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Posted by ブクログ
古代日本における律令国家の形成を、隋唐帝国の圧倒的な文明的圧力と、それに対する「生存戦略」としての主体的受容の過程として描き出す。本書の特色は、「日本」という国名や「天皇」という称号が、なぜあのタイミングで必要だったのかを、激動の東アジアの中で「必死に文明化しようとした人々」のドラマとして、石垣や木簡といった証拠から立ち上がらせる点にある。著者は「日唐律令制の比較研究」の第一人者。
本書の核心は、律令制の受容を「接ぎ木」として捉える視点。律令法は「青写真(目標)」として導入されたが、実態は郡司(旧地方豪族)による地域支配や、初穂貢納に基づく「租」など、日本の固有の慣行に依拠していた。制度面では「調・庸」が部民制や国造制下のミツキ(貢納)の慣行を継承し、「官僚制」も五位以上の有力氏族が天皇に近侍するマヘツキミとしての性格を色濃く残していた。
「天皇」号については、隋の「訓戒」を受け、対等と礼節を両立させる第三の称号として採用されたとする。冊封を受けない「不臣」の立場を貫くための外交的決断であり、国内では神話に基づく「現神」としての権威を保ち続けた。金石文(野中寺弥勒菩薩像など)の再検討から「天智朝に遡ることは確実」との立場をとる。
7世紀、白村江の敗戦という「極度の軍事的緊張」が、日本に強力な中央集権化(律令導入)を強いた。百済遺民を登用し、筑紫に水城、対馬に金田城を築城。防人(防)と烽(とぶひ)を設置した「戦時体制」の構築が進む。鬼ノ城(きのじょう)は天智朝に築かれた朝鮮式山城で、記述は『日本書紀』に欠落しているが、吉備大宰(総領)の府としての軍事的緊迫感を示す。
天智期関連では、中大兄皇子の権力型を石母田正説を引き、「万機総摂」を、王族の一人に権力が集中する「新羅型」の権力集中と位置づける。庚午年籍の作成(670年)は天智9年に作成され、調庸の賦課や兵士徴集を目的とし、族制的支配から領域的支配への転換点となった。太政大臣の初設として、天智10年、大友皇子を太政大臣に任命。これは従来の皇太子執政の機能を継承し、大友の権力を強化するための政治的任命だった。亡命百済人の「学職頭」として、天智朝に鬼室集斯を大学寮の前身の長官に任命。最新の知的・技術的指導を亡命貴族に依存していた。
文書行政については、四等官制と帰化人の役割として、文書行政の「主典(サカン)」を主に帰化人が担い、上官がそれを口頭で決裁する「宣」のスタイルは、文字を持つ帰化人と持たざる有力氏族の共同運営の伝統に由来すると指摘。文字を操る層と、血統・序列で近侍する層の共同運営が官僚制の実態として描かれる。
奈良時代から平安時代にかけて、吉備真備や鑑真らによる「礼」の受容を通じて、天皇の衣服や儀式が徐々に唐風化し、九世紀に至ってようやく制度として完成されたと結論づける。避諱(皇帝や先帝の本名を避ける中国の礼)は仲麻呂政権下で導入され、聖武の諱「首」などが改名対象となった。
学術的争点として、『近江令』の存在について、存在を肯定する説と否定する説(青木和夫説)を提示し、著者は後者の立場を詳述している。体系的な法典としての『近江令』は存在せず、実際には「甲子の宣」のような単行法令の集成であった可能性が高いとする。
岩波新書で最新の研究成果に基づきつつ、非常に整理されており、古代史の大きな流れを掴みやすい初学者向け。宮廷での「宣(言葉)」の呪術性や、天皇の衣服が白(帛衣)から赤(袞冕十二章)に変わるプロセスなど、描写のディテールが豊富。飛鳥の都に亡命してきた百済人たちがどのような技術(城造りや漢文)を伝え、中大兄皇子らがそれにどう縋り、国を改造したのか、激動の東アジアの中で理解できる一冊。
