あらすじ
ヘーゲルの主著(1807年刊行)の原文の構造に沿って完訳。意識が感覚という最も低い段階から経験を経て自己意識に、さらに理性から《絶対知》に到達する過程を描く大著の上巻。
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Posted by ブクログ
ヘーゲルの書いていることを、「理解」ではなく「感じる」「感得」できるためには、「人は嫌なことに向き合ってそれを克服することで成長するのだ」という経験を持っていれば十分だと思います。
そして、その経験(精神の運動)を人生のどこかのタイミングで止めてしまわずに、継続して日常や仕事を通じて、「どこまでいくの?」ということを繰り返している人は、この本に書かれていることの後になればなるほど、よく分かってくる内容だと思います。
たとえば、仕事において、
「人は嫌なことに向き合ってそれを克服することで成長するのだ」という経験のなかに、「自分は間違っているのか(否定)」ということを経て、その状況を克服するように「進化を遂げた自分(止揚を達成した状態)」を見出すとき、
そこには最終的に「自分を変えたのだ」ということが大いにあると思いますが、そうした自分が、元の自分を見れば(元の自分に帰ってきたら)、それは元の自分からずれた自分であると言えましょう。
これは仕事で、修羅場を経験して、痛切な進化を経験した人には感覚的に分かることだと思います。
では、これを繰り返したらどうなるか?それは「ずれた自分」からいつしか「別の自分」になっていくことは、論理的にも経験的にも予想できましょう。
その「別の自分とは?」という直前までが、この精神現象学(上)には書かれているように思います。
※
私は読み進めていって、上記を知って衝撃を受けました。
そのことを本に書き込んだ内容としては、以下のようなものです。
絶対的自分なるものは、自分の否定の運動のうちに見えてくるものであるから、なんと、それなしに「自分などという本体には絶対にたどり着けない」のであるが、そのたどり着く先は、なんと「自分」などではなく、
「自分ではない何ものかの理性なのではあるまいか」(P487付近を読んで)
Posted by ブクログ
哲学・思想史でヘーゲルの名を不朽のものとしている名著。本訳では、序論、緒論、「意識」、「自己意識」、「理性」を上巻に収める。序論では、ヘーゲルの学の理念が語られる。それ以降は、精神の現象学すなわち「意識の経験の学」が展開されるが、それはあらかじめ不動の観点に立って意識を観察するというものではない。むしろ、意識の形成を「感覚的確信」から、あたかも意識を遍歴していくように、各々の観念を展開しては廃棄していく。そうした運動こそが「概念」であるというヘーゲルのテーゼは、概念についての概念の変革を企てたものだと理解できるだろう。意識がいかなる経験を経て、究極的にいかなる境位にたどり着くのか、それが「精神」「宗教」「絶対知」で明かされるだろう。