安永祖堂のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
評価あんまりよくないけど・・・これ面白かったよ!!
禅という、アブナくて変テコで、それでいてヤクザな(いや、ほんとに)宗教を、よくぞここまでわかりやすくしかもそのややこしさを損なわずに書いたなーと、とても感心した。
禅の本質ってなんぞや。これは究極の問いである。
What is zen?
わからない。というか、わかる人なんているのだろうか。もしいるとしたら、それはきっと「悟った」人であろう。で、もしそんな「悟った」人がいるとしたら、それは凡人から見ればかなりの確率で「イッちゃって」いる人だろう。
つまりは、日常からの超越である。その人の規範は、きっと日常から超越してしまっているのではないかと思う。
禅は厳しい宗教である。これは間違いない。
禅とは「自力」の宗教である。神も、経典も、信心も、禅は与えてくれないし、なんら教えてくれない。
ひたすらに「悟り」を求めるのに、その「悟り」の境地を図るものさしが一切ない。
だから己のみがある。しかしその「己」に執着してもいけない。では「無」というのがその境地かと言えば、これまた違うようである。
なんだ?
悟りってなんなんだ?
自分が全てなら、ものさしがないのなら、私は今のままでも十分悟ってるのと、どう違うの?
作中で司馬遼太郎の言葉が引用されていたのだが、その言葉が印象的だった。
「禅宗というものは、難しい。禅宗はやったほうが悪くなってしまう感じがする。1万人に1人だけが悟りの境地に行けるけれども、9千999人はやらない前より悪くなるのではないか」
ああ、わかる、と思った。司馬さんがそう言いたくなる気持ちが。
禅は突き詰めていけば、主観の肯定というところに触れざるをえないのではないか。そう言えば聞こえはいいが、それはつまり、社会のものさしの否定へと、簡単に繋がりかねないのでは?
だからこそ、禅は厳しくなったのだろうな、とも思う。あまりに自由すぎるから。だから、戒律や規範で常に自身を戒める必要があったのだろう。
自由すぎるからこそ、自分でしかその境地を計れないからこそ、禅は厳しくなった。そうでなければならなかったのだろう。
だから、禅宗のお坊さんはこっちが引くぐらい自分に厳しいのだと思う。禅の有名(?)なお坊さんに、イッちゃってるという人が多いのもそのせいだろうなー、と思った。
文章自体もとてもうまいし、エピソードの出し方もとても理にかなっていて、読みやすさと内容とのバランスも大変よかったと思う。
でも、この帯はやめたほうがいいと思うよ(笑)。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ禅というものをその教えの概要と歴史、また修行の上に禅僧たちが紡ぎだした禅語、公案の話などが網羅され入門書としてとりつきやすい。
心に残ったところ
・四諦・・苦を取り除く方法「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」がある。
・八正道・・正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
・聖俗、善悪、左右という相対的な考え「分別」は嫌われる。無位とは差別がない人。
・「安心」とは心を知る、心を見ること。
・「人は仏だからこそ仏としての修行をせねばならない」
・嬉しい時は心から喜び、苦しい時はとことん悩み苦しみ、悲しい時は思いっきり泣く。瞬間瞬間を全身全霊で生きて、そのことに執着しなければ安心立命できる。
・道は人が歩こうと思ったり、思わなかったりで現れたり、消えたりするものではない。
・「求心止むところすなわち無事」
・今、という瞬間は再び訪れないのだから、この瞬間を大切に過ごす。
・足るを知ることは富むなり
・自由とは自らに由るという意味
・毎日行っていることが、真理追究の道である
・逆境にいるときは「ここから何かを学べればそれもよい」と開き直る
・「無心」とは客観的対象により起きる観念が全くない状態
・ちっとも前進しなくても、ただ黙々と今やるべきことをやる
・「四無量心」・・大慈悲・大悲心・大喜心・大捨心
・対象から逃げず、積極的にぶつかってとことん背負いこめ
・人間である限り情動などの本能はなくならない
・人は分別が強すぎて、良し悪しを見てしまうが、それは真理ではない。
・災難に会うときは災難に会うがよい。死ぬときは死ぬがよい。これが災難を逃れる方法である。