吉田勝江のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレジョーとベア先生の学校が舞台となっている本作。
特に印象的なのは、うそをついたナットにベア先生が罰を与えるシーン。先生は、ものさしを持ってナットの前に現れる。ナットは自分が打たれてしまうのではないかと怯えるが、先生はなんとナットにそれを渡し、罰として先生を打つように命じる。ナットはそんなことはできないと言うが、結局打つことになる。このエピソードは、先生の愛を感じるものだった。最近、体罰をやめるべきだという意見が見られるが、このベア先生の教育方法は画期的だと感じた。もちろん、この罰は、ナットがベア先生のことが大好きで、尊敬しているからこそ成り立つものである。
また、この本の中では、メグの夫であるジョン・ブルックが亡くなる。1巻目の最後にカップルとなり、幸せな結婚生活を送っていた2人が引き裂かれてしまう。しかし、彼が亡くなってもメグは弱弱しくならない。3人の子を持つ母親としての強さだと思った。
若草物語は明るい調子の場面が多いが、身近な人物の死もしっかりと描かれている。2巻ではメグ、ジョー、エイミーの姉妹であるベスが亡くなり、3巻ではブルック先生が亡くなり、4巻の初めにはジョーたちの母親が亡くなったことが書かれている。このように死が描かれているものの、物語が暗くならない理由は、至る所に愛が描かれているためであると思う。ジョー、ローリーの祖父のベスへの愛、ベスから家族、知り合いへの愛、メグとジョン・ブルックの愛は、表面的に書かれているのではなく、ひとつひとつがエピソードとしてしっかりと描かれていた(1巻から3巻まで)。
この3巻では、ジョーやベア先生の子供たちへの愛が描かれている。
この本の魅力はそれだけではない。
子供たちの寄宿学校生活を楽しく描いているところも魅力だ。学校につどった子供たちの性格はさまざまである。ひとりひとりの長所・短所が描かれているが、根底はいい子である。ジョーやベア先生、こどもたち同士がお互いをしっかりと見て、尊敬していることがとても伝わってくる。中学時代にこの本を読んだとき、わたしもこの、プラムフィールドの学校に通いたいと思ったものだ。 -
Posted by ブクログ
ネタバレピアノに喜んでいたベスが見る影もなく病気でやつれ死んでしまった。けれど彼女の生きた意味はジョーが与えた。エイミーは海外で優雅な淑女に成長して、大人らしく言葉を紡ぐようになった。ローリーの弱さを見抜いて励ますヒロイン。ジョーはいつも溌剌としていて悲しみが訪れても、前向きに自分らしく生きることに誠実。ローリーではなくベア先生と夫婦になって正解だった。ジョーが間違いを犯したら喧嘩になりそうな同年代のローリーより諭してくれる誠実で朴訥な先生のほうが心安らかだろう。メグは結婚して家庭を持つも、夫との生活と育児との兼ね合いに戸惑い、マーチ夫人に助言をもらって夫と向き合って生きていくことを決意する。正直メグはもっとうまく主婦業をこなすと思っていたけど長女だからって初めてのことはわからないものなのだと気づいた。最後のページにはマーチ夫人が子供と孫に囲まれてしあわせを噛み締めて終わり。良かったー。3人とも結婚するなんて思ってなかった。あとエイミーじゃなくてベスが亡くなってびっくりした、前巻のエイミーの遺言は亡くなる伏線だと思っていたから。
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Posted by ブクログ
『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』公開記念で『若草物語』に続いて『続 若草物語』。
私が子供の頃は『愛の四姉妹』とか『愛の四少女』みたいなタイトルでした。中学生くらいのときに読んだつもりでいたけど、大筋以外すっかり忘れてました。当時の私にはジョーがローリーを振ってしまうとか、ベスが結局死んでしまうとか納得できなかったんだと思いますが、今回、読んでみたら、え!なにこれ、すごくおもしろいんですけど。
ドラマチックなストーリーもさることながら、メグの質素で素敵な結婚式とか、外国をめぐるエイミーとか、ディテールがとても良い。どんなドレスを着て、どんな花を髪に飾ったとか、そんな部分がキラキラしてます。
訳者あとがきは1968年となっているけれど、文庫版のあとがきらしいので訳自体はもっと前のものと思われます。良い意味で古くさくて生真面目な訳は、説教部分も多い本作によくあっています。
幸せいっぱいの結婚をしたはずなのに貧乏と家事、子育ての現実に悩むメグ、お金持ちと結婚しようとするエイミー、このまま孤独な老嬢(「オールドミス」っていう古くさい読み方、好き)になっていくんだって悲しむジョー。
現代にも通じるテーマだけに、幸せな結婚というハッピーエンドはいささか安易にも感じます。150年前に若い女性たちに向けて書かれたものだからしょうがない気もしますが、オルコット自身はどう思っていたんでしょうか。
映画ではルイ・ガレル(フィリップ・ガレルの息子。『ドリーマーズ』のセクシー兄ちゃん)が演じていたベア先生ですが、原作では「顔かたちだってりっぱとはいえない」男性で、20歳のジョーに対し、40代とかなり年上のおじさんです。それでも誠実な人柄が誰からも好かれていて、知的な会話もできる。ジョーがローリーよりもベア先生に惹かれたのも今なら納得できます。