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飛鳥時代から奈良時代に至る6世紀-8世紀に成立したとされる大和朝廷による律令制度、これを隋や唐という律令の規範に照らし合わせながら、その導入に至る経緯や国際情勢について時代を追う形で確認していく。次第に明らかになっていくその全体像が至る形は、唐風様式の受入れとその継続というものだった。
そして律令制度は形を変え意味合いを変えて、それでも形式上は廃止されることなく明治維新を迎えることになるのである。
これは、例えば天皇の即位にあたっても、江戸時代最後の孝明天皇までは唐風の装束で、つまり中国式の衣装で即位の式典が執り行われてきたことの背景である。
今、天皇の即位にあたって、「古式ゆかしい」衣冠束帯を身に着けた儀式が紹介されるのだが、実は本当のところは江戸時代まではそんなものは着ておらず、中国の服を着ていたのである。これが真の伝統と言えるだろう。
隋と唐、そして律令のなんという影響力だろうか。
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・隋唐の中国統一は東アジアに大きな影響、高句麗は泉蓋蘇文による宰相独裁、百済は義慈王による王族・重臣追放の専制君主型官司制、新羅は金春秋による傀儡女王一人に権力集中・貴族評議の集権化と集権化による国力の強化を図った。倭も蘇我入鹿が高句麗型、中大兄が新羅型の集権化を目指した。
・白村江の敗戦は激震をもたらし、庚午年籍による徴兵、朝鮮式山城の建築、防人等軍事力の強化が図られた。
・唐・新羅とは緊張関係にあったが、唐と新羅との10年に及ぶ戦争のなか、新羅が倭に接近、唐も倭との対立を緩める。
・国号の日本は、唐からみた国号であり、唐と対立した倭とは別の王朝であるとの印象操作もあったのではないか。
・律令の受容にあって、唐律は極めて緻密で体系化されていたので、量刑を軽くするなどを除き、そのまま受容した。ただし唐は礼とのセットであったのに対し、文化の異なる日本は礼をほとんど受容しなかった。
・唐令は日本の文化や政治に合わせる必要があり選択的需要や改変を行った。
・戸令の家族法は中国の宗族と礼によるものであり、日本の文化とはまったく違っていたが、逆に理想形としてそのまま継受。衣服令・鹵簿令・儀令のうち天皇の儀式・衣服等に関するものは、ほとんど継受せず、伝統的な宗教による儀式が法文化されず行なわれた。
・皇帝は律令の外にあり、律令を超える権限行使ができたが、天皇は律令の下にあり、マエツキミの群議に従った。
・戸籍・計帳・班田収授が喫緊の課題であり先行的に整備され、戸令が人民支配の規定とされた、唐令の戸令は貴族の身分把握や選挙が主であった。唐の均田制は永業田もあり、規定では一定だが実際は相違していたし、口分田も場所によって相違していたが、日本では一律に、また女性にも配分された。国造制下のアカチダ(班田)がもとか。
・唐の庸調は、正丁に課す人頭税で現物貨幣である布に換算している税金。日本の調(みつき)は布のほか鉄、のしアワビなど多くの雑物を規定しており、国造が特産物を神に献上するミツキ(みつぎもの)。庸は布・米・塩で徴収されたが、大王の宮で奉仕するトモを国造が差し出し、その生活物資であるチカラシロ。租は収穫高の3%に過ぎず、ハツホ(初穂)として神に収めるもの。
・唐は官制が先にあり、官職につくと官位相当の位が授与されたが、日本では位が先にあり、中央の豪族が貴族として五位以上につき、位田、蔭位も貴族に極めて有利。
・四等官のカミ、スケは長官と次官ではあるが権限はほぼ同等、長官二人制は一般的であり中央貴族が任官。律令以前は南朝の制度導入し三等官で実務官僚がサカン(朝鮮語の史官?)。ジョウ(丞)は漢語の助け。
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