マックス・ウェーバーのレビュー一覧
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学生だった云十年前、政治学や社会学の講義では、ウェーバーの『プロ倫』は必読文献、『支配の社会学』は大体参考文献に挙げられていた。当時『プロ倫』はなるほどと思う程度には読んだものの、『支配の社会学』は、いかにものドイツ的な固い文章が読みにくかったし、叙述されている事項について基礎知識にそもそも乏しかったため、官僚制とカリスマの箇所をつまみ食い的に読みはしたものの、途中で挫折してしまった。
今回、文庫版の新訳が出たということで、再チャレンジ。
はじめに、「支配」の定義その他の概論的事項について叙述。続いて、「官僚制」「家産制」「封建制」の議論に。
「官僚制」は現代にまで続いている仕組みであり、また自分も社会人として長く組織で勤務したこともあって、なるほどと思う箇所が多かった。
「家産制」「封建制」については、ウェーバーが古代のエジプトやローマ、中国、ヨーロッパ、イスラームそして日本まで、多くの歴史的実例に基づいて議論を進めていることに今回気付いた。(その例が今日の学問水準から見て正しいと評価されているかどうかは分からないが、)だからこそ、歴史が単純に一方向に進むものではないことをいろいろな箇所で論じているのだろう。
そしてまた、本書が『経済と社会』という全体の中に置かれていることからも分かるように、家産制や封建制といった仕組みを支えている、あるいはこれらの仕組みが影響している”経済”というものの位置づけの重要性というものもある程度理解できた。
訳者は訳語や訳文について、一般読者に分かりやすいようかなり留意してくれているように思う。この調子で行けば、Ⅱも完読できそうだ。
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Posted by ブクログ
昔、岩波文庫で読もうとして、あまりに難しさ(?)にまいって、ざっと斜め読みすることになったが、資本主義ってなんだろうと改めて考えるにあたって、再チャレンジ。
中山元さんの訳文は、圧倒的に読みやすくて、なんかやっと議論についていくことができる感じがした。
一方、この本の面倒さ、読みにくさの一つは、本文以上に膨大な注釈の存在で、これを読もうとするともともとの議論の流れがわかりにくくなることから来ている。それはもともと原著がそうなっているので、仕方がないのだが、この本をしっかり理解するためには、まずは本文を通読して、次に注も読みながら、再読、再再読する必要がある気がした。
また、キリスト教に詳しくない私にとっては、カトリックとプロテスタントの違いもあまりわかっていないところで、プロテスタントのなかのルター主義、カルバン主義、ピューリタンなどの関係もわからないし、さらにその下の宗派の違いになると頭がボーとしてくるというのも難しさの要因である。
まあ、要するにマルクス的な経済というか、生産様式として下部構造が社会の仕組みや文化などの上部構造を規定するというアイディアへのアンチテーゼとして、宗教の違いが経済に影響を与えるという話しです。
でもそんなことは、この本を読む必要もなく、資本主義に関する本を読めば、どこにでも書いてあること。
この本を実際に読んでみると、ウェーバーの議論は、単純に、マルクスの図式をひっくり返すというものではなく、わりと複雑である、という印象をうけた。
この複雑性に付き合って、なんだかよくわからないと行きつ戻りつすることに、この本を読む意味があるのかなと思った。 -
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「職業としての政治」は、30年以上前に読んだことがあって、強い印象をもった。
なんとなく中山元さんの訳で、初めて読む「職業としての学問」とともに、読んでみた。
「職業としての政治」については、驚いたことに、読んでいて覚えているところがほとんどなかった。わたしが覚えていたのは、政治という職業と倫理性の関係についての議論だけで、それは結論部分でようやく出てくる話し。
結論を覚えているならいいかというと、当然、そういうわけではない。
ここで、議論されているのは、政治というものもつ本質的なパワーというか暴力の問題(これがもちろん倫理の話につながるのだが)、そして歴史的、地理的な政治の形態、そのなかにおける官僚制の役割などがほとんどの分量をしめている。
そうした議論を踏まえて、結論部に到達するわけで、なかなかに面白かったな。
とは、いいつつ、やはり最も印象的なのは、最後のほうの部分。
最初に読んだあとに、歴史を勉強して、第一次世界大戦におけるドイツの状態、ロシア革命、1918年のドイツ革命、スパルタクス団蜂起の流れを理解したうえで、このまさにスパルタクス団蜂起の直後になされたこの講演を読むと、その緊迫度、そしてウェーバーの視点の冷静さ、見通しの正しさがひしひしと伝わってくる。
ウェーバー、恐るべし。
「職業としての学問」も同時期になされた講演。職業は大きく違うのだけど、ウェーバーの主張の骨格は似ている。
もっとも、「学問」のほうは、「政治」ほどの緊迫感はなく、晩年の大学者の述懐のような、当時の学問へのやや批判的な眼差しなどが印象的であった。 -
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職業倫理本の体をした自己啓発本な気がした笑
「いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、熱なしになしうるすべては、無価値だからである。」