とはいえ、学校を始めるあたりベア先生のモデルはオルコットのお父さんなのでは。
ジョーに振られたローリーがエイミーに再会して立ち直っていくのもわりと納得できる展開。(エイミーに求婚していたフレッド・ヴォーンは、『若草物語』のローレンス・キャンプでズルをしてジョーを怒らせたイギリス人の少年。キャンプのときにメグのもうひとりの賛美者だったネッド・モファットは、メグの友達のサリー・ガーディナーと結婚してます。)
ほぼ忘れていた私がいうのもなんですが、『若草物語』にくらべて、あまり読まれていなそうな『続 若草物語』。20代くらいの女性だったら今でも共感できるところも多そうで、むしろこっちのほうをぜひ読んでほしいと思いました。
以下、引用。
画室の片隅から人をにらんでいる色の黒い少年たちや黒い目のマドンナたちは、お世辞にもムリーリョを連想させるものではなかった。誤った方向に一条のものすごい光線を引き、油っぽい茶色の影をつけたたくさんの顔はレンブラントのつもりである。丸ぽちゃの貴婦人たちと水ぶくれの幼児たちはルーベンスだった。そしてターナーは、水色の雷とオレンジの稲妻と茶色い雨と紫の雲で表されていたが、その絵の中央にあるトマト色のしみは、見る人の心に太陽とも見えれば浮標とも見え、また水夫のシャツとも王様の衣とも見えるのであった。
「お姉さまは肘を張ってつんとして世の中を押し通していらっしゃりたいなら、そうなさるといいのよ。それが独立だとおっしゃるんでしょう。でも私のやり方は違うんですもの」
彼女のペンの魔力によって、その「がらくた文」は家の者みんなに安楽な思いをさせるものと化した。「公爵の娘」は肉屋の勘定を払い、「幽霊の手」は新しい敷物を買い、「コヴェントリー家の呪い」は雑貨屋の払いをすませたうえみんなのガウンを買うという恩恵をマーチ家にもたらした。
富というものは確かに結構なものである。しかし貧困もまた楽しい反面をもっている。精神的と肉体的とを問わず一生懸命に働いて得たところの純粋な喜びは、逆境というもののもたらす幸福の一つである。この世の中の賢く、美しく、有用な恩恵というものは、半分くらいは必要という刺激があってはじめて得られるものである。ジョーはそういう喜びを味わうことを楽しみ、お金持ちの娘たちをうらやむことをやめた。そして足りないものは自分の力で整え、他人に一銭の助力も乞わなくてすむことを知って、大きな満足を覚えたのであった。
「美しきものは永遠の喜びっていうのは、あんたのことよ」
というのは彼女はアメリカに生まれ、アメリカに育ったにもかかわらず、こういう称号に対しては尊敬の念をいだいていたが、そういう考えはまたたいていのアメリカ人につきまとっているものであったーそれは今は承認されていないとはいえ、その昔に国王を信頼した忠節の思いなのであって、それがあればこそ、数年前に黄色い毛の若者(プリンス・オブ・ウェールズ)が来訪のおり、世界で最も民主的なこの国民が興奮したのであり、そうしてまたそれはこの若い国が古い国に対して今なおいだいている愛情にもいささか関係があるのである。
「あの人たちが卑劣だかといって、私までそうしなければならないってことはないでしょう。私はそういうことがいやなのよ。私は感情を害したってかまわないのですけれど、それを表にあらわしたくはないの。荒っぽいことを言ったりするよりも、だまっているほうが、かえってあのひとたちに思い知らせることになるんじゃないでしょうか。」
「ひとに打たれたならば、キスで報いるのがいちばんなのです。なかなかそうはできないものだけれどね」
その領地には広壮な荘園だの、大きな館だの、美しい庭園だの、りっぱな馬だのがあるのです。ああ、ほんとに私のほしいものばかりです。ふつう女の子は称号のようなものにとびつくようですけれど、私はそんなあとに形も残らないようなものよりも、こういうもののほうがほしいと思います。
平凡で誠実で美しい人間を見たら、手当たりしだいにそれを研究するように、それは作家としてよい修業になる、というのである。
若者たちはそれをそのときは大して気にもとめないのであるが、のちに世に出てからは、どれほどの成功を遂げようとも、これほどの称賛をかち得ることはないのである。
エイミーのほうではもうはにかみをすてて、思うぞんぶんに彼を踏みにじってやりたいような衝動を感じていた。女の子というものは、男がちょっとでも服従の色をみせると、そんなふうにすることに喜びを感じるものである。
先だってある非常に美しい婦人が、「私は今も変わらず美しいのに、いったん結婚してしまったら、だれも私などにはふりむきもしなくなった」と言ったが、実際多くの婦人はこれと叫びを同じくするであろうと思われる。
それはどんな貧しい者でももつことができる代わり、富める者といえどもお金で買うことはできないものである。
「もっと低いところの、棘のないのをお摘みなさいよ」エイミーが言った。
「それからりっぱなご本を書くことよりも、世界中を見物することよりも、そうやって働くほうが、お姉さまのしあわせなのだってこともね。だって、どこへ行くにも自分といっしょにもって歩けるものは、愛だけでしょう。そしてそれは終わりをらくにしてくれるものなんですもの」
二十五歳の者にとって、三十歳という年はすべての終わりのように思われる。しかしそれは外から見るほどわるいものではない。ひとがもし自分の内にしっかりと頼むものがあれば、十分幸福に暮らせるものである。
「よくわかるわ。でもねテディ、私たちはもうどんなことをしても、少年と少女にはなれないのよ。」