丸山真男のレビュー一覧
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とても良い本なのだろうとは思うのですが難しい。
気になった、心に残ったところ。
Ⅰ日本の思想から(p.7)「断片的な思いつきを過度に尊ぶ「オリジナリティー」崇拝」。この本は1961年に出版されているのですが、現代にも通じるように思った。
Ⅲ思想のあり方についてから(p.138)総合大学について「いろんな学部が、一つの地域に集中しているにすぎない」「総合的な教養が与えられるわけでも、各学部の共同研究が常時組織化されているわけでもない」「ユニヴァーシティという本来の意味からかけ離れている」という当時の大学批判は、現代ではどうだろうか?国立大学が民営化され、個々の大学が独自色を模索し社会とつながろうと様々発信してくれているように、変わってきているのではないか。
Ⅳ「である」ことと「する」こと。この章は講演を基にしていることもあってか、比較的わかりやすく、心に残った。日本国憲法の十二条に対し(p.155)「国民はいまや主権者となった。しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もやは主権者でなくなっているといった事態が起こる」というのは、これまた、まさに現代でもいえることではないか。日本人は政治を論じない、日本は若者が政治を語ることを求めない、勧めない。政府にアクションを取ることもしない、教えない。(p.156)「自由は」「現実の行使によってだけ守られる」「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうる」ということは自由以外のことに対しても言えるし、何より「自由」であることは、本来他の何より優先し、持つことを意識しないでいると失われてしまいかねない。 -
Posted by ブクログ
日本の思想に歴史的連続性はないということ、それは残念なことだけれども、現状を見つめなおしてそこから出発しましょうという話です。
新たに思想的座標軸を作ってやろうという話ではなく、むしろそれは無理だと思うと述べています。
この本には書かれていませんが、思想よりも底辺にあり丸山眞男が「古層」と呼んだ古代以来の日本の考えを詳しく知りたくなりました。
1.この本を一言で表すと?
・日本の思想に歴史的連続性はない
2.よかった点を3〜5つ
・あらゆる哲学・宗教・学問を---相互に原理的に矛盾するものまで---「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものは、まさにそうした精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想であった(p14)
→なんでも受け入れる柔軟さが昔からあったというのはおもしろい
・ある対象について多くの人々が抱くイメージが共通してきますと、たとえばアメリカってのはこうゆう国だ、あるいはソヴィエトっていうのはこうゆう国だというような、漠然とした、それほど体系的に反省されていないような一つの像ですね、その共通の像というものが非常に拡がっていきますと、その化けものの方が本物よりもリアリティをもってくる。つまり本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそうゆうイメージを頼りにして、多くの人が判断し、行動していると、実際はそのイメージがどんなに幻想でもあり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そうゆうイメージが新たな現実を作り出していくイリュージョンの方が現実よりも一層リアルな意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。(p127)
→固定化されるとイメージは勝手に膨張するのでイメージ化は恐ろしい。
日本の近代の宿命的な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靭に「である」価値が根を張り、そのうえ「する」原理を建前とする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発する(p175)
→日本の多くの企業の問題に通じる話。現代でも同じ問題はあるとおもう。
2.参考にならなかった所(つっこみ所)
・武士道についてあまり触れていなかったように思うが、それは連続した日本の思想ではないのか?
・國體という単語が出てくるが「国体」とはどう異なるのか?
3.実践してみようとおもうこと
・「であること」に安住することの無いようにしたい
4.みんなで議論したいこと
・現代でも「日本の思想」に思想的座標軸は欠如しているのか?
5.全体の感想
・?、?章は難しい。本全体の半分くらいしか理解できてないと思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ〇要約(~71頁)
日本の民俗信仰である「神道」は、かねてよりその時代に有力な宗教と習合してその教義内容を埋めてきた。このような「神道の無限抱擁性と思想的雑居性」が相互に矛盾し得る哲学や宗教、学問等を平和共存させる思想的寛容の伝統の下に受け入れたため、新思想は無秩序に埋積され、近代日本の精神的雑居性は甚だしいものとなった。また、思想や価値観というのは、他からの刺激があって初めて自覚的で意識的なものとなるが、我が国ではかつてより他との関連の中で、自己を歴史的に位置づけるような思想に乏しかった(あったとしても断片的なものであった)ため、開国後西洋文化と対決することもなく、むしろ、自国の思想的伝統を曖昧なものにしたのである。
開国後近代化に伴い、日本では、近代社会の必須要請である機能的合理化(ヒエラルキーの成立)と家父長的あるいは情実的人間関係という相互に矛盾し合うバランスを上からの国体教育の注入と下からの共同体的心情の吸い上げによって調整していく統治技術が求められた。そして、上述ように、我が国の確固たる思想や精神が確立されないまま、近代天皇制が精神的機軸としてこの事態に対処しようとしたが、私たちの思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけで強力に働いた。
すなわち、日本は、基底に共通した伝統的カルチュアのある社会ではなく、最初から専門的に分化した知識集団がそれぞれ閉鎖的な「タコ壺」をなす社会なのである。
とにかく難解。1度読んでも内容が理解できず、2度目に何が分からないかが分かり、3度目にようやく文章の論理や内容がところどころ理解できるようになるレベルであると感じた。普段用いない用語が多いこともあって、言葉を読めてもその具体的意味が頭に入ってこないことが一つの要因なのかもしれない。
日本では昔から、他との関連の中で、自己を歴史的に位置づける思想に乏しかったとあるが、その要因として、日本が海洋国であることや特に江戸時代には鎖国体制にあったことが考えられ、そのことが本書には記載されていないが、このようなことはおそらく当然の前提としているのであろう。
難解な文章ではあったが、「制度」と「精神」の関係(40頁周辺)は勉強になった。政治や経済の制度「それ自体は世界共通であっても、人間関係が介在した制度はすでにカルチュアによって個性的な差を帯びる」ため、何らかの制度を創設、分析する際には、制度における精神(制度下にある人々の精神)を含めた全体構造を検討する必要があるというのは、政策を立案する時には頭の片隅に置いておきたい事項といえるであろう。 -
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メモ
P12
過去に「摂取」したものの中の何を「思い出」すかはその人間のパーソナリティ、教養目録、世代によって異なって来る。
Cf.P11小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。
P29~
近代日本の機軸としての「国體」の創出。P40の森有礼との論争を見ても分かるが、伊藤博文は傑物である。
P35 注釈
いまや忽ち五ヵ条の御誓文から八百万の神集いの「伝統」まで思い出されて~~
は、至言である。
文芸復興期
1934~37
文学主義vs科学主義←マルクス主義により始めて導入された。
また、同時期には1934年に天皇機関説問題、また世界的なファシズムの拡大などがあった。
➡文化の危機という意識がかつてなく広い規模で知識人の間に広まった。
P154
権利の上にねむる者 -
Posted by ブクログ
ようやく重い腰をあげて開いてみたら、本編の前に、序章の「古典からどう学ぶか」が興味深い。
日本における古典離れの指摘から、何故古典を読むべきなのか、どういう心がけで読むべきかという話。その過程で取り上げられる現代の日本人の行動心理やパターンが、ほとんど古典を読んでいない自分でも(むしろ読んでいないから?)、なかなか身につまされる。
無理に肩に力を入れて本と向き合う必要はないと思うけど、たまには、この人の言うことを素直に聞いて、気を引き締めて読んでみようと思う。
本編については、まだ上巻で折り返してもいないので、また読み終わってから振り返りたい。