エティエンヌ・ド・ラ・ボエシのレビュー一覧
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当時は教会が政治との結びつきが強く、政治扇動の書として誤解されることを防ぐため、友人のモンテーニュがラ・ボエシの死後も発表を躊躇したという書籍。
人は力や謀略により強制的に服従することはあっても、強制されずとも自ら進んで権威に服従するのは何故か。この自発的隷従のメカニズムついて様々な考察を示し、最も唾棄すべき悪徳として痛烈な批判を浴びせている。翻訳の絶妙さなのか、ラ・ボエシの批判的な文章が妙に強烈なのが印象的だった。
【一部引用】
彼らは強制されもせず、いかなる必要もないのに、圧政者に身を委ねた。私はこの民の歴史を読むと、きわめて大きな恨みの念を覚えずにはいられない。われながらまるで人 -
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「日本の状況が他人事と思えなくなる」の帯がついていましたが、一人の圧政者に云々という下りは、北朝鮮を思い起こさせました(著者はモンテーニュと刎頸の交わりがあったとのことで、引用はギリシア・ローマが多いのですが)。
圧政者一人が4〜5人を追従者として周りにつけ、徐々にそれを広げて権力基盤を固めていくというのは、企業でも似たところありかとも思いました。
本文は80ページほどの短いものですが、最後の西谷修氏の解説が圧巻です。対米追随の日本の現状を分析し、これを権力基盤としている政党や追随者の話は、別に一冊書いて欲しいと思うほどの内容です。これを読むと、「日本の状況が他人事と思えなくなる」というの -
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自発的隷従論 ポエシ ちくま
公務員でありながら
客観性に飛んだ人間論を持った人によって
1500年代に書かれた稀有な本だ
人の本質には個としての自律心と
全体の一部としての依存心が共存しているのだろう
そのどちらが表面化するかによって
生き様が変わるのだけれど
自主的参加による集いから
余剰生産物の到来による社会の肥大化で
個人が組織に飲み込まれて以来
主従関係が蔓延することになる
そこで生み出されたのが
奴隷と戦争に支えられたギリシャにおける
民主主義モドキの貴族社会であり
このボエジの本である
つまり赤ん坊が親と環境に依存すると同時に
自由奔放に自己を表現するように
人間は本来冒険 -
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その刺激的な題名と、書かれた時代(16世紀末)とのギャップから受ける印象を全く裏切らない刺激的な内容は、その平易な訳と相俟って、強いメッセージ性を帯びたもので、一気に読み進むことが出来た。
又、本書の約半分を占める解題や解説は、その内容を読み下す助けの役割を十二分に果たしており、この手の重い本にしては極めてコンベンショナルな内容であった。
時代は全く異なるが、かつて大学で学んだ黒人文学の中で接した「リロイ・ジョーンズ (LeRoi Jones)」の詩に、極めて似た内容の詩があるのを思い出した。
『奴隷は、奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。ど -
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ネタバレとても色々なことを考えさせられる刺激的な本だった。読むことができて大変良かったと思う。
この本はとても素朴な疑問から出発している。なぜ何百人、何万人もの民衆が、数の上では圧倒的に有利なのにも関わらず、たった1人の圧政者に従うのか。
著者はその疑問を考察していき、本来自由なはずの人間が習慣の力によって堕落し、自ら自発的に服従を求めるようになるのだと述べている。
なるほど、と思う。
思うに、この『自発的隷従論』が説く帰結の一つは「権力は存在しない」ということではないだろうか。
国家の権力なるものは暴力だとか社会契約といったものに起因するのではなく、ただ人間が生まれながらにして(あるいは習慣と -
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タイトルからしてインパクトあるこちらの本。敬愛する本好きの方から、最近読んで面白かった本としておすすめいただいた。
本書解説から拾うと、「自発的隷従」とは、「強いられもしないのに、自ら進んで奴隷になる」ということ。ラ・ボエシは自身が生きる時代までに起こった数々の圧政・独裁に対して、それは民衆が加担しているから起こると説く。
この本を読むまで、ラ・ボエシという人物を全く知らなかったが、彼は16世紀のフランスの知識人で、この「自発的隷従論」をなんと16か18歳(!?)で書き上げたとされる、驚くべき天才。
ラ・ボエシは日本ではあまり知られていないと思われ、ちくま学芸文庫のこの本自体、初版が20 -
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モンテーニュの友人ラ・ボエシが10代で書き上げた短い論考が400年以上も読み継がれるとは、書いた本人も想像していなかったことだろう。
自発的隷従、つまり自由に選択して奴隷になるという矛盾した言葉は、当時はモンテーニュをして世に出すのは危険と捉えられたようだが、他方、現代においては非常に納得しやすいものなのではないだろうか。
スマホを弄り、グローバル企業にせっせと情報提供しながらも、その支配を嘆く我々はまさに自発的隷従をしているとしか言いようがない。(とこれを書く私もまた自発的に隷従するのだ)
これは社会を構成する人間の「自然」なのだろうか?
