鷲田康のレビュー一覧
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あの年の興奮を振り返るだけでなく、当時は知らなかった背景なども知ることができる。
まず、1985年のチームは、安藤監督が作り上げたという。実際、1984年の終盤には、真弓は「来年優勝するから」と口にしていた。
5年契約の4年目が1985年だったが、前年終盤のホームラン王争いのための四球合戦の影響もあり、吉田監督に交代。
大きな補強はなかったが、コンバートや若手の抜擢で基本布陣を完成させ、キャンプでは阪急の取り入れていた総合ノックで守備を鍛えた。
二遊間の岡田、平田は居残りで守備を特訓したという。
投手力は弱いが攻撃は何とかなる、しかし攻撃をチームとしてまとめることの重要性から、「一丸」「挑 -
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子供の頃の一茂を球場へ連れて行ったはいいが試合終了後に
置いて帰ったり、ストッキングを忘れてソックスをマジックで
黒く塗ったり。そんな長嶋茂雄伝説は知っているが、現役時代
の長嶋茂雄を私は知らない。
ヤクルトvs阪急の日本シリーズでヤクルト・大杉の打球を巡って
の「魔の1時間19分」や、広島vs近鉄の日本シリーズでの「江夏の
21球」は覚えている。王貞治の本塁打の記録だって、勿論、記憶
のなかになる。
だが、私の一番古い記憶にある長嶋茂雄は既に読売巨人軍の監督
としての長嶋茂雄だった。
プロ野球を見始めた時期が微妙にずれていたとしか思えない。だって、
長嶋茂雄が引退した昭和49年と言えば -
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ミスタープロ野球、長嶋茂雄の引退の日を追ったドキュメンタリー。
当時のミスターの人気と社会的影響の凄さを改めて思い知る。プロの世界は数字が全てだが、この人は例外。王貞治やイチローなど、長嶋を上回る数字を持っている選手はいるが、その数字を超越しているのが「長嶋茂雄の存在」だ。時代や社会、そして個人の才能、努力、運、全てが綺麗に結びついて、長嶋茂雄を作り上げた。そんな存在なのだ。
ところで、長嶋の引退といえば「巨人軍は永遠に不滅です」という名言。しかし、長嶋引退の1日のクライマックスはこの言葉が発せられた時ではなかった。盛り上がりの最高点は試合直前、長嶋が1人で球場を1周し、ファンに直接挨拶し -
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ネタバレチェック項目6箇所。「監督が何を気にしていたかというと、ファンなんですよ。選手よりファン。ファンにどう喜んでもらうか、そのためにどういうチームを作って、どうやって戦うか。どういうタレントを集めるか。他の監督とは全然違うプロデューサーなんです、長嶋茂雄っていうのは、それを理解しないと。長嶋監督っていうのは理解できないと思う」(松井秀喜)。「ミスターはまだまだ肉体的にはプレーは出来た。だが、ミスターだからこそやめなければいけなかったのだろう。ON時代は終わった。ひたむきに打ち込んだ姿、あの情熱。それを今後は巨人にそそいでほしい。ミスター、本当に長い間、おつかれさんでした――」(王貞治)。「オイ、分
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阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝し、日本一に輝いた1985年。その一年を選手、監督、ウグイス嬢やグランドキーパーなどの裏方のスタッフの方にまで入念に取材して振り返るノンフィクション。300ページを超える力作で、阪神ファンの方ならあの年で記憶に残る試合はバックスクリーン3連発をはじめとしていくつもあるはず。様々な立場の方が「あの時」を振り返ります。強打で打ちまくり、ダントツの強さで優勝したようなイメージが残っていますが、本書を読んで以外だったのは次の点でした。
1)優勝したチームは実は前年まで監督をされた安藤氏がその骨子を整え、バース曰く「優勝したチームは安藤の作ったチームだった」
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伝説のバックスクリーン3連発が飛び出し、新たなクローザー中西清起が生まれた1985年。開幕4カード11試合が終わった時点で、1番真弓426、6ホーマー。3番バース381、7ホーマー。4番掛布293、6ホーマー。5番岡田447、3ホーマー。平田450。1試合平均約8点のチームは単独首位をひた走る。日本シリーズも、管理野球を見事に打ち砕き、球団史上初の日本一に輝く。大阪魂が萌えに燃えあがった1年であった。栄光の軌跡が幾多の感動とともに綴られている。終章は、一転、栄華から落剥していく暗黒時代が語られる。選手一人ひとりの辿った足取りが興味深い。明暗あわせたタイガースの真の姿をみることができる。