パスカルは17世紀のフランスの科学者・哲学者で、16歳の時には
「パスカルの定理」を証明。以後も数学や物理学の分野で功績を残し、
39歳で亡くなった早熟の天才です。科学で残した業績ほどには知られ
ていないかもしれませんが、実は熱心なキリスト教徒でもありました。
本書はそのパスカルによる思想の断片を
...続きを読む集めたもの。「パンセ」と
は「思索」を意味するフランス語で、「格言」「断章」という意味
もあります。もともと一冊の本にするための制作ノートであったと
いう本書は、題名どおり思想の断片を集めたもの。一冊の本として
体系だったものではないのですが、そのぶんどこから読んでも良い
構成になっていると言えます。しかも、文章が短いものが多いので、
まさに格言集のような読み方を楽しめます。
パスカルの有名な言葉に「人間は考える葦(あし)である」があり
ます。「クレオパトラの鼻が低かったら、世界は変わっていただろ
う」と言ったのもパスカルですが、このようなたくみな比喩と親し
みやすい言葉で人間と社会の真実を衝くのが『パンセ』の魅力です。
ちなみに、有名な「人間は考える葦である」ですが、実は、本書で
は以下のように表現されています。
「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものであ
る。だが、それは考える葦である」
つまり「葦」は、「弱さ」の象徴だったのですね。弱くて簡単に踏
みつけられてしまう存在だけれども、その弱さを知って、考えるか
らこそ、尊いのだとパスカルは述べるのです。弱さの中にこそ尊厳
が宿る。「考える葦」の背後にはこのようなとても重要なメッセー
ジが隠されていたことを、本書を読んで初めて知りました。
パスカルはキリスト者らしく、人間が有限であること、神に比して
はならない存在であることをわきまえています。その有限性をわき
まえた上で考えることを突き詰めれば、そこに無限が宿るのだ、と
『パンセ』は教えます。人間の力が無限だと錯覚してきたのが近代
の歴史だとすれば、人間の「弱さ」や「有限性」を今、改めて再認
識すべきではないでしょうか。そこにパスカルの現代性があります。
仕事や生活に追われていると、日々、あまり考えないで過ごしてし
まいます。しかし、パスカルが言うように、考えることの中に人間
の尊厳はあるのです。そのことを気付かせてくれるパスカルの言葉
の数々に、是非、触れてみてください。
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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)
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われわれの限度をわきまえよう。われわれは、なにものかであって、
すべてではない。
すべての事物は、引きおこされ引きおこし、助けられ助け、間接し
直接するのであり、そしてすべてのものは、最も遠く、最も異なる
ものをもつなぐ、自然で感知されないきずなによって支えあってい
るので、全体を知らないで各部分を知ることは、個別的に各部分を
知らないで全体を知ることと同様に不可能であると、私は思う。
想像力はすべてを左右する。それは、美や正義、そしてこの世にと
ってすべてである幸福をつくりだす。
すべて進歩によって改善されるものは、同じく進歩によって滅びる。
今ある快楽が偽りであるという感じと、今ない快楽のむさしさに対
する無知とが、定めなさの原因となる。
わずかのことがわれわれを悲しませるので、わずかのことがわれわ
れを慰める。
人間は、屋根屋だろうが何だろうが、あらあゆる職業に自然に向い
ている。向かないのは部屋の中にじっとしていることだけ。
人間は明らかに考えるために作られている。それが彼のすべての尊
厳、彼のすべての価値である。そして彼のすべての義務は、正しく
考えることである。
小さなことに対する人間の感じやすさと、大きなことに対する人間
の無感覚とは、奇怪な転倒のしるしである。
信仰は迷信とは違う。
信仰を迷信になるまで固執することは、それを破壊することである。
君自身への君の同意、そして他人のではなく、君の理性の変わらぬ
声、それが君を信じさせなければいけないのだ。
信ずるということは、それほど重大なことなのだ。
理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを
認めることである。それを知るところまで行かなければ、理性は弱
いものでしかない。
この世で最も偉大で重要なものが、弱さを基礎としている。
人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。
だが、それは考える葦である。(中略)だから、われわれの尊厳の
すべては、考えることのなかにある。
人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使の
まねをしようと思うと、獣になってしまう。
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●[2]編集後記
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昨日は東京は雨。妻が外出のため子守りの当番だったのですが、雨
の子守りほど困るものはありません。何せ相手は遊び盛り。とにか
く外に連れ出して身体を動かせてやらないといけません。
そこで二人で遠足に行くことにしました。目指すは押上の雨水資料
室。墨田区が先導してきた雨水利用の取組みを紹介する施設です。
娘:きょうはどこいくの?
父:雨水資料室だよ。
娘:アメミズシリョウシツ?ふーん。なにするの?
父:いっぱい遊べるところだよ。行きたい?
娘:うん。いく!アメミズシリョウシツ、あそびにいく!
当然、娘には雨水資料室が何かはわかるはずもなく、我ながら姑息
だなと思うのですが、雨の日はこうやって自分が行きたい場所に娘
をおびき出すほかありません。
押上は初めて降りる駅でした。地下鉄の階段を一つ一つ娘とジャン
プしながら登っていった先には、建設中の新東京タワーが!
全く想像していなかったので正直驚きました。もうかなり出来てい
るのですね。圧倒的な存在感でした。実に近未来的な佇まいです。
今の東京タワーができたのが昭和33年(1958年)のこと。50年前に
もこうやって建設中のタワーを眺めていた人々がいたのだろうと思
うと感慨深いものがありました。当時、人々は、日々高さを増して
いくタワーに何を見たのでしょう?未来?それは今のこの時代に見
ているものとどう違ったのでしょう?
新東京タワーは、実は巨大な雨水貯留施設でもあるそうです。天か
ら降り注ぐ水を受け止め、溜め込む巨木のような存在。スカイツリ
ーという愛称が、単なるイメージだけではなかったことに感動しま
した。50年前のタワーが「人工」の象徴だったとすれば、21世紀の
タワーは「生命」の象徴になれるといいですね。