【感想・ネタバレ】日本の思想のレビュー

あらすじ

現代日本の思想が当面する問題は何か。その日本的特質はどこにあり、何に由来するものなのか。日本人の内面生活における思想の入りこみかた、それらの相互関係を構造的な視角から追求していくことによって、新しい時代の思想を創造するために、いかなる方法意識が必要であるかを問う。日本の思想のありかたを浮き彫りにした文明論的考察。

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Posted by ブクログ

半年かかってようやく読み終わった。
丸山節に耐えながら、よく頑張った。

日本の思想界の問題点を短く難解に言い表してくれている良書。マスターピース。

最後文化の領域で急に「である事」に擦り寄るのはちょっと狡いんじゃないの?と思った。

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2024年12月11日

Posted by ブクログ

個人的には、「である」ことと「する」ことが好き。平易な文で書かれていつつも、近現代日本の政治思想を理解するための補助線としてとてもわかり易い。
ちょっと実存主義的??って感じはするが

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2021年05月24日

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ネタバレ

1961年発行だけど、ちっとも古くない。

日本における思想の特徴は”歴史的に構造化されない雑居性”にある。「神道」は、その時代に有力な宗教と習合して教義内容を埋めてきた。明治以降の近代日本は、底辺の共同体的構造を維持したまま天皇制官僚機構にリンクさせる統治技術を導入し、国家秩序の中核自体を精神的機軸(→国体)とした。近代日本は権力(国体)と恩情(伝統)との統一によって運転されてきた。従来の共同体に見られる「タコ壷」を天皇制がつないできたが、戦後は天皇制が無くなりマスコミが共通の言語・文化を作り出すようになった。日本の伝統である思想的雑居性は「全体主義」「民主主義」「平和主義」を同時に包摂するため、否定的な同質化(異端の排除)の面でだけ強力に働く。また日本では、自分の生活と実践の中から制度作りをしていった経験に乏しく、制度そのものが一人歩きし前近代的な規律主義思考(理論信仰、制度の物神化)となり、本来の民主主義からは倒錯した形態をとるようになった。

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2020年07月27日

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1 日本思想の伝統の蓄積されないこととその理由について
 さらに、それが國體との関係性でどのように国民精神を養ってきたか

2 文学を特にマルクス主義文学をモチーフに、文学、政治、科学の三点対立で考える。科学の優位から文学の優位へ
正直、ここは理解しきれず

3タコツボ的な日本社会のあり方,イメージの壁の分厚くなる傾向への鋭い批判と危機意識
その契機を、前近代にみるのではなく近代思想の取り込みの段階にみるのが面白い。

4である価値とする価値の倒錯の起きていることへの危機意識
政治はする価値であり、芸術はである価値だ、というのにハッとする

めちゃくちゃすごい。こんなことを考えられる人がいるのが信じられない。
今読んでも、現代社会を鋭く描写していると感じるところから我々の進歩のなさと、それがいかに日本に根深く巣食っているかを感じる。

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2020年03月04日

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名作『「である」ことと「する」こと』。
この明解な分析に何度もうならされた。
自分も含めて日本社会では、「である」ことになぜこうもこだわっているのか。なぜ相手を「である」で分類してしまうのか。
見通しがたちつつも疑問が深まった。

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2019年03月04日

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・日本の思想は、いつでも何かの外来文化を骨格として受け入れ、自らはその周縁で生き続けるというある種巧いやり方で生き延びてきた。これに近いものは、河合隼雄の中空構造の日本の深層でも紹介されている。
・日本の学問は、タコつぼ型で、ヨーロッパ的学問のように根幹がない。そのため、どこかで自分の学問が別の分野とつながっているという意識が弱いと語られている。専門化、セクショナリズム化して、内輪ネタの応酬になりやすいのはそのためで、大学生として、様々な学問に触れてその根幹とやらを掬い取ってみたいと大学1年生ながらに野心を持つきっかけを作ってくれた本である。

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2017年01月04日

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日経womanにて「ベストセラーしか読まない人は薄っぺらく見える」的な文章があり
紹介されていたこの本をそっこー読んだ。
結局他人のおすすめを読んでいる時点でベストセラー拾い読みと同じことをしているのだが、まぁいいだろう。
ちょっとは厚く見えるようになっただろうか…(鏡に映る自分の姿はしっかりと厚みあり。)

