尾崎士郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
大相撲九月場所を観ながら読んだ。尾崎士郎が相撲観戦に通ったのは昭和二年頃からということなので、関東大震災復興後の初代国技館と、蔵前国技館ということになる。生で観戦するほかには、新聞などで試合の展開を知るしかない頃の尾崎士郎にとって、相撲というのは少年時代には自分でとるものであり、大人になっても文士同士でとりつづけつつ、国技館に通いつめて観戦し続けるものでもあった。そんな著者の相撲観の変遷は「跋」(pp217-219)にさらりと書かれている。本書におさめられた文章は、土俵から国技館の外、東京の街のなかにまで広がり、浜町や柳橋あたりまでを描く。相撲というものが都市において持っていた存在感を感じることができる。
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Posted by ブクログ
ネタバレ目次より
・篝火
・雲悠々(篝火 第二部)
関ケ原を舞台にした小説を読むといつも思うけど、大谷吉継、いい男だよねえ。
彼を悪く言う人はいないでしょう。(当時はいたと思うが)
篝火は関ケ原に東西の武将が集まってきつつあるところから東軍勝利の夜まで。
雲悠々は、落ち武者となった西軍の武将の話。
時間に追われる現代と違って、両軍が一度に勢ぞろいするわけではありません。
何日もかけて、各軍それぞれの事情に応じて集まります。
早めに来て準備怠りない者、国元の反対を押し切ってはせ参じる者、遂に間に合わなかった者。
それでも東軍は、家康の号令ひとつで誰がどこを守りどこを攻めるのか、どのように隊列を組み動くのかが決められるので、軍議と言ってもスムーズに全てが決まって行きます。
ところが西軍は三成に人望がない、三成は戦のなんたるかを知らない、西軍内の上下関係があいまい、などの理由で、何ひとつスムーズにはいきません。
勝敗が決し、首実検をする夜。
篝火がたかれ、次々に首の主が記録される。
その中にひとつ、とても小さい子どもの首が…。
尾崎士郎は大垣市の郷土博物館で、この小さな首がかぶっていたであろう甲を見て、この小説を書こうと思ったのだそうです。
雲悠々は、落ち武者狩りから逃げる西軍武将たちのそれぞれを。
両方を通じて石田三成の志が描かれる。
三成にとって勝敗なんてどうでもいい。自分の命もどうでもいい。
ただひたすら豊臣家のために生き死んでいく。
豊臣家を蔑ろにするものは、絶対に許さない。その一念。
それがわかったから、大谷吉継は勝ち目のない戦と知りながら西軍についた。
なぜなら三成は彼の恩人だったから。
あまりよく言われることのない三成が、尾崎士郎の筆にかかると苛烈なまでに信義に生きる男として、壮絶な姿をさらしだす。
この小説、とても文章が読みやすいのです。
明治生まれの文豪が書いたとは思えないくらい。(実際に書かれたのは昭和14~16年だそうですが)
歴史小説好きなら、一読の価値があると思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ明治末期から戦後までを生きた作家で、後年には横綱審議委員も務めた著者の相撲への想いを綴った随筆集。タイトル通りのまさしく相撲を見る目で著者の相撲観が、取り扱う題材を変えながら長短さまざまに記されている。 各章の内容は本書のために書き下ろされたものではなく、様々な年代での文章を集め、おおよそ古いものから順に並べたもののようである。そのため、内容が前後・重複していたり、年代が不明瞭なことも多い。これはわかりにくさもある反面、人生の長い期間の様々な時期に書かれたものであるので、著者自身の年齢の変化や社会の雰囲気の違いによる相撲へ向ける心理の変化を感じることができるという良い面もある。
初代国技館の様子(土俵の上の大屋根が現在のような釣天井ではなく4隅の柱によって支えられていた事や勝負審判がその四方の柱に座っていた事、大鉄傘の異名)を知らないと分かりにくい表現もあるが、描写のうまさはさすがだと思った。
本書は100年前の”推し活”の記録でもある。その当時のオタク達の様子や著者が思っている”推す”際の心得のようなものは現代でも通用する内容であると思った。 戦前の日本でも”推し”に貢いで財を食い潰す人がいたというのは面白い。時代が移り変わっても人は変わらないものである。著者が厄介であるとする『男が男に惚れ込む』や、生活を持ち崩すほど入れ込むという様は、未だそれほどのものに出会ったことのない身としては羨ましいような気持ちもある。
表題ともなっている『土俵を見る眼』の内容は相撲だけに限らず、他のスポーツや物事を時間軸をもって見る際の紳士協定のようなものを述べていると感じた。『今日の特徴は今日の感情を持って鑑賞しなければなるまい』、『今日の目をもって昨日を観てはならぬし、昨日の目をもって今日を観るべきではない』という言葉は懐古主義や進歩主義に対する警鐘でもある。 私はまだ「あの時代は良かった」という観念には達していないが、その逆の「今の人達の方が明らかにすごいよ(未来はもっと良いだろうね)」は良く感じる。実はこれも懐古主義と同じ危険なバイアスであると、わずか4ページの文章で気付かされ、「過去には過去の事情があり、それぞれの時間を考えた評価軸を持つことも意識せねばな」と意識を改めさせられた。
