レイモン・ラディゲのレビュー一覧
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人を愛することに理由はあるのだろうか。人を愛するというのは自身の生きる意味を見出すために必要な極めて本能的な営みであり、そこに理由など求めてはいけないのではなかろうか。とはいえ自分ではない他人を愛するということは極めて難しい。自身とは異なる考えを持つ一方で、いくらをもってしてもその考えを理解し尽くすことはできない。己の考えを理解し尽くせぬのと同様だ。たとえどれだけ互いの愛が互いにとって疑いのないものであったとしてもそれを証明するものは何一つないのだ。だからこそ互いの意思疎通が重要であるのだと認められているのであろうが、かえって過度な意思疎通もまたその愛に疑念を生じさせうる余地があるようにも思われる。今や我々が肌身離さず持ち歩く電子機器にていつ何度でも人と意思疎通を図ることができる。だからこそそこには余白が生まれにくいのではないか。愛というものが育まれるためには一定の制約が必要ではないのかと信じる自身にとって昨今の愛なるものは希薄化が進むようにも捉えられる。制約のないものには新たな力学が働かない。惰性の関係値こそ自身の肉体と精神を苛むものとなりうる可能性も否定はできぬ。とはいえ制約は必ずしもその愛の成り立ちを定義するものでもない。詰まるところ己のことも理解し尽くせぬ自身が人を理解し尽くし愛することなど不可能なのだ。一方人を理解し尽くそうとすることは愛ではないと定義づければ一体何が愛たるのか、その答えは未だ知らない。
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レーモン・ラディゲ Raymond Radiguet
生年:1903年
没年:1923年
フランスの詩人・小説家。風刺画家を父として、パリ郊外に生まれる。幼少期は成績優秀な生徒だったが、長じて、文学に傾倒。14歳で『肉体の悪魔』のモデルといわれる年上の女性と恋愛関係となり、欠席が増えて退学処分となる。退学後、詩人のジャコブやコクトーと出会い、処女長編小説の本作で文壇デビュー。ベストセラーとなる。その後もコクトーと旅をしながら『ドルジェル伯の舞踏会』を執筆するが、1923年、腸チフスにより20歳の若さで死去。
肉体の悪魔
by ラディゲ、江口清
ある人たちにとっては不幸なことが、他の人たちにとっては幸福なのだ。母がお弁当をつくって、初めての恋の夜をぶち壊そうとしているとき、弟たちが 羨ましそうにそれを眺めているのに、ぼくは気づいた。ぼくは弁当をそっとかれらにやってしまおうと思ったが、やがてそれをすっかり食べてしまってから、後でお尻をぶたれる怖しさと、ぼくを困らせる面白さのために、何もかも喋ってしまいそうな気がしたので、そうするわけにもゆかなかった。
恋は幸福をともにしようとしたがる。例えば手紙を書いている最中に、急に冷たい性格の愛人が優しくなって、首に抱きついたり、さまざまな恋の 手管 を用いたりする。ぼくなども、マルトがぼくのことを忘れて仕事に精を出しているのを見ると、なぜか抱擁してみたくなったり、髪を 結っているのを見ると、たまらなくその手に触れ、かの女の髪を解きたくなるのだ。ボートのなかでも、不意にぼくはマルトに飛びついて、そのために櫂を手ばなし、ボートが藻草や、赤や黄色の 睡蓮 のとりことなって岸を離れるまで、ぼくはかの女を接吻で埋めてしまうのだ。マルトは、そうしたことに、 抑え切れぬぼくの情欲の 閃 めきを見た。そんなときのぼくは、妙にしつこくなり、駈りたてられるのだ。まもなくぼくらは、こんもりした茂みへ舟を着けた。みつかりはしまいか、 転覆 しやしまいかと絶えず気をくばることが、いっそう二人の快楽を高めた。 こうしたわけで、マルトの家へ行くのをむずかしくした家主の反感などには、すこしもぼくは困らなかった。