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2016年02月07日

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2章まではかなり難解でマルクス主義をベースに文学主義と科学主義の変遷を綴っているが、3割も理解出来なかった。欧州の歴史や各哲学者の主義を知らないと完全に理解するのは難しいと思われる

一方、3章以降は丸山さんの話がメインで書かれているので読みやすいです
特にササラ型とタコツボ型、「である」と「する」などは現代の様相を上手く表現していて的を得ていると感じる

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2025年05月08日

Posted by ブクログ

他で日本思想の入門書を読んだので、もう一歩踏み込んでみようかしらと思って手に取った。入門書で感じていた「あれ?そもそも日本に思想てあるのか?」という問いにこの本は応えてくれた気がする。
ベースとなる知識が必要なので、全てを理解したわけではないが読み取れる部分からは発見と驚きがあり、面白かった。

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2024年04月30日

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國體(国体・こくたい)という非宗教的宗教、タコ壺文化とササラ文化、日本特有のイデオロギーが、権力者に通底する無責任体質とつながっている。その基盤に近代からの天皇制があるだろう。誰かのせい、もしくは先例重視に努めてしまうと、皆が保身に終始する社会となり決して向上しない。変わらない、変えないことを伝統・保守とうそぶく輩が台頭する限り令和のニッポンは進歩を望めない。

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2024年03月26日

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“右にのべたような状況、すなわち一方で、「限界」の意識を知らぬ制度の物神化と、他方で規範意識にまで自己を高めぬ「自然状態」(実感)への密着は、日本の近代化が進行するにしたがって官僚的思考様式と庶民(市民と区別された意味での)的もしくはローファー的(有島武郎の用語による)思考様式とのほとんど架橋しえない対立としてあらわれ、それが「組織と人間」の日本的なパターンをかたちづくっている。(p.52)”

 言わずと知れた、岩波新書を代表する名著である。書名の通り、日本の思想の特質とは何かについて述べており、現在巷間に流布している「日本論」の出典の一つといって良いだろう。2、3年前に夏の古本市で手に入れてからずっと積読していたのだが、今回漸く読み終えられた。

1 日本の思想
 本書の中心となる小論である。理解できているとは思わないが、概略だけまとめておく。(以下、(?)を付けた箇所は僕の解釈なので、誤っているor言い過ぎている可能性大。)
 まず丸山は、日本的特質は、思想の軸を持たないがゆえに終ぞ内部に連関を持ちえなかった、思想の無秩序な雑居性にあると述べる。
“…それらがみな雑然と同居し、相互の論理的な関係と占めるべき位置とが一向判然としていない…(p.8)”
西洋文化ではキリスト教が思想の軸としての役割を果たしていたため、例えばニーチェによる道徳の欺瞞性の指摘がヨーロッパ的伝統に対する強烈なアンチテーゼとして機能した。一方で日本では、仏教にせよ神道にせよ、宗教が思想上の軸として作用するような伝統を形成しなかったため、新しく外からやってきた思想は「伝統」との対決を経ず、なし崩し的に受容される。再びニーチェの思想を例にとると、文脈が大きく異なるにも拘わらず、日本人の生活実感としての無常観の一類型として分かったことにされてしまう(ことがよくある)。
“いろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。(p.11)”
丸山はこのような特質が生まれた原因までは明言していないが、日本の歴史的な後進性・辺境性は一つの要素だろう(?)。つまり日本が、古代から中世においては中国文化を、近代以降においては西洋文化を、と、外からやってくる文化を受容する立場であり続ける立場であったことに由来するのではないだろうか。このようにして外来思想を尊び貪欲に取り入れる一方、その反動・自己防衛として(?)イデオロギー一般を拒否し、直接対象に参入しようとするもう一つの傾向も古くから根強い。その典型が、漢意(からごころ)や仏意(ほとけごころ)を斥け、儒仏以前の「固有信仰」を復元しようとした国学の本居宣長である。明治維新を機に国家として自らを画することになった日本は、上(=外)から注入される官僚的制度と、下から立ち昇る「村」共同体的同化思想が混合することによって、超近代と前近代が歪に同居する事態に陥ったというのが日本社会の問題点である。
“…合理的な機構化にも徹しえず、さりとて、「人情自然」にだけも依拠できない日本帝国はいわば、不断の崩壊感覚に悩まねばならなかった。(p.49)”
 外山滋比古は“第一次的現実にもとづく思考、知的活動に注目する必要がある(『思考の整理学』p.195)”と述べたが、実は日本ではそれが二重に阻まれていたのである。一つは完成品を有難がり、手ずから思想を作り上げることを相対的に下に見る傾向によって、もう一つは生活実感を抽象化し思想にまで昇華させることを忌避する傾向によって。

