木畑洋一のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
1870年代以降の世界史を「長い20世紀」という枠組みから「帝国」と植民地・従属地域の支配・被支配関係の変容を軸に叙述している。エリック・ホブズボームの「短い20世紀」論が第一次世界大戦~冷戦終結までを「極端な時代」と規定し、それ以前の帝国主義形成期との「断絶」を重視するのに対して、本書の「長い20世紀」論は19世紀後半から第二次大戦までの「帝国世界」の連続性を強調し、大戦以後冷戦期の歴史を脱植民地化=「帝国」の解体過程と捉えているのが特色(それ故に20世紀末以降のアメリカを中心とする世界秩序に「帝国」概念を適応させる議論には否定的)。また、グローバル化と国民国家の形成を一体の関係とみなし、両者を対立的に捉える見方を否定しているのも興味深い。巨視的な通史と同時並行して、アイルランド、南アフリカ、沖縄を「帝国世界」の支配と被支配がせめぎ合う典型例として「定点観測」し、徴視的な地域史を組み合わせた叙述方法は、その3か国・地域が「定点」として相応しいかどうかは別として、世界史叙述の方法論の1つとして可能性を示したと言えよう。大国・強国中心ではない「支配される」側の視点を重んじた近・現代世界史の入門書としての価値がある。
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Posted by ブクログ
20世紀の歴史を帝国主義の視点から語られる論文
19世紀後半から20世紀にかけ、差別ー被差別、支配-被支配の関係の全世界の広がり、第一次世界大戦,第二次世界大戦、冷戦,脱植民地、帝国主義の解体と、近代史の大きな流れが語られています。
そして、その時代の定点観測として、アイルランド、南アフリカ、沖縄の状況が語られています。
学校で習った地域の近代史はまだしも、まったく知らないアフリカ大陸の歴史はちょっと新鮮でした。
日本のアジアに対する侵略、暴力事件については、ちょっと自分の歴史観とは違いました。
本書は教科書通りの記載でしたが...
しかし、この時代の暴力、戦争において、本書で語られる亡くなった方々の人数はすさまじい数値!
20世紀は暴力と殺戮の時代だったということがわかります。 -
Posted by ブクログ
まず著者は、この「20世紀」という時代のくくりを、単に1901年~2000年ではなく、マーク・トウェインや幸徳秋水が指摘していた状況(列強が帝国主義という熱に浮かされていた時代)が世界ではっきりしてきた時=世界が帝国的な支配構造で覆われるようになり始めた時=帝国主義の時代が始まった1870年代を起点とし、第二次世界大戦後のそれまで支配される位置に置かれていた人々がその位置を脱して自らの国家を作り上げていった時代の変化が一段落した1990年代を終期としています。そしてこの1870年代~1990年代を「長い20世紀」と定義し、この間の歴史を本書では取り扱っています。
ようするに、本書のキーワードは「帝国主義」であり、第1章「支配‐被支配関係の広がり」として世界が分割され植民地化されていった1870年代以降の帝国主義の時代、第2章「帝国世界動揺の開始」として帝国主義国家同士が正面からぶつかった第一次世界大戦と帝国主義世界が再編されたヴェルサイユ体制期、第3章「帝国世界再編をめぐる攻防」として世界恐慌から第2次世界大戦までをあつかい、そして第4章「帝国世界の解体」として第2次世界大戦後から冷戦の終結と被支配地域が自らの国家を作り上げていく動きが一段落する1990年代までを取り上げます。また、それぞれの章の最後には「定点観測」として、支配と被支配の狭間にあったアイルランド、南アフリカ、沖縄の当時の様子を描いています。
本書の帯にも書いていますが、「世界史は、帝国の興亡の歴史で彩られていうといっても過言ではない。しかし、そのような帝国がいつくつも並び立ち、互いに競合して世界を分割し、支配‐被支配の関係が世界中に広がるという事態は、暦の上で19世紀後半になって初めてあらわれた」とあるように、20世紀とはまさに帝国主義が台頭し、確立し、そして解体していった時代です。しかし、「帝国世界の終焉は、支配される位置に置かれていた人々の生活状況の全般的改善は意味しなかった。むしろ80年代のアフリカは「闇の時代」の「絶望の大陸」と呼ばれるような様相を呈していた。脱植民地化によって独立した世界の国々のなかからは、新興工業経済地域(NIEs)と呼ばれるダイナミックな経済成長を実現する国や地域も生まれてきたが、・・・このような国々とアフリカ諸国など経済の停滞と貧困に苦しむ国々との間での格差(「南南問題」)が露骨にあらわれてきた」(246頁)ように、帝国主義(の影響だけではないのだろうけれども)により貧困や紛争に苦しむ国や地域は今なお存していることは忘れてはいけないでしょう。
また、この20世紀を語る上でグローバリゼーションも忘れてはいけません。本書で著者は、このグローバリゼーションについて「ここで注意しておくべきことは、このグローバリゼーションが、国民国家の衰退や消滅を決して意味してはいない、という点である。現在の世界において、国民国家は後退、衰退していっており、国民国家を超える形でグローバリゼーションが進行している、といった議論がしばしばなされることがあるが、そのような主張(ポスト・モダンの世界論)には強い留保が必要である。・・・「長い20世紀」という観点から見れば、それを特徴づけた帝国世界が変容、解体した後、国民国家によって世界が覆われる状況の下でグローバリゼーションが進んでいるというのが、現在の世界の姿なのである。帝国世界が胚胎していたこの世界の構造が、帝国世界の解体によって前面に押し出されてきたということができるであろう。」(266~267頁)と述べています。