本書は革命を語る本かと思いきや、それはよくある誤解 -
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ちくま学芸文庫 ラボエシ 「 自発的隷従論 」 訳 山上浩嗣 監修 西谷修
自由を放棄し、圧政者に隷従する人間の行動を紐解いた本。著者が伝えたいのは、習慣としての隷従を戒め、人間の「自由」を復権すること
「愚かな民衆は、いつも自ら嘘をこしらえては、のちにそれを信じるようになる」は 名言
自由とは 権利や権力であるように感じた。共同体のなかで 権利は調整されるべきもので、隷従は 権利を放棄した結果ではなく、権利を調整した結果なのではないかと思った
「人間は自由を失うことで、人間性を失った。人間であることは自由であることであり、人間は自由を志向する存在である」
「人間が -
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主君が複数いてもなにも良いことはない。
たった一人のものでも主君という称号を得た途端に、その権力は耐え難く、理を外れたものになるのだから、ましてや複数者による支配など良きものであるはずがない。
しかしオデュッセウスはここに付け加えた。
頭でも王でもたった一人が望ましい。
冷静に考えれば一人の君主に服従するのは不幸の極み。彼らの権限でいつでも悪人に変われる。
権力者は何人であるべきか=組織分割サイズの問題
隷従者は強制されているだけではなく、一者の名に幾分か惑わされ魅了されて軛の下に首を垂れている。
自発的隷従は特にそこに君主への敬意を伴っていない場合の責任転嫁として用いられている。 -
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人はなぜ、自らを害する者にわざわざ自分から従ってしまうのだろう。
という疑問をつきつめて考えてみた500年近く前の若者の論文。
「なぜ」よりも「どのように」が近い。
君主はどのように振る舞い、民衆はいかにして隷従するか。
見えるものをただ書いただけ。だから今にも通じてしまう。
ラ・ボエシは革命を志したわけではなく、この書でなにかをなそうとしたわけでもなく、本当にただ「ああもうそこなんで自分の首絞めさせちゃうのさ歴史に学べよ!」と、思ったことを書いただけっぽい。
親友のモンテーニュはこれを扇動に使われることを恐れ、後の人々は自分の状況を投影して革命の勇気にしたという。
この本に添えられている -
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16世紀半ば、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ若干16歳もしくは18歳の時に著された小論文。啓蒙時代以前の著作であり、近代・現代思想の洗礼を受けてきた現代人にとってみれば、その「自由」概念は驚くほど牧歌的で微笑ましいものではあるが、そうだからこそ逆にあらゆる支配形態下の人々に訴えかける普遍性を持ち、本書における思想が時々の支配者に危険視されてきたにもかかわらず底流にて読み継がれ、あるいは時宜を得るや様々な思想家の手で引用され浮沈を繰り返してきたともいえる。
ラ・ボエシは問いかける。圧政者は1人であるにもかかわらず、なぜ大多数者である人々はそれに抵抗せずにみずから彼に屈し、その圧政を支えるのか?「あ -
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「自発的隷従論」とはいかにもピンと来るタイトルだ。王権は民衆が隷従するからこそ成立する。人々は自ら好んで、権力に支配されることを欲する。
これはなんと、16世紀の、当時16歳だか18歳だかの若造(もしくは小僧)が書いた本である。あまり学問的でもない筆致だが、鋭いところを突いていることは確かだ。
著者ラ・ボエシの考えでは、人間は「自由」であることが自然である。この「自然」とは、どうやら、「理性」と等価であるところのものだ。なのに、人々はわざわざ「圧制者」の支配に自らを縛り付けるのであり、それは「習慣」によってつくりだされた「悪徳」である。
圧制者を陥落させるためには、人々がそれを支えなけれ -
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「隷属への道」に続く隷従シリーズ。この本が描かれたのは16世紀のフランス。まだ民主主義など遠い理想でしかなかった時代のものだが、今の時代にも当てはまることが多くて何やら冷んやりする。「自発的に隷従する」というのは単語としても矛盾しているが、状態をよく表しているとも言える。つまり、指導者たるものの何らかの魔力に惹かれ、あるいは無気力となり、悪に耐え、善を希求する力を失う。第一世代はまだ闘争の記憶を持つが、世代を経るごとに疑問もなく隷従するし先人が強制されていたことを疑いなく進んで行うようになる。言われてみると、国、企業などに隷従していないか。日米関係は?など、しっかり考えるべきことが多いことに気