2 近代日本の思想と文学

3 思想のあり方について
 社会の2類型として「タコ壺」社会と「ササラ」社会という対比を導入し、日本社会は、根底に共通した基盤を持たない「ササラ」社会であると述べる。

4 「である」ことと「する」こと
 僕が丸山真男を知ったのは高校の国語の教科書だったが、その時に載っていたのがこの文章。或るものの価値は、そのもの自体であることから先天的に生じるとするのが「である」論理で、現実的な機能や効能から生じるのが「する」論理である。文化や学問の分野では「である」論理が、政治(民主主義)の分野では「する」論理が適用されるべきであるが、実際にはそれらが倒錯している点を丸山は問題視する。
“…「『する』こと」の価値に基づく不断の検証がもっとも必要なところでは、それが著しく欠けているのに、他方さほど切実な必要のない面、あるいは世界的に「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしているような部面では、かえって効率と能率原理がおどろくべき速度と規模で進展している…(p.176)”

 特に1,2が難解で、何度か読み直して丸山真男が何を言っているかがやっと分かってきたところであるから、実際にこの本で為された議論が現代社会に対してどの程度当てはまるかということはこれから吟味していかなければならない(このレビューも、大雑把な展開をまとめるだけのものになってしまった)。少なくとも、部分部分として見ると肯けるところが多かったように思う。

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2024年12月30日

Posted by ブクログ

ニーチェの反語は正を積極的に肯定するキリスト教社会において、現実と激しい緊張感を生むが、日本のように生活の中に無常感がある社会では、むしろテーゼとして受け入れられてしまう。
本居宣長は儒学の為政者に都合の良い欺瞞性を看過し、儒仏以前の固有信仰を復元しようとした。しかしこの国の神道は時代時代の有力な宗教を習合して教義内容を埋めてきた、いわばのっぺらぼうである。
戦前の国体という観念もまた無限定的な要素を包容する観念である。この無限定性は巨大な無責任への転落の可能性を内包している。
維新後の急速な近代化を支えたイデオロギーは家族国家観である。決断主体の明確化や利害の露わな対立を回避する情緒的結合態である。
日本人の精神性は雑居性と同質性に特徴がある。雑居を雑種に高めるため強靭な自己制御力を持つ主体を生み出すことが課題である。

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2022年01月16日

Posted by ブクログ



岩波新書 丸山真男 「 日本の思想 」

新書1冊読むのに、事前に副読本を2冊読むまわり道をしたが、その価値はあった

近代の批判というより、日本の近代の流入の仕方を批判している。近代日本の精神の雑居と雑種の違いは なるほどと思う。全体を理解するキーワードは「自覚」と解釈した

著者の全体を通したメッセージは、新思想が無秩序に埋積された「雑居」を、内面的に交わり新たな個性となる「雑種」まで高めるには、著者ら研究者の分野を超えた横断的な対話を通じた伝統の自覚、日本精神の体系化が必要である、と捉えた


★日本の思想

日本の思想の構成
・無構造の「伝統」
・國體における臣民の無限責任
・天皇制における無責任の体系
・フィクションとしての制度〜制度の物神化
・マルクス主義

*日本における思想的座標軸の欠如
あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与えて〜自己の思想的立場を位置づける思想的伝統は、日本において 形成されなかった

*開国の意味
自己を国際社会に開くと同時に、国際社会に対して自己を国(統一国家)として画する

*無構造の「伝統」
過去は自覚的に対象化されて現在のなかに止揚されないからこそ、背後から現在のなかにすべり込む〜思想が伝統として蓄積されないことと、伝統思想のズルズルべったりの無関連な潜入は同じ

