大貫隆のレビュー一覧
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ネタバレp.124 アダマンティネー、アダマ、アダム
"アダマンティネ―(ギリシア語で「鋼鉄の」、「不屈な」の意)"
"彼の名前をアダムと呼んだ。"
"地(アダマ)"
p.133 黙示文学
" 『シェームの釈義』はナグ・ハマディ文書第Ⅳ写本に含まれているグノーシス主義文書である。しかし、その文学的な体裁はいわゆる黙示文学に倣っている。すなわち超越的な世界から出現する啓示者が地上のある人間に神と世界と人間についての隠された奥義を開示(黙示)するのである。"
p.239 マンダ教の人間の創造
" マンダ教の人間観は強烈に二元論的である。人間の身体は地上の世界に由来し、魂は光の世界から来る。はじめに人間の身体が創造されるが、闇の世界の存在によって造られた肉体には、まだ魂が入っていないので、起き上がることができない。そこで光の世界からマーナー(魂)を連れてきて、その肉体に入れる。ゆえに、魂は地上の世界では捕らわれの身なのである。"
p.266 マニ教の神話
"かの光の本質は闇の本質に直接踵を接していて、両者の間には何の隔壁もない。光は情報と右側と左側に向かっては無窮であるが、その(下方の最も低い)部分では闇に接している。同じように闇も下方と右側と左側に向かっては無限である。"
p.282 "マニ教徒が「敬虔なる業」によって地上世界で回収した「光」は、彼らの礼拝の場で捧げられる賛美の歌に載せて、月に送られる。月はそれを受けて次第に満ちてゆき、満月(満杯)になると太陽に手渡して、自らは欠けてゆく。"
p.297 §20 光の回収、世界大火
" すなわち、太陽は炎熱の悪魔と混じり合ってしまっている光を、月は寒冷の悪魔と混じり合ってしまっている光を、賛美の柱に沿って純粋に抽出し、そのようにして抽出された光が、高らかに飛翔する賛美の歌、讃歌、清らかなことば、そして敬虔なる業と共に、高みへと昇ってゆくためである。月はこれらの光の部分を――とマニは付言する――太陽に手渡し、太陽はそれを自分の上なる賛美の世界の光に手渡す。それからそれらの光の部分は、その(賛美の)世界の中を昇って、ついに至高の純粋なる光に到達する。太陽と月はこのようにすることを止めない。闇と余りにも深く結合してしまったために、もはやぶんりすることができないような部分しか残らなくなるときまでは。"
ダム過敏症なので、アダムのダムは「血」をあらわすと述べられたとき、不意に安永航一郎が躍り出てきてダメだった。キシリアとシャアによるダム解釈のアレだ。トミノ監督は名づけの元ネタを中東地域から借用することがあり、由来として可能性が皆無ではないからなおさらに。
読みながら常に脳裏を過ぎり続けたのは、ラヴクラフト、トールキン、聖悠紀である。彼らはグノーシス主義に親しんでいただろうか。
ラヴクラフトの宇宙観はどこから来たのだろうと折りに触れ考えている。遠くは古代ギリシャの哲学、やや下ってキリスト教の宇宙論かもしれないと思うようになっていたが、否定神学というものの考え方が影響の源としてしっくりくる。
ミドルアースは宗教色のない世界観だが、その背景となる世界の創造にはトールキンが見知っていたであろう宗教観、神秘観が散見される。カレワラもそのひとつだそうで、読んだときはそうかもしれないとも思えたが、今はそれほどでもないと思える。軸はユダヤ教やキリスト教ではないかと、今は思う。神話を自由に構築して良いという許しは、グノーシス主義から受け取ったのではないかと、今は思う。
超人ロックには、最大のおきみやげともいえる二元論的宿敵の存在がある。少年キング版では忘れた頃に登場し、終盤はヌームやプリンス・オブ・ファントムとして出現した。公式なものではないと思われるが「ロックの影人」なる呼称があるらしい。掲載誌を変えてからは、キャプテン・ニンバスこそがその正体ではないかという匂わせもあったが、明言されてはいない。