ぼくはまた、ぼくと一緒に行くことが、どんなに不道徳であるかといってきかせた。ぼくはこの言葉が、侮辱された男の口から出たもののように、あらあらしく響かないように願いながら、思い切って口にしてしまった。はじめてマルトは、ぼくが〈道徳〉などという言葉をいったのを耳にした。実際、よくもこんなことがいえたものだ。きっと根が善良なかの女のことだから、ぼくと同じように、自分らの恋愛の道徳性について、疑いを抱くに違いない。だから、もしぼくが自分からこの言葉を口にしなかったとしたら、ブルジョア特有の偏見に反対しながらも、根がやはりブルジョア女であるかの女のこととて、おそらくぼくを不道徳な男だと思うであろう。だが、それはまったく反対で、今はじめてこのことを注意したぐらいなのだから、実際は今までに何も自分らは悪いことなんかしなかったのだと考えていた何よりの証拠だ。
都合のいいことに、かの女は大食いだった。ぼくの大食いは、 公 にされないものだった。ぼくはサンドイッチや 苺 クリームをみても、別に食べたいとも思わなかったが、かの女の口に触れるサンドイッチや苺クリームにはなりたいと思った。ぼくは口を 歪めて思わず顔をしかめた。
数日して、ぼくはマルトから一通の手紙をもらった。それには家主の手紙が同封してあって、自分の家はつれこみ宿でないのに、ぼくが鍵を使って女を部屋へ連れこんだということが、書かれてあった。マルトはこれをぼくの裏切りの証拠だというのだ。そうして二度と会いたくないといってきた。それはもちろんかの女にとっては苦しみであったに違いない。だが 欺 されるくらいなら、いっそのこと苦しんだほうがまだましだったろう。
ぼくにはそれが、つまらないおどかしであるのがよくわかっていた。それを取り消させようと思えば、ちょっとした嘘を、たとえ事実であってもかまわないが、いってやりさえすればよかったのだ。ただ 癪 にさわったことは、こうした絶交の手紙のなかで、かの女が自殺のことにふれていないことだ。ぼくはその冷たさを責めるのだ。そうしてこんな手紙には返事をする必要もないと思った。もしぼくがマルトの立場にあったとしたら、自殺のことはともかくも、もうすこし頭のある責め方をしたであろう。とまれこうしたことを考えるのは、若げと高校生気質の抜けきらない何よりの証拠で、思うに嘘も場合によっては恋愛教典の命じるところでやむをえないことだと、ぼくは考えた。
恋の試練としての新しい仕事が生れた。それはマルトに対して自分の罪のないことをいい、なお家主ほどにもぼくを信じないかの女を責めることだった。ぼくはマランのような連中のやりかたが、どんなにずるいかということを説明してやった。そうしてほんとうのわけを話せば、ある日ぼくがおまえの家で手紙を書いていたら、そこへスヴェアがおまえに会いにやってきたのだ。ぼくは窓越しにあの娘のやってくるのを見て、それが無理におまえからひき離されている女だというのを知っていたし、おまえがいたらこのつらい別離のことでかの女をよそよそしく扱うようなことはしないだろうということを思わせてやりたかったので…
こうしてぼくらは町会議員も家主もみずに、ほんとうに二人きりで暮らすことができた。まるで土人のように平気な顔をして、ほとんど裸かのままで、あたかも離れ小島のような庭のなかを歩きまわった。芝生の上に寝ころんでは、ウマノスズクサや、スイカズラや、マルバノホロシの青葉の下で 愉 んだ。ぼくが拾ってきた、陽の光で熱くなって傷だらけの梅を、口と口を寄せて奪い合った。父がどうしてもぼくには、弟たちのように庭の手入れをさせることができなかったのに、マルトの家ではぼくは庭の世話などをするのだ。掃除をしたり、雑草をむしったりした。暑い一日の夕暮れに、ちょうど女の望みを満たしてやった男のような誇りを感じながら、 渇いた地面や、しおれた草に水をやった。ぼくにはいつでも親切などはばからしかった。それがようやくわかってきた。草花はぼくの世話で 蕾 を開き、鶏はぼくの投げ与えた餌をついばんで木蔭に眠っている。なんて親切なのだろう……だが、なんというエゴイズムだ! もしも花が枯れ、鶏がやせたら、ぼくらの恋の小島にも悲しみが満つるであろう。水も餌も、花や鶏にやるというよりは、自分から出て、ぼく自身に帰ってくるのだ。