*フィクションとしての制度とその限界の自覚
フィクションとしての制度の自覚は、同時にフィクションと生の現実との間の鋭い分離と緊張の自覚〜もろもろの制度がオートマティックな運転を開始するにあたって〜制度の物神化という「近代の危機」に至る

*理論における無限責任と無責任
マルクス的考え方は〜自己の依拠する理論的立場が本来現実をトータルに把握する〜無限の現実に対する無限の責任は、自己の学説に対する理論的無責任となってあらわれる

*タコツボ社会の日本
専門的に分化した知識集団が閉鎖的なタコツボをなし、共通の広場が形成されない社会

★近代日本の思想と文学
*政治的及び科学的なトータリズム
政治=階級闘争の全体性は、現実を全体的に捉える理論を 内面化することによって形象化される建前が貫かれていたこと、政治的トータリズムと科学的トータリズムとが見合った形で作家にのしかかっていたこと、そこにこそ「政治の優位」の原則が猛威をふるった秘密がある

政治における非合理的要素の切り捨てが、政治的なものと法則的なものをイコールに置いた「政治の優位」の思考が生まれる第一の帰結となる

*政治過程におけるエモーションの動員
政治過程において非合理的契機が発生するのは。政治が人間行動を組織化するという要請によって、人間性のなかのエモーショナルな要素を動員しなければならないため

政治過程における非人間的な契機は、理論の閉鎖性と完璧主義が実践面に翻訳された形態として現れる

*政治における決断の契機
政治過程は〜決断の埋積から成り立っている〜やってみなければ分からないという賭けの要素が一つ一つの決断につきまとう

*思考法としてのトータリズム
政治における直観と賭けの要素を絶対化し、自己目的化したのがファシズムのイデオロギーである〜例外状態における決断を規範と論理に優越させる点において、ファシズムが政治史上主義である所以がある

*政治、科学、文学における同盟と対抗の関係〜国策文学へ
哲学者、文学者、社会科学者が、それぞれの方法が違っていることを前提として、その基底にある知性の自由と普遍性を擁護する途が、双方において見失われた

★思想のあり方について
*人間はイメージを頼りに物事を判断する
イメージは、人間が自分の環境に対して適応するためにつくる潤滑油の一種〜自分が環境から急激なショックを受けないようにイメージを作り、それを頼りに思考し行動する

適応しなければならない環境が複雑になるに従い、われわれと現実の環境の間に介在するイメージの層が厚くなる〜潤滑油だったものが固形化して厚い壁を作ってしまう

*近代日本の学問の受け入れ方
哲学は 諸科学を関連づけ基礎づけることを任務とするが、近代日本では哲学自身が専門化しタコツボ化した

*近代的組織体のタコツボ化
ヨーロッパで機能集団の多元的な分化が起こっても、別次元の集団や組織(教会、クラブ、サロン)が 異なった職能に従事する人々を横断的に結びつけ、コミュニケーションの通路になっているが、明治以後の日本の機能集団は、それぞれ一個の閉鎖的なタコツボになってしまう

各組織体がタコツボ化すると、その組織体は、属するメンバーをまるごと飲み込んでしまう〜何が内であり何が外か無限に細分化される

★「である」ことと「する」こと
*権利の上にねむる者
自由は置き物のようにそこにあるのでなく、現実の行使によってだけ守られる〜自由になろうとすることによって初めて自由でありうる

*近代社会における制度の考え方
民主主義は、人民が本来制度の自己目的化(物神化)を不断に警戒し、制度の現実の働き方を絶えず監視し批判する姿勢によって、はじめて生きたものになり得る

*「する」価値と「である」価値の倒錯
厄介なのは、「する」価値に基づく不断の検証が必要なところでは、著しく欠けているのに〜「する」価値のとめどない侵入が反省されようとしている部面では、かえって効用と能率原理が進展している点