「作業と情熱とが――そしてとくにこの両者が合体することによってーー思いつきをさそいだすのである。だが、思いつきはいわばその欲するときにあらわれる。それはわれわれの意のままにはならない。」
「 とにかくそれは、人が机に向かって穿鑿や探究に余念ないようなときにではなく、むしろ人がそれを期待していないようなときに、突如としてあらわれるのである。とはいえ、こうした穿鑿や探究を怠っているときや、なにか熱中する問題をもっていないようなときにも、思いつきは出てこない。」 -
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ウェーバーが1917年に行った講義を現代のビジネスパーソン向けにアレンジされたのが本著。かなり意訳のようで、原本とは内容が多少異なるらしい。
100年経っても、人間が悩むこと、悩むが故に起こす行動や依存してしまうものも同じである事に驚いたと共に笑ってしまった。
自分の人生に責任を持つことを恐れて、学生(若者)は教育者に未来の進路の先導者であることを期待し続けているように感じる。
ただ若者が求める「やりがい」や「自分らしさ」を見つけることに近道などなく、当たり前のことだが日々の雑務、時務を真面目にコツコツと果たしていくでしか、見つけ出せないのであろう。
自らの悩みも若者特有のありきたりなもので、ウェーバーによって少しお叱りを受けて身が引き締まった。 -
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ネタバレようやく読めた。一読のみでは内容を十分に理解しているとは到底言えないが、以下、現時点で読み取れたことを記載しておく。
旧訳の序(p.85~)によると、本書におけるウェーバーの主張は主に3点である。1点目は生計の資を得る道としての学問の現状、2点目は職業としての学問にたいして人々(特に教師および研究者)がとるべき心構え、3点目は学問の職分そのものについてである。1点目について印象的であったのは、学問を職業にすることには「偶然」が大きく作用するという主張である。つまり、実力いかんよりも、学問を職業とするためには、運の側面も重要であるということである。これは現代にも通用する。2点目については、やはり「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」という叱咤である。文章から想像するに、当時のドイツでは、文壇上から特定の政策に関する評価、主張を行う教師や、あるいはそれを求める学生などが存在していた。これに対しウェーバーは、「学問」と「政策」とは根本的に異なるものであるということを主張した上で、個々人に与えられた仕事に集中しろと主張する。特定の学問に専心すること、仕事以外のことに心酔しないことの重要性を説くのである。3点目に関しては、合理化が進み、学問それ自体も機械化の危機に瀕している現代において、学問に求められていることは、「明確さ」と「責任感を与えること」であると述べる。現象自体が複雑化している中で、全てを語ろうとするのではなく、(例え一部分であろうとも)特定の学問的見地から、明確な学問的成果を生み出し、それを評価ではなく、ただ知見として学生に提示することによって、学問を修めるものに責任を付与することであると解釈した。
この講演はすでに100年以上前のものであり、ここでの主張を全て現代にも応用できるとは限らない。しかし、当時のドイツの時代背景とともにこの主張を読み解くことで、彼が何を危惧し、批判し、主張しているのか、という構造に触れることができる。これは、現代にも通じるものがあると思う。現在は、総合政策的な、複数の学問的知見を組み合わせることによって、社会課題を解決するアプローチも出てきている。良くも悪くも、学問よりも、実社会に役立つことの比重が重くなってきている感覚がある。では、その中で、社会科学を探究する意味合いとは何か。ザッヘに専心しながらも、自分なりに考えを深めていきたい。 -
Posted by ブクログ
マックス・ウェーバー(1864~1920年)は、ドイツの政治・社会・経済学者。社会学の第二世代を代表する学者で、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905年)は、社会学の名著として有名である。
本書は、著者が死去する前年の1919年1月にミュンヘンで大学生向けに行われた講演(更にパンフレットとして出版され、死去後『科学論論集』に収められた)の邦訳である。(姉妹編の『職業としての政治』もほぼ同じ時期のものである)
本書を読むにあたっては、本公演が、キリスト教の支配する世界、かつ、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)終戦直後の敗戦国ドイツ・ミュンヘンにおいて、人々の心が大戦後の動揺と既存の秩序に対する疑惑に満ちていた中で、感受性に富む青年たち(大学生)向けに行われたものであることを踏まえる必要がある。
本書でウェーバーが言わんとしたことは、大まかにいえば以下である。
◆「学問がいまやかつてみられなかったほどの専門化の過程に差しかかっており、かつこの傾向は今後もずっと続くであろうという事実である。・・・実際に価値ありかつ完璧の域に達しているような業績は、こんにちではみな専門家になしとげられたものばかりである。」
◆「学問のばあいでは、自分の仕事が・・・いつか時代遅れになるであろうことは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。」
