G.W.F.ヘーゲルのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
面白かったですね。
(数年前に一度読んでいて、今、再読中)
もちろん哲学書の御多分に洩れず難解なのだけれど、この難しさの質は「何とかなりそうな」難しさです。私たちにも馴染みのある合理や理性の射程範囲にあるような。まあそれでも私のような凡人には難解極まりないのですが。
私個人としては哲学のテクストに文学性や矛盾性のようなものを求めているふしがあります。ヘーゲルのこれはまさにその宝庫で楽しく味わえます。
本書の面白さの一つは、困難や苦難を肯定し、受容するきっかけを与えてくれる(かもしれない)こと。
荘子の「楽しむところは窮痛にあらざるなり」を思い出します。
対立や衝突というものをどのように見 -
Posted by ブクログ
『精神現象学』のうち、精神、宗教、絶対知の各部を収める。理性にまで達した人間の意識は、それからも遍歴を続ける。精神においては、人倫、教養、道徳が問題とされる。しかし道徳に至ってなお、精神と対象の分裂が終わったわけではない。そこで宗教へと精神は展開されるが、そこでもまた分裂は終わらない。最終的に、意識ないし精神と対象との和解がもたらされるのは、絶対知すなわち学の境地においてであるとされる。人類の知の展開と自己の意識の展開とをパラレルなものとして把握しながら、自己の知を歴史のもとに把握する、というのは卑俗な概括かもしれないが、ヘーゲルの目指した学の何たるかを理解しようとするのであれば、この書は非常
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哲学・思想史でヘーゲルの名を不朽のものとしている名著。本訳では、序論、緒論、「意識」、「自己意識」、「理性」を上巻に収める。序論では、ヘーゲルの学の理念が語られる。それ以降は、精神の現象学すなわち「意識の経験の学」が展開されるが、それはあらかじめ不動の観点に立って意識を観察するというものではない。むしろ、意識の形成を「感覚的確信」から、あたかも意識を遍歴していくように、各々の観念を展開しては廃棄していく。そうした運動こそが「概念」であるというヘーゲルのテーゼは、概念についての概念の変革を企てたものだと理解できるだろう。意識がいかなる経験を経て、究極的にいかなる境位にたどり着くのか、それが「精神
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Posted by ブクログ
後半は〈精神〉章から。普遍性と個別性の統一的表現である〈ことがらそのもの〉に到達した自己意識が、立法的/査法的理性を持って恣意的にこれを認識しようとしたのに対し、社会制度を本質的なものとみなしこれを自らの行為で作り上げようとするのが〈精神〉。「精神」という名前とは裏腹に、それは万人の行為の根拠であり、自己の本質を内在化した人々の自覚的行為で作り上げられるような社会的な実体を指しているようだ。
個人と社会が美しく調和した〈人倫の世界(ギリシャ)〉では、精神は普遍的実体としての〈人間の掟〉と個別的意識としての〈神々の掟〉の二態で構成されるが、そこでは自ら考え行動する自由な主体が存在せず、個人は -
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古典哲学を解説本でなく直接原訳を読もうと思い立ち、デカルト、カントの次に選んだのがこのヘーゲル。カントの認識論を読んで大陸合理論に興味を持ったのが理由の一つだが、調べてみるとどうやらヘーゲルは哲学研究者の間では素人が迂闊に手を出してはなら哲学者の最たるものとされているらしい。普通はもっと他の哲学者に親しんでから手を出すべきもののようだが、しかしそんな遠回りをしていては僕のような門外漢の遅読者はいつまで経ってもヘーゲルに辿り着かずじまいだろう。だから、順序なんか関係ない、理解できなければそれまで、という軽い気持ちで読み始めた。僕は学徒ではないのだし。もちろん徒手空拳で挑む愚を避けるべく、事前に
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Posted by ブクログ
再読。
しかしヘーゲルは苦手である。何度読んでもやっぱり苦手だなと思った。
西洋哲学史上最も重要な代表作の一つとして尊重されている本書、最初の方は、「どうしてわざわざここでこんな概念を持ち出さなくちゃならないんだろう」と腑に落ちないながらも、まあ、すこぶる複雑な論理に知的興味を惹き付けられないでもなかった。しかし、ヘーゲルの言う「精神」は実体化し、いつのまにか共同体や果ては「国家」をも支える原理となってしまう。このへん、ルソーの「一般意志」とも共通点があるのかもしれないが、それと同様に危険な思想でもある。本書を読んでいると、あの「エーテル」というヘンテコな(誤った)当時の科学的常識が思い出され