レジャーは「する」ことからの解放でなく、有効に時間を組織化するのに苦心する問題

*学問や芸術における価値の意味
教養(内面的な精神生活)においては〜自分について知ること、自分と社会の関係や自分と自然の関係について、自覚を持つことが問題である

芸術や教養は、もたらす結果より、それ自体に価値がある〜文化的な精神活動では、休止は必ずしも怠惰でなく、それ自身が生きた意味を持っている

*価値倒錯を再転倒するために
文化の立場から政治に発言し行動することにより「である」価値と「する」価値の倒錯を再転倒する道がひらける



文学の自律性の欠如
理論〜思想〜政治といった系列において前提とされる個人の主体性や人間的要素が見落とされる
*ある理論や思想の立場に立つことが個々の対象の認識作業において一義的な解答を引き出すとは限らない
*一定の政治的立場を選択したとしても、個々の政治活動をコントロールされるものではない



 

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2024年07月11日

Posted by ブクログ

「頭が悪いとはどういうことか」
この本を読めばわかるよ、と勧められて購入

Ⅱ章は集中力なくて飛ばしました
ごめんなさい

たしかにこれは
「頭がいい人はどういう人か」ではなく
「頭が悪いとはどういうことか」だなぁ

成功した人には成功した理由聞くよりも
失敗談を聞けってことか…
そういう意味でも丸山丸男は頭がいい

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2020年08月10日

Posted by ブクログ

丸山眞男(1914~1996年)氏は、日本政治思想史を専門とする政治学者、思想史家。その学問は「丸山政治学」、「丸山思想史学」と呼ばれ、戦後日本を代表する進歩的知識人の一人。
本書は、1961年に出版され、累計100万部を超えるロング・ベストセラー。私は50代半ばであるが、高校時代(1980年前後)に、本書は小林秀雄の『考えるヒント』と並ぶ必読書と言われ、教科書や試験問題でもお目にかかったような気がする。
本書は、「日本の思想」(1957年/岩波講座『現代思想』に発表)、「近代日本の思想と文学」(1959年/岩波講座『日本文学史』に発表)の2本の論文と、「思想のあり方について」(1957年/『図書』に掲載)、「「である」ことと「する」こと」(1959年『毎日新聞』に掲載)の2本の講演文から成っている。
2つの論文は、それぞれ、日本の思想が持つ「無構造」という構造について、近代日本の文学と思想の関係性とその特徴について、論じているが、必ずしも読みやすい内容ではない。
一方、2つの講演文は、その文体のお陰もあり読みやすく、かつ、分かりやすい示唆を与えてくれるものである。
「思想のあり方について」では、社会・文化の型を「ササラ型」と「タコツボ型」に分け、ヨーロッパが前者であるのに対し、近代日本は後者であるとし、その問題性を論じている。そして、その主たる背景として、西洋学問が、ギリシャ-中世-ルネッサンスという長い文化的伝統が根にあって末端が分化している(=ササラ)にもかかわらず、近代日本では、西洋学問の分化した表層のみが移植された(=タコツボ)ことを指摘している。この点については、既に明治維新期に福沢諭吉が『文明論之概略』で警鐘を鳴らしていたが、今日でも日本において学際的な研究が進みにくいなどの状況に繋がっている。
また、「「である」ことと「する」こと」では、近代社会の制度は、定義や結論(=「である」)よりもプロセス(=「する」)を重視することによって成り立っているにもかかわらず、近代日本ではそれが浸透していないことの問題性を論じている。例えば、「自由」」や「民主主義」とは、そこに「ある」ものではなく、自由になろうと「する」、民主主義的行動を「する」ことによってはじめて、実現し得るものである。ハムレットの時代の人間にとって「to be or not to be」が最大の問題であったとするならば、近代社会の人間はむしろ「to do or not to do」という問いが大きな関心事になっているのだ。
出版から60年を経た今でも示唆を与えてくれる古典的名著である。
(2020年4月了)

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2020年04月15日

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タコツボ型とササラ型の出典はこの書からであろう。現代のカルチャーもタコツボ化の最たるものであろう、とこの思想論が通用する。

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2019年01月05日

Posted by ブクログ

前半についてはバックグラウンドの知識が少ないが故か、著者が全体として伝えたいことについて自分の言葉で何か言えるほどに理解できていない気がします。
後半については講演形式で分かりやすいです。タコツボ化や「である・する」の混交など、現代の日本でも未だ引きずり続けている問題に関する鋭い指摘は読んでいて楽しめました。

