シモーヌ・ヴェイユのレビュー一覧
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ネタバレ重力が、愛と感じるか、それとも単なる重みでしかないと感じるかはその人によるだろう。ヴェイユは重力を逃れられない運命であると認識しているようだ。そして恩寵はその重力から開放されるものだという。
重力を違う言葉で読み替えると関係ということになる。私達がいま生きて、重力を感じているのも、星同士の関係にあるだろう。ヴェイユは関係の働きかけが一方に傾くと違う方はおろそかになるという。
そして、関係というのは主に思考のことなのだ。ヴェイユがのべたいのは思考と、それ以外のものの関係につきる。それ以外のものとは光のことだと。
難解だがよみすすめてゆきたい。 -
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ネタバレヴェイユが思索の断片をつづった『カイエ』による箴言集。猛烈に毒があり、長く続けて読むのはつらいが、ときどき手に取りたくなる。強く励まされる言葉があるかと思えば、あまりの厳しい指摘に暗澹となることもある。
「人に哀願するのは、自分だけの価値体系を他人の精神の中に力ずくででもはいりこませようとする絶望的なこころみである」
「同じひとつの行いでも、動機が高いときよりも、動機が低いときの方が、ずっとやりやすい。低い動機には、高い動機よりも多くのエネルギーが含まれている。問題はここだ。低い動機に属しているエネルギーを、どうやって高い動機に移しかえるか」 -
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生きることはひとつの思想である。そして、死もまたひとつの思想である。神によりよく遣えるものは、必ず神の裏切りに逢う。なぜならば、神は人が神の力にすがって生きることを望んでいないから。そう信じて、無神論者こそがよりよく神の教えに遵う者だと言い切った、異端の人。貧困のものが自分の糧をたよって、その財を盗むならばそれは構わないと信じて、家のテーブルの上に財布を投げ置いたという、そんなエピソードを持つ。ヴェイユは生きることが思想であることを知っていた人なのだろう。そして、嘘か真かはさておき、民衆のために命を投げ打つ思想を生きて見せてキリストのならいを忘れずに、自分もまた神の手をまたずに、自らに鞭打ちながら他人の幸福を祈った数少ない学者である。祈ることは痛切である。そしてそれは届かない。それに耐えてこそはじめて信仰は得られるものなのだろう。世の中の大半の信徒はニセモノである。そして、私はニセモノにさえもならず、怠惰のなかに無神論者を生きている。
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ヴェイユには特に関心を持っていないが、観念論に走ることなく、実際に工場で労働するなど誠実な行動と、その生活実感に基づいた言説には好感が持てる。
この「根をもつこと」はヴェイユの晩年、第2次大戦下に、ナチス=ドイツに敗北した故国フランスからのがれ、亡命先で故国のための活動を志願したところ、戦後のフランスのために精神的支柱となるような本を書け、と言われて書いた本。ということらしい。
上巻の第1部では、人間の義務や集団に関して、短い倫理的な考察が並ぶ。その後の章では、歴史における「力」の推移などが考察され、とりわけヒトラーをめぐる記述に興味ひかれる。
「われわれのいだく偉大さの(誤った)構想は、まさしくヒトラーの全生涯に霊感を与えた構想にひとしい。」(p.58)
なるほど、彼女が考察してきた文化史で育まれてきた「偉大さの構想」=力の論理が、ヒトラーを必然的に輩出するというのは正しいだろう。
ふと、この「偉大さの構想」は現在の日本でも、いままさに人びとの間で成長し続けているのではないかという気がした。
橋下徹氏が「日本に必要なのは独裁者だ」などと言い、その橋本氏を多くの人びとが支持している現在、われわれはアドルフ・ヒトラーを待望しているだけなのかもしれないのだ。
小泉純一郎、石原慎太郎や、虫のようにわき出すネトウヨやその予備軍、ネットをかけめぐるもろもろの扇情的な言説。ヒトラーが出現することを、私たちは無意識のうちにねがっているのかもしれない。 -
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エックハルトに続いて再読。文庫派なので、カイエは買わない。認識のレベルでなく、現実の苛烈な生活の中で魂の真空化=自己の蒸発を実践して行く様は壮観だけど、コワイよこの姉さん。高野悦子の「二十歳の原点」思い出してしまった僕はダメ男ですか。そうですか。ふと想像したんだけど、この徹底的に下降してゆくことで一発逆転して天上へ離脱していこうとする女性の、日々の生活のメモ群が、現在の日本のweb日記文化の中で展開していたらどうなったろう?故・南條あやのメールサイト(町田あかね時代の方ね)を超えるサイトになったんではなかろうか。おっと、妄想が過ぎたね。