宗教改革以降のローマ教皇の地位は低下した、とは簡単にいえますが、ことはそんなに簡単に説明できるのでしょうか。ナポレオンのコンコルダートや戴冠式、ムッソリーニのラテラノ条約など、「教皇の権威を必要とした」事例は近代や現代も数多く見られます。戦後もヨハネ23世やヨハネ・パウロ2世の活躍はある程度年を重ねている人にとっては一度は耳にしたことのある名です。世界最大の教団であるカトリックを統括するローマ教皇の力は、本著の著者である松本佐保先生の言葉を借りると、「二十一世紀のグローバル社会は、決して世俗的なものだけでは説明できない。それは宗教紛争が頻発する国際情勢を見れば明らかであろう。これらを解決するためにも宗教の重みを再認識し、その解決について考える必要があるだろう。すでに何度も繰り返してきたように、武器によらないバチカン外交は見習うべき一つの姿であり、平和への途」(245頁)であり、決しておろそかにしてよいものではありません。
では本著の内容に行きますが、本著はフランス革命以後つまり18世紀末からのローマ教皇を取り扱いますが、通時的に教皇は何かしらと対立をし、そしてその後ろ盾を模索する姿が読み取れます。19世紀中葉まではイタリア統一勢力と対立し、また近代化も受け入れられませんでした(そのため教皇領への鉄道敷設が遅れイタリアの経済的発展を阻害した。鉄道を「近代化の先兵」とするのは19世紀末の義和団と通じるところがあります)。19世紀半ばの教皇ピウス9世も当初は近代化・自由主義も受け入れ「覚醒教皇」などとも呼ばれましたが、マッツィーニによるローマ共和国建国などで「豹変」し、以後保守化していきました。イタリアはその後サルデーニャを中心に統一が進み、1870年教皇領も征服され教皇は「バチカンの囚人」と称してイタリアと断交、以後ムッソリーニとのラテラノ条約まで問題が続きます(イタリアにとっても国内に強力なネットワークをもった反国家勢力があるのと同じですので、軍事力を持たないからと安心は出来ません)。
ピウス9世を次いだレオ13世は1891年に「レールム・ノヴァールム」(ラテン語で「新しきもの」)という回勅を出します。これは行き過ぎた工業化や資本主義の弊害について警告し、労働者の権利と尊厳を訴えたもので、労働問題について初めて出された回勅です。これは当時労働運動を弾圧していたイタリアのクリスピ内閣に対抗して出されたものですが、労働者への配慮を促し、労使協調を進めることでイタリア人の教皇への心を取り戻す効果がありました。
しかし、この頃新たな「敵」が台頭してきます。共産主義です。イタリア国内で共産主義が強まると、教皇はイタリア人カトリックに反共産主義の政党に投票することを呼びかけるなど、イタリア政治に強い影響力を持ちます。この「反共産主義」という態度は、共産主義のもつ「唯物論」からくる無神論に強い危機感を覚えたからです。第一次世界大戦後教皇となったピウス11世は「共産党は伝染病」という持論をでムッソリーニに接近、1929年ラテラノ条約を結んで主権国家「バチカン市国」が成立します。
第二次世界大戦から戦後にかけて長く教皇を務めたのがピウス12世です。彼は「反共産党」「反ソ連」という立場からヒトラーにも寛容でした(ソ連に対抗し得る勢力をドイツに見いだしていたため。ちなみに彼は極東のソ連に対抗し得る勢力として日本を挙げ、満州国も承認しています)。その態度は20世紀末でも『ヒトラーの教皇』という本が出版されるなど(ジョン・コーンウェル著 1999年)長く影を落とします。
1958年、ピウス12世が死去すると、76歳の高齢でヨハネ23世が登場します。彼は教皇に就任すると、第二バチカン公会議を招集します。あの対抗宗教改革で名高い16世紀半ばのトリエント公会議以来約500年ぶりの開催です(実際は1869年に第一バチカン公会議が開かれたが、普仏戦争で中断したため、その続きとして開催)。会議の途中でヨハネ23世は亡くなり、代わりにパウロ6世(教皇として初めて飛行機に乗る!)が公会議をまとめます。結果、11世紀より続いてきたギリシア正教会との相互の破門が解かれ、和解します。またプロテスタントへの配慮もされ、さらにユダヤ教徒やイスラームとも「唯一の神において互いに結ばれている」と言明しました。さらに仏教やヒンドゥー教などの侵攻も尊重すべきとされました。これは先ほど述べたように、どのような形であれ「神」を信仰する立場の方よりも無神論の方を憎むべき対象としたからです。このように、第二バチカン公会議はカトリック(普遍)の現代化を印象づけています。本著の文を引用すると「ドグマティックと思われがちなバチカンでありカトリック教会だが、実は、真のカトリック、普遍的な教会であるためにはつねに刷新し続けなければならないことを、ヨハネ23世とその意志を継いだパウロ6世は心得ていた」(161頁)とは何というアイロニーなのか、もしくは刷新し続けることこそが普遍の理なのでしょうか。
さて、バチカンにとって近現代最大の敵である共産主義ですが、ここで満を持して登場したのが共産主義国家ポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世です。1978年に就任したヨハネ・パウロ2世は、「旅する教皇」とあだ名された先々代のパウロ6世を越える教皇外交を展開し、「空飛ぶ教皇(聖座)」と呼ばれました。その訪問国は日本も含め129カ国116万キロと、共産主義国家以外ほぼすべて訪れています。彼はポーランドの連帯の精神的支柱として1989年の総選挙における「連帯」の勝利に貢献し、これを皮切りにドイツにおけるベルリンの壁崩壊、チェコスロヴァキアにおけるビロード革命、ルーマニアにおけるチャウシェスク政権崩壊など東欧革命を誘発させます。確かに東欧革命の主たる原因はソ連のゴルバチョフにおけるペレストロイカなどの民主化が上げられますが、そのゴルバチョフをして「東ヨーロッパの共産主義を突き崩すのに多大なる政治的貢献をした」と評させたことは重要なことです。
現在のイスラーム国を見ても分かりますように、冷戦崩壊後、再び「宗教」が人びとを突き動かす原動力となりつつあります。それはある人には毒であり、ある人には薬となるでしょう。そのようなか、世界最大の宗派カトリックをすべるローマ教皇の動静は、今まで以上に重要になってきます。カトリック教徒が全人口の0.4%の日本ではありますが、世界を見たら日本の人口よりはるかに多くの信者を抱えています。だからこそ、最後に本著の一文を紹介して、日本人の今後の外交を考える上での教唆としたいと思います。
「近年、軍事・戦略的なハードパワーに焦点を当てる国際関係の研究だけでなく、宗教や文化などのソフトパワーに注目する研究が盛んである。そうした意味でもバチカンの影響力にあらためて注目すべきであろう。」
備忘録
福音宣教省について「ラテン語の「プロパガンダ・フィーデ」と言い「プロパガンダ」の語源となったキリスト教の宣教の中枢部分を担い、宣教師連合と宣教援助事業などを統括している。
1975年に行われた全欧安全保障協力会議(ヘルシンキ会議)は、バチカンが中心となって行った国際的な安全保障会議である。