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2018年02月10日

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西洋の神学派生による統一性のある学問と日本の蛸壺式学問の違いは理解しておいて損はない。
まぁ、学問によらず様々な分野にこれは当てはまるだろう。
日本人とはやっぱり猿なんだよ。

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2017年07月21日

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ネタバレ

前半の二編は論文調で後半の二編は講演調であり、わかりづらい前半を我慢して読み進めると、後半で一息に面白くなった印象がある。日本人の特殊な精神構造を分析した本で、簡単に要約すれば、以下のようになるに違いない。著者のいう「ささら型(共通の伝統から専門に細分化する形)」として思想が発展してきた西欧に比べ、日本は「蛸壺型(没交渉なものが乱立する形)」と言える。というのも、日本が開国し、西欧に追いつくために盛んに西欧の思想や知識を吸収した際に、日本には西欧にあるような確固とした精神的支柱とも呼べるような思想なりが欠如していた。古来からの儒教的思想や仏教、神道的な思想は西欧のもつキリスト教を背後にする思想に比べると弱く、外と内でのせめぎ合いが生じることはなかった。そのため、日本人は外からのものを無批判に受け入れてしまった。戦時中となると、ここに「國體」が創設され、今まで日本人が持っていなかった精神的支柱のようなものが急ごしらえされ、これをもって日本人の思想的統一が試みられた。そしてこのことが日本の戦時中の悲劇を生んだひとつの原因となった。戦後、天皇を頂点とする「國體」が解体されたことで、再び日本人は奇妙な思想的状態にある。そこには古く江戸時代から続く、家柄などでひとを評価する「である」型の思想と、一方で、行動に価値を置く「する」型への思想への発展が混在している。また、共通の思想的流れを持ち合わせないところに、すでに専門化されたものを外から受け入れたため、多くの「蛸壺」を作る結果となり、日本の社会では、学問の世界や企業などにおいても、横のつながりが弱い特徴をもつ。

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2017年01月08日

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キリスト教と共産主義が、日本では「一貫性のある思想だから」という同じ理由で排除されたという分析は面白いと思った。「日本人は寛容である」という主張はよく聞かれる。それは一面では正しい気もするが、そう言い切れるものなのか常々疑問に感じている。

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2016年11月27日

Posted by ブクログ

日本の思想史を語るとき丸山眞男の名を外すことはできないという。彼は戦後民主主義の根を日本にどう下ろすかを問い続けた。封建的な上下関係や共同体への従属が近代化を妨げてきたと指摘する。その洞察は今なお社会の至る所に響く。だが七十余年を経た今も私たちは「空気」に縛られ異論を避ける風土から抜け切れていない。丸山の問いかけは過去の学説ではなく未来への宿題として私たちに残されている。

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2025年09月09日

Posted by ブクログ

前半難しかった。
講演をまとめた後半は急に言ってることがわかるようになる。
たこつぼ型とささら型の例にもあるように日本の思想には軸とか根っこがないということを言ってるのだけど、本当にそうなのか、またではどうすれば良いか?などを考えるには本が難しかったのでまた読んでみたい。
ひとまず考えるきっかけになる、という点で読んで良かった。