110ページ最後からの『人間的な好感が彼の印象を決定するのだ。・・・ 格別不格好な力士や土俵が内にこもる陰気さに掩われて見えるような力士は、どこまで出世しても絶対に人気の対象にはなり得ないように運命づけられている』は至言。スポーツといえど、姿形や雰囲気、態度が人気に直結することを率直に書いている。この感じ方は(直接的に言葉にしにくい世情だが)今にも通ずる。
また、著者が強く惹きつけられ続けた「清水川」に『土俵の上に見る幻影の失われることをおそれて』長い間会わなかったという姿勢は、著者の(無意識的とはいえ)メタ認知の高さを感じ共感すると共に、現代の推し活にこそ必要な忍耐の姿勢のような気もした。現代はSNSや動画サイトの発展で推しとの心理的な距離間が過去に類を見ないほど近くなった。だからこそ推しとの距離・位置関係を見誤らない、過度な要求を押しつけないために、以前までよりも高度なメタ認知が、自他の健全性を保つためにも必要になってくるのではないだろうかと考えさせられた。
著者は発表当時の大衆に向けて本書の内容を執筆した(:長い時間が経ったあとまで読まれることを想定していない)と思うので、前述のものも含め、現代に読むための注を付した方が良い箇所がたくさんある。初代・二代目国技館についてや、歴史ある四股名は勘違いが生じやすい。相撲界での事件についても調べなければよく分からないものが多い。アスタリスクを付けてページ内や章末にまとめて簡単な注釈を付けると読みやすくなると思った。
中盤以降に描かれている力士や相撲を取り巻く様子は当時を知ることができるとともに、「今も昔も変わらないな」との想いも感じる。
かつての力士の様子を見れば、相撲がそれほど高尚なものではなく、人気があった時期でも観客皆が好角家と呼べるものでもなかったことがわかる。また、力士が『無頼漢のごとき印象』との記述や、「二つ引」や「新海」の傍若ぶりから、力士に粗暴で暴力的な側面があることは今に始まった事ではないとも思った。
本書を読むことで「大相撲はことさらに「伝統」を並べ立て、保守的になるべきではなく、むしろ時代や社会の要請に合わせて変化していくことこそが本来の相撲の伝統である」との考えを強く抱いた。
完全に余談だが、本書の中でも時折現れる、昔の様子を伝説と呼称し「現在はそういうことがなくなってきた」という語り口は、いつの世でも変わらないものなのかとも思った。
人は実際に体験したかどうかを問わず、過去に対して美化する方向のバイアスがかかりやすい。もしかしたら(相撲に限らず)史料の形成過程もこんなものなのだろうか。
私からすれば本書の中の人物や出来事はどれも”古き良き時代”のことだと思っていたが、同時代を生き、実際に見ていた著者の描写は決して良き部分だけではないことを教えてくれる。特に『横綱格上げ説』の『終戦後の横綱は、横綱たるべき必然の上に立った実力を保証されてはいない』という論調には「この時代からこんなことを考えられていたのか」という驚きを覚えた。八百長を排しガチ相撲の”現代”だから横綱や大関が不安定であるし、それはしかたがないことだと思い込んでいた私の不見識に掣肘を加えられたような気分がした。
『解説』はイマイチな感じがした。
解説者は本書を誰が読むと思って書いているのだろうか?本書は初版から70年近くが経っての再版である。当時の空気を知り存命の読者はほんの一握りであろうから、現代との知識・感覚的なギャップを埋めるような内容に章を割くことが必要だったのではないかと強く思った。
また、解説の感覚のズレも気になった。
双葉山の優勝パレードで女が飛び出してきて制止される場面を『新聞やテレビはもとよりネットの読者や視聴者は、双葉山に醜聞があるのかと詮索しただろう』と記述しているが、この考えには同意しかねる。この場面を現代人が見たのなら、ショッキングなシーンだと感じて肝を冷やし、双葉山の安否をまず心配するだろう。ストーカーという言葉が一般化してすでに30年近い時間が経っている。著名人への不意の接触は好奇の目より危機感の方が強く働くだろう。また、被害者の醜聞よりもくだんの女への批判や詮索が(過剰に)渦巻く事態になるとも予想される。解説者の感覚は一世代以上古いものであると私には感じられた。
本書終盤の横綱審議委員会の立ち位置に関する著者の見解は面白いが、これに乗っかった解説者の言い訳は世間への恨み言も含まれ、なにより長い割に面白くもない(:これが一番問題)。
解説者が審議委員長であった際に横綱、大関への昇進を決めた豊昇龍、琴櫻のことを記しているが、彼らを擁護しているようでいてその実、選者としての自身の擁護を繰り返しており、実に見苦しく映った。特に横綱豊昇龍の不振に対する無様な理由付けは、この結果を予想していなかったようでその認識の甘さというか「本当に長く相撲を見ている有識者か?」という不見識に驚かされた。私としては豊昇龍の成績はスタッツ的に十分あり得る結果で特に違和感は無く、それを承知の上で優れた部分(;例えば、大事な場面で会場の雰囲気に呑まれず最大限のパフォーマンスを発揮できる稀な力士)を見て横綱に推挙したと思っていたので、この言い訳部分にはあきれてしまった。
これらの感性のズレや鈍さ、責任逃れの姿勢が現代の横綱審議委員の見識が疑われるような雰囲気へとつながっている(;本書著者の見解を借りれば、審議委員達の感性がズレている = 委員達が民意を代表できていない)のではないかと思いを抱いた。本文の良い余韻に水を差されたような気分と、同時に、(皮肉なことだが)実に端的にしかし爽やかに審議委員会の立場を弁明している最終盤の著者の文章の良さを再確認するような気持ちになりながら本書を読み終えた。