蓮實重彦のレビュー一覧
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とても面白くて勉強になる。
私は無学なのでドゥルーズや映画論はまるで分からないし、この本の理論の話もよくわかったとはとても言えないのですが、自分の中では持ち得なかった新たな映画の見方を学ぶことができました。
とはいえ、私にはやはりゴールドウィンガールズは無個性の団体にしか思えないし、御大がカンターやバスビー・バークレイのどの辺りの運動性を多少でも評価されているのかや、タルコフスキーの雪はロシアでのタルコフスキーの情景なのだろうから同じように比べるものなのかもよく分からないのですが・・・・。
御大の本を読むとクラシック映画の見たことのない多々の映画がどんなに素晴らしいものなのだろうとワクワクし、すぐにでも見たいと思わせる力がある。淀川長治に負けずの記憶力もさすがすぎて驚嘆する。
あと、フライシャーの自伝もとても面白そうで、open libraryで検索したところ、借りることができたので英語が読める方は是非。
いつか読んでみたいなあ・・・ -
Posted by ブクログ
蓮實重彦さんのライフワークとも言える「ジョン・フォード論」がついに出版された。何年か前にもう一つのライフワーク「ボヴァリー夫人論」もでている。
この2冊がでることはないだろうと勝手に思っていたのだが、本当に本になって驚きだ。
さて、「ジョンフォード論」であるが、残念ながら、ジョン・フォードの映画はみたことがなく、もしかすると1つか、2つはみたのかもしれないが、記憶にはのこっていない。
そんな状態で読んでどうなると思いつつ、読んでみた。映画に関する本としては、もう一つの「主著」ともいえる「監督 小津安二郎」をほぼ映画をみてない状態で読んで、それ以降、小津安二郎のみることができる全作品をみることになったこともあったからだ。
が、この本は、ほぼ歯が立たなかったです。
映画のタイトルもしらない映画が、いわゆる物語の流れではなく、ショットの類似性という観点で議論されているので、なるほどと思うものの、そうだったのか!と思えるはずもない。
出直してきます。という感じでした。
でも、ここ数年、あまり映画は見てないので、多分、ジョン・フォードの映画をみることはあまりないだろうな〜。 -
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蓮實重彦さんのライフワークの一つである「ジョン・フォード論」がついに出版されたのを知り、それを読むための準備運動として、こちらを読んでみました。
インタビュー形式をとっているので、読みやすいかなと思ったのですが、やはりこれは「ショット」論なんですね。
観たことのない映画、観ていても言及されているショットをほとんど覚えていない映画、名前も聞いたことのない映画の話が矢継ぎ早にでてきて、久しぶりの蓮實さんの映画論ワールドを堪能しました。
映画の「ショット」という概念について語っているわけですが、内容としては、これまでの蓮實さん的な映画をみる視点が変わるわけではなく、これまで同様の話しがショットというキーワードで説明しなおされているということだと思いました。
それにしても、蓮實さんって、いつこんなに映画観ているんだろう?本職はフランス文学とかフランス現代思想だし、そちらの本もたくさん書いているし、小説もときどき書くし、一時は東大総長もされていたわけですからね。
「ジョン・フォード論」を読むには、なんかフォードの映画を見る必要があるなと思いつつ、わりと暇なはずのわたしは、その時間がないんですね。
まあ、でもとりあえず読み始めようかな?