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2023年01月01日

Posted by ブクログ

数十年ぶりに読んだが、優れた内容であってもその時の思想体系に沿ったものは時代の流れとともに著しく陳腐化してカビが生えてくるとあらためて認識。

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2021年11月02日

Posted by ブクログ

とても良い本なのだろうとは思うのですが難しい。
気になった、心に残ったところ。
Ⅰ日本の思想から(p.7)「断片的な思いつきを過度に尊ぶ「オリジナリティー」崇拝」。この本は1961年に出版されているのですが、現代にも通じるように思った。
Ⅲ思想のあり方についてから(p.138)総合大学について「いろんな学部が、一つの地域に集中しているにすぎない」「総合的な教養が与えられるわけでも、各学部の共同研究が常時組織化されているわけでもない」「ユニヴァーシティという本来の意味からかけ離れている」という当時の大学批判は、現代ではどうだろうか?国立大学が民営化され、個々の大学が独自色を模索し社会とつながろうと様々発信してくれているように、変わってきているのではないか。
Ⅳ「である」ことと「する」こと。この章は講演を基にしていることもあってか、比較的わかりやすく、心に残った。日本国憲法の十二条に対し(p.155)「国民はいまや主権者となった。しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もやは主権者でなくなっているといった事態が起こる」というのは、これまた、まさに現代でもいえることではないか。日本人は政治を論じない、日本は若者が政治を語ることを求めない、勧めない。政府にアクションを取ることもしない、教えない。(p.156)「自由は」「現実の行使によってだけ守られる」「日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうる」ということは自由以外のことに対しても言えるし、何より「自由」であることは、本来他の何より優先し、持つことを意識しないでいると失われてしまいかねない。

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2021年04月05日

Posted by ブクログ

なんとなく難しかったが、全4章中後半2章は一般向けの講義を編集したものだし、そこはまだ理解がしやすかった(とはいえ議題として討議するにはきちんと勉強して全体をつかまないとわからないなという印象)。
断片的になるほどと思うことはあったが、特に日本には思想や文化が外から入ってきてそれに合わせていったという指摘が面白い。また、人はイメージを頼りにして判断するので当事者とそうじゃない人とではそのものの見方が違い、皆それぞれの立場で自分が被害者だと言い張るため加害者がいないのに被害があるというのも面白かった。

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2020年11月21日

Posted by ブクログ

大学の講義でかいつまんで学んだ本。
今はよく分からなかったら、卒業間際に読みなさいと言われた。またそのときに、改めて感想を書きたい。

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2020年08月09日

Posted by ブクログ

日本の思想に歴史的連続性はないということ、それは残念なことだけれども、現状を見つめなおしてそこから出発しましょうという話です。
新たに思想的座標軸を作ってやろうという話ではなく、むしろそれは無理だと思うと述べています。
この本には書かれていませんが、思想よりも底辺にあり丸山眞男が「古層」と呼んだ古代以来の日本の考えを詳しく知りたくなりました。


1.この本を一言で表すと?
・日本の思想に歴史的連続性はない

2.よかった点を3〜5つ
・あらゆる哲学・宗教・学問を---相互に原理的に矛盾するものまで---「無限抱擁」してこれを精神的経歴のなかに「平和共存」させる思想的「寛容」の伝統にとって唯一の異質的なものは、まさにそうした精神的雑居性の原理的否認を要請し、世界経験の論理的および価値的な整序を内面的に強制する思想であった(p14)
→なんでも受け入れる柔軟さが昔からあったというのはおもしろい

・ある対象について多くの人々が抱くイメージが共通してきますと、たとえばアメリカってのはこうゆう国だ、あるいはソヴィエトっていうのはこうゆう国だというような、漠然とした、それほど体系的に反省されていないような一つの像ですね、その共通の像というものが非常に拡がっていきますと、その化けものの方が本物よりもリアリティをもってくる。つまり本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそうゆうイメージを頼りにして、多くの人が判断し、行動していると、実際はそのイメージがどんなに幻想でもあり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そうゆうイメージが新たな現実を作り出していくイリュージョンの方が現実よりも一層リアルな意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。(p127)
→固定化されるとイメージは勝手に膨張するのでイメージ化は恐ろしい。

日本の近代の宿命的な混乱は、一方で「する」価値が猛烈な勢いで浸透しながら、他方では強靭に「である」価値が根を張り、そのうえ「する」原理を建前とする組織が、しばしば「である」社会のモラルによってセメント化されてきたところに発する(p175)
→日本の多くの企業の問題に通じる話。現代でも同じ問題はあるとおもう。

2.参考にならなかった所(つっこみ所)
・武士道についてあまり触れていなかったように思うが、それは連続した日本の思想ではないのか?
・國體という単語が出てくるが「国体」とはどう異なるのか?

3.実践してみようとおもうこと
・「であること」に安住することの無いようにしたい

4.みんなで議論したいこと
・現代でも「日本の思想」に思想的座標軸は欠如しているのか?