SF世界の裏側に、あまり表に出ないファンタジックな設定が隠されていたと思え、その背景にあったものはなんだろうかと、ずっと問い続けている。たとえば『超人の死』で語られた「超能力は今、歪んだ形で世界に展開している」という設定もその場限りで特に発展はしていない。それ自体は唐突感のある要素だったが、物語としてはかつてない超人の大ピンチにwktkしたものだった。
あとヒトガミ。ひょっとしたら着想を得たんじゃないかなとか。たぶん気のせい。
p.266。陽光がつくった人体の影が世界の姿をあらわしているという設定は個人的に新しい。
マニ教には原人という概念がある。ジャワ原人とか北京原人が指し示すところの原人ではなく、デュマレスト・サーガでいうところの「オリジナル・ヒューマン」であろう。トールキンふうに表現すれば上古の人間といったところか。神をも使役する力ある存在を示す。やはりトールキンはグノーシス主義ないしはマニ教にも通じていたのではないか。
研究者がいう、グノーシス主義の集大成とされるマニ教は『タイタンの妖女』を思わせる人間機械論的な世界観を有している。光の回収、太陽を熱という悪、光という善に区別し、人間の使命は光を回収することとする。TRPG脳にはそれは、厨二病罹患者の黒歴史的設定集という印象を残した。無駄にカッコいい。
キリスト教の神学は当事者らによって真剣に語られたのであろうが、その大元のひとつであろうギリシャ哲学はわりと酒飲み話だったのではないかと近頃思うようになった。馬鹿話は盛り上がる。引っ込められない自説も生じてくる。その積み重ねが哲学の走りとなったのではないか。根拠を問われても自分の頭を指差すだけで済んだ学問はきっとそういうことができた。許されたかどうかはわからない。グノーシス主義はその尻尾だと感じられた。
結び「グノーシス主義と現代」は完全なる蛇足と感じる。ここに書いてあること、本当にそう思ってるの?と著者を問い詰めたい。人文系は自らの研究対象をなんとか実益に結びつけようとする。その口調は非常にナイーブで、自身のイデアから語りかけてるような胡散臭さがある。はっきり言ってしまうと嘘くさい。
グノーシス主義について、長らく、ちょっとぐぐったくらいではわからない状況が続いていたので、なにか読んでおこうという気になった。
本書は、序盤でこわくないよ、やさしくするよ、と言ってくれてるのに、すぐに全力疾走をし始めてしまう。突っ走る文章を蹂躙しながら読み進め、時々振り返ると理解が進んでくる。はなから全部わかろうとしないほうがいい。読者がついてきてるか確かめない書きっぷりだから、読み手も受けて立って軽く読む。読み進めて、響くものがあったら遡って読む。そんな読み方でいい。 -
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キリスト教教父神学を勉強するにあたって予習のつもりで読んだ。マンダ教やマニ教までカバーされていて、ナグ・ハマディ文書など貴重な原典の引用が多く、世界観を包括的に理解できるようによく考えられているなと思った。電子で読んだらマニ教の文献二段組みの部分が全部画像扱いになってるのか、どことどこがつながるのかわかりづらくて困ったけど…。あと最後の援助交際の女子高生だののくだりは、わざわざページを割くべき関連が見いだせるような話か?と思ったけど、そこまでの話のレベルが高かったのでよけい落差を感じてしまった気がする。
原典の文章に文庫で手軽に触れられるのは嬉しいし、解説がしっかりしているので良かった。 -
Posted by ブクログ
聖書の初読者がつまずくことになるさまざまな原因を、著者の授業でおこなわれたアンケートの結果にもとづいて紹介し、聖書の読みづらさがなにに起因するのか、そして、読みづらさを乗り越えていくためにはどのような読みかたをすることが必要なのかといったテーマをあつかっている本です。
「聖書の読みづらさ」に正面から向きあうというスタンスで書かれた聖書の入門書であり、ねらいはたいへん興味深いと感じました。ただじっさいに読んでみると、聖書の読みづらさを克服していくための具体的な議論には乏しいという印象があります。それぞれの問題に対して専門家の立場からどのように答えられるのかということについてのあまり立ち入った説明はなされておらず、聖書を読むにあたって読者に求められる基本的なスタンスを簡潔に紹介することに終始しているように思えます。