◆学問の意味は、「それを欲しさえすれば、どんなことでもつねに学び知ることができるということ、したがってそこにはなにか神秘的な、予測しえない力がはたらいている道理がないということ」を知ることである。
◆学問は、「われわれにとってもっとも大切な問題、すなわちわれわれはなにをなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答えない」。
◆「政策は教師の側からいっても教室で取りあげられるべきものではない。・・・なぜなら、実践的政策的な立場設定と、政治組織や政党の立場に関する学問的分析とは、全く別のことだからである。」、「こんにち一部の青年たちが犯している誤りは、・・・講義者のなかに・・・教師ではなく指導者をもとめていることにあるのである。」
◆「学問はいったい個々人の実際生活にたいしてどのような積極的寄与をもたらす」のか? それは「技術、つまり実際生活においてどうすれば外界の事物や他人の行為を予測によって支配できるか」と「物事の考え方、およびそのための用具と訓練」と「明確さ」である。
「純粋な学問(日々の仕事)に立ち返れ!」と若者を叱咤しつつ、その主張は、学問は「いかにあるか/存在(sein)」は明らかにできても「いかにあるべきか/当為(sollen)」は明らかにできない、という学問の限界を的確に指摘しており、「学問とは何か?」(というより「科学とは何か?」)を考えるにあたり、現代でも耳を傾けるべきものである。
(ウェーバーの文章は非常に複雑と言われるものの、1936年訳の本書はかなり読み難い。新訳の講談社学術文庫の方が読み易いかもしれない)
(2018年12月了) -
Posted by ブクログ
以前読んだものが意訳(現代意訳?)が激しいものだったので、機会もありこっちの方を。
旧訳序文でも述べられているように、言ってることは情勢・学問への姿勢・教えることへの姿勢に分けられる。
個人的には、終盤に何かもうひとつ主張しているような気がするけどその辺は何を言っているのか(具体例を述べてただけなのか)また読み込む必要がありそう。
情勢や学問への姿勢はまぁそれでよいとして、教えることへの姿勢に関してはちょい思うところあり。
そもそもここでは教える側の絶対性のような何かが前提になっている気がする(そしてそれは確かに多くの場合において正しいとは思う)けど、教わる側は教師に対して批判的であることが可能(批判的であるべき?)なのではないかという部分をもうちょい掘り下げて考えてみたいところである。 -
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現代風に言えば職業指南書であり、人気シリーズ『職業としての~』といったところか。
マックス・ウェーバーの学生向けの講演が基となっており、活字メディアが主だった当時、本講演は職業選択をするうえで非常に有益であったと推察できる。氏は、学問を生業、仕事、志の側面で語っており、米国事情との独対比、顧客視点=学生視点での教育者の在り方論は相当新鮮であったであろう。むしろ100年近く経た今読んであまり違和感を感じないのは、驚くべき先見の明といえるかもしれない。
奇しくも本書が発刊された1919年にドイツ労働者党が発足しヒトラーが入党し、残念ながら国家を戦争へと傾けていく。ドイツにはウェーバー氏のような聡明で熱意ある優れた頭脳が豊富に居た。ウェーバーが存命であればドイツの運命は如何様になっていたであろう?戦争によって人類の叡智のに停滞期が生まれたことは誠に遺憾なことである。 -
Posted by ブクログ
学問についての情熱的講義録邦訳。第一次世界大戦後にドイツで行われた講義だそうだが、ここで指摘される問題点はこんにちの日本に至ってもまるで改善されていない。一般に「世間に甚大な影響を与えた書物」を名著と呼ぶそうだが、それではこの本は名著とは呼べないのだろうか。そんな暗澹たる気持ちにすらなる。しかし私も、教師というより指導者を求めて大学の講堂に入り込んでいたきらいがあるので、あまり大きなことは言えない……。
大学生になったら、いな大学を志したらとっとと読むといいと思う。時折感情的で、概ね装飾された回りくどい物言いなので、言ってる内容は単純なのになかなかわかりにくいけれど。面白い人だなヴェーバー。 -
Posted by ブクログ
「ところで労働はそれ以上のものである。何よりも、神が人間の生活の自己目的として定められたものなのだ。」
カトリックやピューリタン、そしてプロテスタント等様々なキリスト教派の観点から「労働」を考察した本。
なぜ、という原因の部分から深い洞察が見受けられる。
日経BPの本は翻訳が程良く読みやすいが、それでもやはり内容を理解するのは骨が折れる。
禁欲に生きようと自律してきた当時の人々とは違い、現代では禁欲的に生きなければならない。それが分業による専門性の追求であり、そのためには何かを捨てて生きなければならない。そうすることで、富は増大し、それを他者へ使うことで、神の偉大さをより多くの人に伝えることができるので、これから先もファウスト博士のように、すべてに対する知を求めることはできないだろう。
しかし、現在では、多くのことを経験し、それらをつなぎ合わせることから新しいアイディアが生まれていることを考えると、専門分野は一つではなく、複数求めたほうがいいと思われ、すべての分野に対するスペシャリストが理想となってしまう。それはファウスト博士が求めたものだ。結局、何を放棄するべきか選ぶのは難しいが、選ばなければ、仕事として中途半端な専門性になってしまう。