歴史社会学が専門で兵庫の甲南大で「社会意識論」という社会学の講義中に行われた「体験学習」の実践記録。独裁とはどういう状態か、何が独裁を成立させるのか、独裁の中で民衆はどういう行動をするのか、という点についてヒトラーやナチズムの例での解説とともに、現代のポピュリズムがファシズムに繋がっている例を、コロナの「自粛警察」など日本で見られる最近の実例も含めて解説されている。
ポイントは「ファシズムが上からの強制性と下からの自発性の結びつきによって生じる『責任からの解放』の産物だということ」(p.193)で、「指導者の指示に従ってさえいれば、自分の行動に責任を負わずに済む。その解放感に流されて、思慮なく過激な行動に走ってしまう。表向きは上からの命令に従っているが、実際は自分の欲求を満たすことが動機となっているからだ。そうした下からの自発的な行動をすくい上げ、『無責任の連鎖』として社会全体に拡大していく運動が、ファシズムにほかならない」(同)という部分であり、「権威に服従する人間は残忍な行動に走りやすくなる」(p.205)、「特定の状況では誰もが残忍な行動をとる可能性がある」(p.206)という現象がなぜ生じるのか、というところだと思う。そういうファシズムの危険性を体験する授業の実践記録で、受講生の心理的負担やファシズムを利用する生徒の出現などの危険性もあるので、どういった配慮が必要なのかということも書いてある。
んー、おれは中高の教員だけど、専門家でもない教員がこの時代にこういう授業を展開するのはちょっと無理だろうなあと思う。この本にも書いてあるけど、中高にはもともと結びつきが強い「クラス」という集団もあるので危険、というのも分かる。だから、こういうファシズムとかポピュリズムの危険性を体験させる、もっと違った形のプログラムはないのかなあ、と思う。それこそ「探究」みたいな授業の枠の中でできることのような気もするし。
それよりも自粛警察とか、全然知らなかったけど2018年のRADWIMPSの「HINOMARU騒動」とか、ほんと考えても暗い気持ちになる。RADWIMPSの野田について、日本が好き言って何が悪い、という「『被抑圧』の感覚はいささか被害妄想的」(p.187)であり、こういった発言をすることで「『好きと言う義務』を押しつける国家権力に迎合し、その後ろ盾のもと力ずくで反対派や少数派をねじ伏せようとする動きに合流して、世論全体を愛国一色に染め上げることにも寄与しかねない。戦時中の軍歌や愛国歌が挙国一致の翼賛体制の構築に加担した事実を思い起こせば、それがいかに危険な事態であるかは明らか」(同)なので、「野田の発言には、そうした『歴史的、政治的な背景』への反省、愛国心の発揚を抑制させてきたその危険な影響力への思慮が欠けている」、「彼のナイーブな反権威主義は容易に保守派の権威主義に取り込まれ、飼い馴らされてしまう」(同)っていう部分と、もう一つ、「ポピュリズムはその本質において似非民主主義的な性格をもっている。それはつねに『人民』の声を代弁し、エスタブリッシュメントの犠牲者を装うが、実際には自分たち多数派の絶対的な支配をもとめ、それを阻むリベラルな多様性を徹底して破壊しようとするからである。(略)多数派の声が絶対的で、多数決で決まったことには従えというような考えは、権威主義と同じである。権威の後ろ盾のもとではなんでもできるという万能感は、容易に敵や異端者への攻撃に転化し、過激な暴力を噴出させてしまう。」という部分についてはよくよく考えたいと思う。つまりファシズムの体験をすることに加えて、この無邪気で「ナイーブな反権威主義」を打破する、間違った正義感の発露することの危険性、というかバカさ、というのを考える授業について学んでみたいと思った。(25/04)