家族は戸惑いながらも、それを
彼らなりの方法で完遂する。
自分や自分の家族が「死すべき定め」に直面したとき
どうするべきか、なにを一番に置くのかということを
常に考えておきたい。 -
Posted by ブクログ
アメリカのインド系二世の外科医であるアトゥール・ガワンデ氏が、自身の父親の死についても触れながら老年期医療、終末期医療について書いたもの。
実は内容にとても心動かされるものがあり、何度も書評、感想を書こうとしたのだが、結局どれも薄っぺらなものになってしまう気がして、消してしまった。
老年期には病気だけではなく、自然な老いによる経年劣化で身体に様々な問題を持つようになる。医療はその問題に立ち向かうための技術だが、常に克服できるとは限らない。死という崖に追い詰められて、徐々に撤退するしかない、撤退のスピードをいかに遅らせるかというくらいしか出来ないときも多々ある。
そのときに医療は、医療従事者はどうやって患者と向き合えばいいのか?という医師としての考えを、実際の患者の事例や、自身の父親のケースも取り上げながら語っている。
いろいろと語りたいことは多いのだが、やはりうまく伝わるとは思えない。とりあえず、一度「死すべき定め」を読んでほしい。 -
Posted by ブクログ
誰しも向き合わなければならない問題である。そしてそれは、本人だけでなく、家族のことも含めて。
衰えは人の運命である―いつの日か死がやってくる。しかし、人の中の最後のバックアップ・システムが壊れるまでは、そこまでの道を医療によって変えることができる。一気に下る断崖にすることも、緩やかな下り坂にして、生活の中でもっとも大切なことができるようにすることも可能である。医療に携わるわれわれのほとんどがこの可能性を考えていない。特定の個別の問題を取り上げるのは得意である―…しかし、高血圧と膝関節炎、他のいろいろな病気を抱えた高齢女性を担当させられたら―…―われわれは何をしたらいいのかわからず、しばしば事態を悪化させるだけに終わる。
…ナーシング・ホームに蔓延する三大伝染病を叩くことである―退屈と孤独、絶望である。三大伝染病を退治するためには何かの命を入れる必要がある。ホームの各部屋に観葉植物を置く。芝生を剥がして、野菜畑と花園を作る。そして動物を入れる。
…退屈な場所で、生き物は自発性を呼び起こしてくれる。孤独な場所で伴侶になってくれる。絶望の場所で、他の存在を世話するチャンスを与えてくれる。
死を無意味なものにしない唯一の方法は、自分自身を家族や近隣、社会など、なにか大きなものの一部だとみなすことだ。そうしなければ、死すべき定めは恐怖でしかない。
重い病気にかかっている人には単に命を永らえること以外に大切なことがある。患者がもっとも気にかけていることを調査すると、苦しまないこと、家族や友人との絆を強めること、意識を保つこと、他人の重荷にならないこと、そして自分の人生を完結させたという感覚を得ることがトップにあがる。今の高度医療システムはこうしたニードを満たすことに完全に失敗していて、この失敗のつけは失ったドルだけでは測れない。
老いと病いにあっては、少なくとも二種類の勇気が必要である。一つ目は、死すべき定めという現実に向き合う勇気だ―何を恐れ、何に望みを持つかについての真実を探し求める勇気である。この勇気は難しく、持てないのも当然だ。真実から目を背けたい理由はいくらでもある。しかし、さらにもっと厳しいのは二つ目の勇気だ―得た真実に則って行動する勇気である。何が賢明な道なのかはしばしばあいまいであり、それが人を悩ませる。長い間、私はそれを不確実性のせいだと単純に考えていた。この先の予測が難しければ、何をすべきか決めるのが難しくなる。しかし、いろいろ経験するうちに本当のハードルは不確実性よりももっと根本的なことだと気づいた。恐れか望みか、どちらが自分にとってもっとも大事なのかを決めなければならないのだ。
…医療者の究極の目標とは、あれこれ言っても結局のところ、良い死を迎えさせることではなく、今際の際までよい生を送らせることなのだ。