それから二日してぼくはマルトから手紙をもらった。それにはぼくの訪ねたことはすこしも書いてなかった。きっと家の者が隠していわなかったのに違いない。マルトはぼくらの将来のことを、いささかぼくを心配させるほど、特異な、 冴えた、きよらかな調子で話していた。本当に恋とはエゴイズムの最も極端なかたちだ。というのは、自分の心配の理由を突きつめてみたら、それは子供に嫉妬をしているのがわかったから。この手紙によると、マルトは子供のことのほうを、ぼくのことよりもよけいに書いているのだ。
死期が迫っている、が自分ではそれと気づかない、そうした不規律な生活をしていたある男が、急に自分の身のまわりを整頓しはじめる。かれの生活はまったく変る。書類を整理する。早起きをし、早寝をする。悪いことをしなくなる。まわりの人びとは喜ぶ。それだけに、その男のむごたらしい死は、だからいっそう不当に思われるのだ。 これから幸福に生きようとして いたのに。
同じように、ぼくの生活のあらたな静けさは、罪びとの 粧いに以ていた。ぼくは自分にも子供ができたのだから、両親に対してもこのうえない息子だと思っていた。しかもぼくの優しさは、父と母をぼくに親しませた。やがてはぼくにも息子の情愛が必要であろうということを、ぼくのなかの何ものかが知っていたから。
レイモン・ラディゲの作品は、二十世紀初頭を飾る古典として扱われ、その短かい生涯はいろいろととり 沙汰 されている。このようにして、かれの名を不朽たらしめたのは、やはり「肉体の悪魔」の声価を多としなければならない。すでに映画でもご承知の「肉体の悪魔」の原作は、ラディゲが十七歳のときの作品である。一人称で書かれ、迫力のあるこの小説は、早熟な作者と思いあわせ、ともすると作者自身の体験を描いたものだと思われがちだった。
このような特色からしても、かれのモラリストであることは認められるであろう。かれは人のもっている深い資質にたいして、とくに敏感であった。であればこそかれは、「恋愛とは、なんという微妙な研究であろう」と、いうことができたのである。かれにとって「未知」は、「習慣」ほどに魅力があるとは思えなかった。かれは、すべての現実がそれとはっきりいい現わすことのできないものを表現するのが芸術の本来の目的であることを、よく知っていたのである。このような人生探求の精神が、かれのような若さのうちに宿っていたとは、いかにかれがきらいであったとはいえ、神童という称呼をもって呼ばねばならないだろうし、 すくなくともかれを、おそろしく早熟な作家ということができるであろう。 -
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一般的な恋愛物語ではないと思わせる様な文体。16歳とは思えないほどの思慮が成熟した主人公が歳上女性を愛していく様を描いている。勿論思慮が未熟であるとも取れるが、文体のみで主人公の気持ちを想像するのであれば、常識的な世間批判からも苦しめられ、非道徳と道徳を常に真面目に考えている主人公の葛藤が描かれている。それを読者が肉体に取り憑かれてしまっていたと結論付けて了えば其れ迄であるが、愛するが故にマルトに対する姿勢や言葉が冷徹になりエゴイズム化していく様は、人間誰しもが持っている愛情の裏返しである。
愛しているが故にマルトに自己を投影させ類似性を探っている主人公の想いが何とも可愛くなってくるのは私だけでは無いはずだ。
彼を愛せたのはマルト以外にいないのであり、マルトが彼の子供を産んで死んだという事実を述べる事により、未成年の愛が幾つも阻まれようとも彼らの愛の結晶が温かく世間に正当に迎えられたとも思えた。 -
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某作家さんがオススメしていたので、ずっと気にはなっていたけれど、内容もラディゲという作家も知らず、今の今まで。もっと早くに読みたかった!という思いと、今でないと理解できなかったところが多数あるのではという思いが混在しています。