本書は「帝国主義」という軸を中心に書かれているため読みやすく、大変勉強になりましたが、反面「帝国主義」による罪科を前面に押し出そうと、事件や衝突の被害者の数に関する記述がやや偏りがあるような印象を持ちました。もちろん、一つ一つの事件や衝突について私が専門家並みに知識があるわけではありませんので、軽々しい言葉は書けませんが・・・。
では最後の備忘録や勉強になったところを書き写します。
(マーク・トゥエイン「19世紀の20世紀に対する挨拶の言葉」から)「私が君たちに引き合わせるのは、キリスト教諸国という威厳のある既婚婦人である。彼女は、膠州、満州、南アフリカ、そしてフィリピンでの海賊行為を終え、魂を卑劣さで、ポケットを不正の金で、口を信心ぶった偽善の言葉で満たし、汚れと穢れと恥辱にまみれて、戻ってきた。彼女に石けんとタオルを渡してやるがよい。しかし鏡は隠しておきなさい。」(2頁)
(第2インターナショナルの1904年夏にアムステルダムで開かれた大会で)日本の片山潜とロシアのプレハーノフが開会式の協同副議長となり、握手を交わした」(42頁)
(また上記の大会では)インドの民族運動家ダーダーバーイー・ナオロジーが出席して、イギリス支配下のインドの惨状を訴えた」(42頁)
(三国協商ができあがるにあたっての)「日露戦争の意味である。露仏同盟が存在したにもかかわらず、フランスがロシアを支援しなかったことは、日露戦争で日本に有利に働いたが、それは日露戦争開戦後にイギリスがフランスをいわば取りこんで仏露間にくさびを打ち込んだためであり、イギリスはさらに日露戦争が終わろうとする段階でロシアに接近し、ついには英露協商を結ぶに至ったのである。このことから、「日露戦争は世界史的に見れば、ヨーロッパにおける第一次世界大戦の構図を作る」意味を持った、と論じられることもある。」(47頁)
(第一次世界大戦の)「戦争遂行にあたってイギリスが強い関心を抱いていたのは、ヨーロッパ外の地域における勢力の確保・拡大であった。とりわけ、ドイツ領東アフリカについての関心は強く、すぐ後で述べるように東アフリカでは、ヨーロッパ戦線と同じく長期にわたる戦闘が続けられることになった。」(66頁)「アフリカで最も早く戦闘が行われたのは、・・・西アフリカのドイツ領トーゴランドにおいてであったが、この戦闘は、英仏側の勝利ですぐに終わった。しかしそれに次いで始まった同じく西アフリカのドイツ領カメルーンでの戦争では、攻撃にあたった英仏軍の規模が、アフリカ兵を含むドイツ軍をはるかに上回っていたものの、劣悪な気候のため熱帯病などで多くの犠牲者が出るという状況下で長引いた。」(68頁)
(ドイツ領東アフリカでの戦争について)「イギリスと同様隣接地に植民地をもつベルギーやポルトガルも加わる形で展開したが、・・・この地でドイツ軍が降伏したのは、1918年11月25日、すなわちヨーロッパで戦争が終わりを迎えてから14日後のことであった。」(70頁)※この結果、ルワンダがベルギー領、また一部がポルトガル領東アフリカ(モザンビーク)に編入される。残りはイギリス領に
「南太平洋に散在していたドイツ領諸島のうち、赤道より南では、8月29日、ニュージーランド軍がドイツ領サモアを、次いで9月半ばには、オーストラリア軍がドイツ領ニューギニアやビスマルク諸島を占領した。赤道以北では、日本軍が、マーシャル、マリアナ、カロリン、パラオというドイツ領諸島を10月14日までに占領した。この過程で、ドイツ側は抵抗らしい抵抗をほとんど行わなかった。」(73頁)
「パリ講和会議での敗戦国の植民地をめぐる議論のなかではアフリカや太平洋も問題となった。ウィルソンは委任統治を積極的に支持する姿勢を示し、イギリスもそれに妥協する態度をとったが、フランスや南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、日本は併合論であり、意見は収束しなかった。その打開策として提示されたのが、委任統治地域を、A式(早期の独立付与を視野に入れて住民の自治を促す)、B式(受任国とは別個の法制度の下で、宗教その他、住民の独自性を尊重する)、C式(受任国の構成領域の一部として扱う)の三つに区分するという案であった。」(100頁)
「イタリアはエチオピア戦争で大量の毒ガス爆弾を用いた。防御策を全くもたないエチオピアの軍隊や民衆に対して、イタリアはこの暴挙に出たのである。エチオピア制服に成功した直後、ムッソリーニは捕虜の射殺を命ずるとともに、反乱掃討という目的でまた毒ガスの使用を進めた。戦争が一段落した後も含めて、35年から39年にかけて投下された毒剤の量は500トンを下らないと考えられている。さらに、エチオピア人による反乱を抑えるために、反乱によるイタリア人犠牲者一人に対して10人のエチオピア人を処刑することを命じている。」(134頁)
「結局のところ、ファシズム陣営と反ファシズム陣営の対立は、帝国世界の修正のやり方をめぐる対立であり、その根本的変革をめぐる対立ではなかった。帝国世界の下で支配されていた地域では、その点をよく認識した人々も多かった。」(162頁)
「ポーランド史の専門家ノーマン・デイヴィスは、東欧各国の共産主義が、モスクワとは緊密に結びついていたものの、他の東欧の国からは厳しく隔離されていたことに注目しているが、その状況は帝国世界の下での支配と被支配の構図を想起させる。」(212頁)
「フランスの知識人の間で、フランス革命の原動力となった「第三身分」になぞらえる形で「第三世界」という表現が生み出され、冷戦下の東西両陣営に対置されるものとして、それまでの被支配地域から成る国家グループの位置が示された。この表現は、バンドン会議で示された時代精神に合致し、その後広く用いられるようになった。」(232頁)