天野祐吉のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
去年の10月に亡くなったCMコラムニストの天野祐吉さんの最後の著作である。刊行がなくなった日のちょうど一ヶ月後なので、さぞかし悲愴な決意の遺作かと思いきや、闘病のあとは一切見せない、天野さんらしい、わかりやすい言葉で鋭く世相と世界を切り取り、方向性を示した好著になっていました。
ブロローグで「世界は歪んでいる」と言って以下の事を例に出しています。
マスク人間の増殖、原発再稼働、テレビショッピングの横行、福袋のブーム、利点よりも失われるモノが多いリニア新幹線。
この「おかしさはみんな、いまの世の中の入れ物自体の歪みからきているんじゃないか」と著者は言うのです。
その入れ物は、大量消費社会という入れ物です。大量生産・大量消費という巨大なシステムから、次々に吐き出されてくる膨大な種類と量の商品やサービスを、ぼくらは否応なく消費させられる社会に住んでいます。
はじめのころは、それはぼくらの生活を快適にしてくれるいい面がありましたが、いまやそんな物やサービスがあふれかえって、福袋くらいしか買う物が思いつかない世の中になってしまいました。それでも経済成長を持続するためには、大量生産・大量消費の歯車を止めるわけにはいかない。なぜって、国民の消費支出、つまりぼくらがモノやサービスを買うことがそのまま経済成長につながっているからです。が、この仕組みがいまや限界にきて、音を立てて壊れようとしている。
それがいまの世の中のいろいろなところで、さまざまな歪みになって現れてきているというわけですね。
ついでに言うと、十数年前からしきりに言われてきたグローバリズムというのは、その行き止まりをこわすために、地球上をぜんぶ一つの市場にしてしまおうということのようです。大量生産のはけ口を、途上国に求めていこうということですが、これもいずれは行き詰まるのが目に見えています。つまりは、どうやっても限界ということで、そこまでいったときには地球上は、楽園どころか、地域文化も何も押しつぶされた一面の荒野になってしまうんじゃないでしょうか。
それともう一つ、ぼくらが住んでいるこの大量消費社会というのは、都市化社会と表裏一体というか、大量消費社会を一ヶ所に圧縮したのが都市化社会というものじゃないかと思います。(略)
もともと"生活"は再上限を求め、"生存"は最低限を求めます。誰だって、生活の豊かさは再上限を求めたい。が、それを求めつづけると、あちこちで無理が起きてきて、守るべき生存の最低限が危うくなってくる。いまはまさに、生存の最低限がおびやかされている、それも臨界点のところまでおびやかされているときだと、言っていいように思います。(21-24p)
広告の世界から、「そのままいくと危ないぞ」と批判する目をずっと持って来た著者の止むに止まれぬ「警告」が、ここにある。
著者はしかし、広告を発注する会社たちにもずっと寄り添って、どうやったら折り合いがとれるか考えできたのだと思う。その結論が
「成熟社会」ということであり、
「脱成長」ということであり、「老楽国家」ということであり、「再ローカル化」ということであるのだと思うのです。
その詳しいことは、天野さんのお勧めする参考書物を読まねばならない。しかし、大企業と庶民とのパイプ役として「ご意見番」として半世紀を生きた人の「遺言」は傾聴に値すると思うのです。
(BOOKデータベースより)
六〇年にわたり広告の最前線に立ち会った著者が語るその内幕と功罪。そして成長至上主義が限界を迎えたいま、経済力や軍事力のモノサシで測れない成熟した社会のために広告ができることを提言する。
プロローグ 世界は歪んでいる/第1章 計画的廃品化のうらおもて(電球の寿命は一〇〇〇時間?/それはヘンリー・フォードから始まった ほか)/第2章 差異化のいきつく果てに(アメリカ・アメリカ・アメリカ!/人生は広告を模倣する? ほか)/第3章 生活大国ってどこですか(「広告批評」の創刊/広告を広告する ほか)/エピローグ 新しい時代への旅(くたばれ中央集権/広告はどうなる ほか) -
Posted by ブクログ
先日、亡くなった天野祐吉氏が、戦後から311後に至るまでの世の中の変化をCMと言う窓を通じて語っています。
CMと言うのは本当に歴史なんだなと、思いました。戦後の高度成長期やバブルには、物欲を煽るCMが 多く、経済低成長時代には、生活やエコをアピールしたり。そういえば、以前あれだけ世の中を賑わせていた原発推進の広告やCMは3.11を境に何事もないかのようになくなりましたが、推進反対のCMは出てきませんよね。
「ほしいものがほしい」と言う言葉、かって、スティーブジョブズが、消費者は自分たちが欲しいものが何か分からないから、それを示す必要があると言った。それに通じるものを感じました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ先日亡くなった天野祐吉さんの(おそらく)最後の著作。
戦前戦後から高度経済成長、そして大震災までを生きた天野さん自身の人生史でもあり、その中でメディアや広告が果たした役割の変遷が並行して描かれる。
そんな中で、大衆社会の「いま」と切実な関係を保ちながら、人々の暮らしに対する想像力を切り開いてきた広告が、その本来的な意味を失い、大量生産・大量消費を謳う資本主義の道具と変質していく時代に対抗すべく、「広告批評」を創刊するに至ったという背景はとてもリアルだ。30年後に「使命を終えて」廃刊となった同雑誌のコンセプトは、初期も僕が読んでいた末期も変わっていなかったように思う。
翻って、ネットで誰もが批評家となることが可能になった現在、本当の「批評」とは何なのかということは改めて考えてみないといけないだろう。
天野さんに言わせれば、「広告」=「いかがわしさも人間臭さも併せ持った人間の写し絵」であり、それがいつの頃からか「暴力的な力」を持った権力に利用される手段となってしまった。そんななかで、非主流ではあっても、俗流化した資本主義的なモノサシでは測れない「個性」=「別品」の存在価値を認めるために徹底して反権力の立場に立つことこそ、批評の役割なのだと言っているように思う。それは、天野さんがいかがわしさを含めて人間の多様性を愛していたからこそ、だと思う。「本当の批評とは、その対象に対する愛なくしては生まれない」のではないか。