5.全体の感想
・?、?章は難しい。本全体の半分くらいしか理解できてないと思います。

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2018年12月30日

Posted by ブクログ

ネタバレ

〇要約(~71頁)
 日本の民俗信仰である「神道」は、かねてよりその時代に有力な宗教と習合してその教義内容を埋めてきた。このような「神道の無限抱擁性と思想的雑居性」が相互に矛盾し得る哲学や宗教、学問等を平和共存させる思想的寛容の伝統の下に受け入れたため、新思想は無秩序に埋積され、近代日本の精神的雑居性は甚だしいものとなった。また、思想や価値観というのは、他からの刺激があって初めて自覚的で意識的なものとなるが、我が国ではかつてより他との関連の中で、自己を歴史的に位置づけるような思想に乏しかった(あったとしても断片的なものであった)ため、開国後西洋文化と対決することもなく、むしろ、自国の思想的伝統を曖昧なものにしたのである。
 開国後近代化に伴い、日本では、近代社会の必須要請である機能的合理化(ヒエラルキーの成立)と家父長的あるいは情実的人間関係という相互に矛盾し合うバランスを上からの国体教育の注入と下からの共同体的心情の吸い上げによって調整していく統治技術が求められた。そして、上述ように、我が国の確固たる思想や精神が確立されないまま、近代天皇制が精神的機軸としてこの事態に対処しようとしたが、私たちの思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ否定的な同質化(異端の排除)作用の面だけで強力に働いた。
 すなわち、日本は、基底に共通した伝統的カルチュアのある社会ではなく、最初から専門的に分化した知識集団がそれぞれ閉鎖的な「タコ壺」をなす社会なのである。

 とにかく難解。1度読んでも内容が理解できず、2度目に何が分からないかが分かり、3度目にようやく文章の論理や内容がところどころ理解できるようになるレベルであると感じた。普段用いない用語が多いこともあって、言葉を読めてもその具体的意味が頭に入ってこないことが一つの要因なのかもしれない。
 日本では昔から、他との関連の中で、自己を歴史的に位置づける思想に乏しかったとあるが、その要因として、日本が海洋国であることや特に江戸時代には鎖国体制にあったことが考えられ、そのことが本書には記載されていないが、このようなことはおそらく当然の前提としているのであろう。
 難解な文章ではあったが、「制度」と「精神」の関係(40頁周辺)は勉強になった。政治や経済の制度「それ自体は世界共通であっても、人間関係が介在した制度はすでにカルチュアによって個性的な差を帯びる」ため、何らかの制度を創設、分析する際には、制度における精神(制度下にある人々の精神)を含めた全体構造を検討する必要があるというのは、政策を立案する時には頭の片隅に置いておきたい事項といえるであろう。

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2018年01月03日

Posted by ブクログ

メモ
P12
過去に「摂取」したものの中の何を「思い出」すかはその人間のパーソナリティ、教養目録、世代によって異なって来る。
Cf.P11小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。

P29~
近代日本の機軸としての「国體」の創出。P40の森有礼との論争を見ても分かるが、伊藤博文は傑物である。

P35 注釈
いまや忽ち五ヵ条の御誓文から八百万の神集いの「伝統」まで思い出されて~~
は、至言である。

文芸復興期
1934~37
文学主義vs科学主義←マルクス主義により始めて導入された。
また、同時期には1934年に天皇機関説問題、また世界的なファシズムの拡大などがあった。
➡文化の危機という意識がかつてなく広い規模で知識人の間に広まった。

P154
権利の上にねむる者

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2017年11月11日

Posted by ブクログ

寝る前のフォトリーディング。前半は論文で、後半は講演をまとめた者だそうだ。評判では「であること、すること」の章が良かった。前半は分かりづらくて不評であった。フォトリーディングではなにも感じ取ることはできなかった。

高速リーディング。
ササラ型文化とタコつぼ型文化。ササラは竹のささらで元が一つ。西洋はギリシャローマの歴史が根底。日本は何事も蛸壺化する。タコツボではリーダーは自分が被害者の意識を持ち、劣等意識の中で物事を対処。官僚組織がその例。彼らが自分中心に行動するのは、自分たちが巨大な組織で支配者であることを意識できず、常に被害者で自己防衛的な対処をするゆえ。

「である」ことと「する」ことについてはさほど理解ができなかった。

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2016年09月04日

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