恋愛心理をここまで冷静に書けること自体が、異様というか偉業というか。恋愛に陥っている人間の心理を描写すること自体はどこまで珍しくもないと思いますが、全編を通して感じる、どこか冷めた視線がおそろしい。
好きだとか愛しているだとか、好きだから触れたいだとか愛しているから守りたいだとか、そういう単純な仕組みになっていない人間の心の構造をよくぞここまでという風に説明されて、正直ぞっとしました。
不道徳だとか、そういう次元では最早ない。
他人の不幸が蜜の味だとか、そんなシンプルなことでもない。
意地悪だとか崇高だとか、肉欲的だとか清廉だとか、そんな言葉では到底表せない、心の移り変わりをものすごく良く捕らえています。
久々にがつんと脳天をやってくれる本に出会えて、空恐ろしいやら幸せやら。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ主人公の少年は裕福かつ教育熱心な家庭で育ってきて言葉も早熟だから主体的に愛人・マルトを懐柔しているかのように表現がされているけど、実態はマルトが主人公からの自分への情熱をよく理解していて支配欲を満たさせているかのように見せながら思いのままに操縦しているのかと思った。
欲求不満と言うよりも承認欲求を満たしているかのような。
マルトが戦地に赴いている夫に手紙をしたためている場面は特に顕著。本心じゃ無い言葉は書きたくないと言いながらも主人公に言われるがままに夫への愛の言葉を連ねていくけど、気持ちの揺らぎを見せることで悲劇の妻を演じているのではという印象だったし。たぶん後ろめたいなんて思っていない。
終盤、主人公の子を妊娠したけど時期的に夫の子かもしれないなんて言い出す始末だし結論は分からないまま文字通り墓場まで持って行ってしまうし。
主人公は大人びた思考をしているようでやっぱり中身は年相応に子供なのには違いなかった。思春期特有の拗らせ。都合が悪くなれば大人に押し付けちゃえってところとか。
そんな子供を自らの思うままにコントロールして夫の不在で出来た隙間を埋めていくのは悪魔じゃなきゃ出来ない。既に周囲には少年との関係が知れ渡っていても夫に対しては従順な妻でいることを貫いて見せるグロテスクさ。
だから『肉体の悪魔』なのだと。 -
Posted by ブクログ
大学のフランス文学講義の予習で読みました。
フランス文学は人間の内面を緻密に表象していくのが特徴的ですが、「肉体の悪魔」では感情をどこか俯瞰したような機械的な描写で内容が濃かったです。
マルトと僕のお互いのバランスの駆け引きが一文で記されたりしますが、何倍も時間をかけてじっくり読みました。
主人公「僕」もそんな語り方の癖を自覚しているかのように、このように語っているのが面白いです。
『父の首尾一貫しない行動の理由を知りたいという人のために、僕が3行で要約してあげよう。最初は僕を好き勝手に行動させておいた。次にそのことを恥じて、僕よりむしろ自分に腹が立ち、僕を脅した。だが結局、怒りに流されたことを恥じて、僕の手綱を緩めたのだ。』 -
Posted by ブクログ
登場人物を全員張り倒してやりたい・・・この話をここまで高潔な文章で静謐に綴った著者が本当にすごい。
しかも、内容がすべて主人公の少年の回想と独白というスタイルなので「相手が本当はどう思ってたのか」とか「本当のところはどうだったのか」とかが曖昧で何度も読んで色々考えるのも面白い。本当に主人公との子どもだったのか?それとも夫?彼女は最後に読んだのは主人公の名前?それとも子供の名前?
それにしても、妊娠後期の女性を極寒の雨の中歩き回らせる主人公を本当に張り倒したい。それ以降彼女は体調を崩し、産後の肥立ちも悪くそのすぐ後に亡くなるので主人公のせいで彼女は亡くなっているのでは。だけどそれを、彼女は望んでたのかもしれない。