立ち入った説明は他の聖書の入門書に譲るということなのかもしれませんが、個人的にはもうすこし内容に関する具体的な説明がほしかったように思います。 -
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学生たちが聖書を読む際に抱く素朴な疑問を出発点として、なぜ聖書は読みづらいのかという考察を通し、聖書をどう読むか提示する本。目次通りにいけば。
Ⅰ部の学生の疑問については回答というよりはこういった疑問があげられているんですよーっと取り上げるだけにとどまり、Ⅱ部の提案についても散漫で聖書をどう読むかという提案の印象は薄く、さらに三部に詰め込まれた読書案内も相まってなんだかごちゃついた感じの本。
取り上げる質問の数や、提案の数を絞ってスッキリさせた方が、もっと伝わりやすかったんじゃないのかなーっつー。
簡単にいえば、聖書はもともとバラバラの文書のアンソロジー(しかもバージョンによって順番ちがう)だから通読するようにできてない。つーわけで読みたい文書ごとに読めばいいし、文書ごとに作者ちがうんだから違和感バリバリ当たり前。わかんねーとこあってもそのうちわかることもあるから無理に納得しようとせずそのままの気持ちを大事に。後、なんつっても何千年も前の外国の、しかも信仰の書だから、聖書学の研究も踏まえると捗るよ、ってなカンジ。 -
Posted by ブクログ
なぜ聖書が読みにくいのか、という理由を、アンケート結果をもとに整理し、読みにくさの理由や克服の方法などを聖書学の見地から教えてくれる本。旧約聖書、新約聖書、グノーシス主義文書に含まれるそれぞれの文献の案内もある。
キリスト教の信者であるなしに関わらず、宗教的な記述をどのように「自己規制から解き放って、それぞれ自主的に聖書を読む(p.9)」か、ということがメインテーマで、聖書がどのような思考の枠組み、「基本文法」で書かれているかという点が解説されている。さらに、聖書だって神によって書かれたものではなく、人間の手で書かれたものであり、一般の書物と同じように読むことが大事であると説かれている。特に印象的な部分は、「人間は神によって造られたもの」という記述をどう解釈するか、という点で、創世記の創造神話やキリストの復活が非科学的であると退けてしまうことが、いかに稚拙なことか、という点に共感を覚えた。それに、「読者の常識に照らして違和感を呼び起こすところ、意味不明、異質で読みづらいと感じられるところ」こそ「本文の前での新しい自己了解」が得られる(p.149)、や「真の経験は遅れてやってくる」、「周縁ではなく中心に躓かない」といった部分がとても印象的で、他者理解の姿勢、読書の方法などにも役立つと思う。(10/06/12) -
Posted by ブクログ
読むのが難しい聖書を、「どういう気構えで」読むか。ということを提案している本であって、聖書読破の詳細なガイド本というわけではない。
聖書の「読みにくさ」の原因を丁寧に解き明かすことにより、その部分に「いかなる気持ちで挑むか」、聖書に入る前段階からの下準備をさせてくれる。また、聖書の構造を丁寧に説明することで、そもそも聖書とはどういう書物なのかという基礎的な知識を教えてくれることは意味があると思う。
ただ、ではこの本を読めば一度は挫折した聖書がスラスラ読めるかというと、そういうわけではない。「この部分を記述した人々の苦難を理解し」「書き手の経験に踏み込む」といった読み方を提示しているが、具体的に該当の章が書かれた時代背景が詳細に説明されているわけではないから、読み手がそれを実行しようと思えば、結局は他の資料を当たって知識を仕入れるなりの努力が必要になるのではないか、と思う。
聖書が読みにくい理由については、頷けるものもあれば、個人的には首を傾げたくなるものもあるが、そうした点も含めて改めて読破に挑戦する際の心境の整理には役立つだろう。
聖書の一部分だけを取り上げ、聖書はこんなに面白い、だから読みましょうと安易に薦めるだけではなく、読みづらさを踏まえた上での視点は誠実であると思う。