「監督 小津安二郎」もほとんど小津の映画観ずに読んで、その後、現存する全作品をDVDで観ましたからね。。。 -
Posted by ブクログ
今まで著者の書籍は手に取ったことがあるものの、私にとってあまりに難解で、通して読むことができなかった。
本書は著者自身初の新書で、比較的読みやすい部類に入ると思われる。
俳優やスタッフの名前(特にフランスが多い)で知らない者も多く、著者の知識の深さ・広さには驚かされた。
映画のあらすじには関心が無いようで、むしろカメラワークへの言及が多く、そうしたところを映画では見るのか、と勉強になった。
ドキュメンタリー映画を撮る小森はるか氏という名前も初めて目にし、今後の映画選びの参考にすることもできた。
とはいえ、時には有名な映画監督、俳優らを徹底的にこき下ろすこともしている。それだけはあまり好きにはなれなかった。 -
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(01)
新書というからには、映画の「現在」(*02)を扱っている。ハリウッドのデヴィッド・ロウリーやケリー・ライヒャルトといった作家を挙げ、邦画では、濱口竜介や三宅唱、小森はるか、小田香といった面々を推している。しかし、こうした現代の注目作家を並べた上で、映画史として振り返る素振りをもって、映画の誕生から起こってきたこととそれについての見解を、上映時間、サイズ、トーキー、ショット、運動、ドキュメンタリーとフィクション、キャメラマンや美術といった分類で述べ立てている(*03)。ヌーベルバーグの頃に、フランスに留学中であった著者は、その映画体験を語り、批評誌「カイエ・デュ・シネマ」への批評も加えつつ、その後の映画人たちとの交流も回想されている。
(02)
「現在」を歴史的にとらえた時、近代の複写技術としての映画であったとしても、「昔の映画」などということはなく、今、見ている瞬間のその映画に現在があることを指摘し、その映されている事実に驚き、時には安心することを推奨している。著者が盛んに溝口健二の「残菊物語」を見るように諭し、今現在、「ジョン・フォード論」を執筆中であることは、そのような映画の現在性という文脈において強烈な矜恃とも受け止めることができる。
(03)
著者自らが後期高齢者にあることを告げ、放談とも言えるような、作品や作家のぶった斬りを施している。素晴らしい、優れている、駄目などの判断がキッパリしており、読み心地はいい。自らの評価や判断と一致しない意見を述べる者(例えば「カイエ」のアンドレ・バザン)を殺人リストに加えるという徹底ぶりも面白い。 -
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ハリウッド黄金期(最盛期)とヌーヴェルヴァーグ
或いは、光が何であり、翳りが何であるか
映画は、30年代後半のハリウッド映画最盛期に映画が約束してくれた無意識の喜びを、もはや保証してくれない。いまそれを映画に求めることは、時代錯誤の振る舞いでしかないだろう。
陶酔へと誘うものではなく、たえざる覚醒へと導く不幸な対象としての映画。
人々は、50年代作家たちとともに、映画には歴史があり、また歴史が映画をつくるというごく当たり前の事実を身をもって学んだのだ。そのことに自覚的たりうるものだけが、なお映画を撮り、なお映画を見ることが許されている。 -
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(01)
小津の作家論ではあるが,映画論,ひいては視覚芸術論としても読める.
各作品についてそれぞれ論究してまとめたわけではないし,小津の生い立ちや人生から作品に現れたものを観察したわけでもない.映画を視覚そのまままに見えてくるものを,徹頭徹尾,ひたすらに記述しようという試みである.
また,黒澤,溝口,成瀬といった同時代の映画作家たちとの比較や,小津が大きな影響を受けたハリウッド映画との比較を主題においたものでもない.
その観照と記述を突き詰めたとき,映画が映画だりうる限界を本書は発見している.著者は,小津の映画に見られる衣食住(*02)の特徴的な現われ方から説き起こし,映画に起こっている運動(*03),画面と画面が繋がり,映画と映画とが互いに響き合う構造を見出し,小津の実存をとらえている.
(02)
特に第4章の「住むこと」は圧巻でもあり,小津の空間感覚や建築の受容を考える上での興味深い指摘にあふれている.その後は,視線や天気の問題にまで踏み込んでおり,風景論としても示唆に富んでいる.
(03)
付録の厚田や井上への取材は噛み合っていない部分があるものの,かつての映画の見え方についてのヒントがある.また,年譜も詳しく,特に小津自身の生身の身体について思わしげな記事がみられる.