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原子力施設の事故はなぜ繰り返されるのか? 国の政策や原子力産業の問題を問い直し、安全性の考え方、これからの技術と人間のあり方を語る。生涯をかけて原発問題に取り組み、ガンで逝った市民科学者・高木仁三郎が、壮絶な闘病生活のなかで最後に残したメッセージ。
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Posted by ブクログ
● 『原発事故はなぜくりかえすのか』 高木仁三郎 『原発事故はなぜくりかえすのか』(高木仁三郎)は、市民科学者として原発問題に生涯をかけて取り組んだ著者が、壮絶な闘病の末に残した最後のメッセージとも言える一冊。 この本は、1999年のJCO臨界事故をきっかけに、「なぜ原発事故は繰り返されるのか...続きを読む?」という根本的な問いを立てている。 - 原子力産業には、「議論なし、批判なし、思想なし」という文化が根付いていると著者は指摘。 - 技術者の倫理観の欠如、安全神話への盲信、自己検証のなさが、事故の温床になっている。 - 日本社会の「公共性の欠如」や「トップダウン型の開発体制」も、事故を防げない構造的問題として描かれる。 - 放射能の危険性を軽視する風潮や、隠蔽・改ざんの常態化にも鋭く切り込む。 - 最後には、技術のあり方や人間の責任について、未来への問いかけが込められている。
名著。私は事故が起こるまで、良いものではないけどそれなりの平和があればなんとか人間が管理できなくはないだろうと思っていました。これを読んで原発には廃炉を目指してもらいたいし、なるべく原発のないところで暮らしたいというスタンスがはっきりできました。
2000年に出版され、その直後に高木氏はガンで亡くなった。 まさに生涯かけて反原発の道を貫いた人である。 中学生にでもわかる平易な文章だが、故人の信念が伝わってくる。 読み終わって思うのは、日本の文化というのは、原発のような巨大なエネルギーを扱うには、リスク管理の面からも技術革新の面からも、...続きを読む適していないんじゃないか?ということである。原発のような危険を伴う産業には安全をどう確立するか、という問題が常に意識されるべきだが、この安全を守るということができないのである。 原発産業に特徴的な土壌、つまり、「議論なし、批判なし、思想なし」、というのはまさに日本の社会文化そのものだ。リスクのないようなところでやってるならいいけれど、原発のように市民全体の健康を脅かすような危険を伴う巨大産業でこんなことやってたら、安全を守ろうという姿勢は生まれないのである。安全を目指すには、リスクを想定しないといけないわけで、最悪の場合を想定して研究を重ねるしか安全な技術は確立できない。でも、日本のやり方は、衝突を避け、嫌なことは見ないようにするわけだから、 建設的な研究はできないのである。 日本の原発は安全とか、日本は技術大国ですとか、どれだけ言われてきたことか。 技術というのは、手先が器用なだけじゃだめなんだってことが、今回の事故でよくわかった。思考のないところに発展はない、ってことだ。 日本は戦後、60数年かけていったい何を学んだのか。結局、外側だけ作り変えても中身はそんな簡単に変わらないのだった。 高木氏の言うように、とにかく、原発は危険が大きすぎるからやめて、危険の少ない自然エネルギーにしましょう、というのがこれからの正しい道のような気がする。採算がどうのとか、いつまでも言ってないで。事故が起こったときの危険性を考えたら原発はやめたほうがいい。単純な発想だけど、それでいいんじゃないか。
今から12年前、福島原発から11年前に書かれた、高木仁三郎の遺書である。化学者の放射能の扱いに比べて物理学者の放射能の扱いがいい加減ということが他の本にも書かれていない。 3.11について卒論で書こうとする学生にとって、その原発推進組織がどのようなものであったかを知るためには避けて通れない本であろ...続きを読むう。
この本はガンで逝った市民科学者・高木仁三郎氏が闘病中に残したラスト・メッセージです。国の政策や原子力産業の問題、技術者の姿勢…。今だからこそ読んでいただきたいです。 はじめに言っておきます。今回の福島第一・第二原子力発電所がああいうことにならなかったら、僕はきっとこの本を読まなかったでしょう。先日...続きを読む、地元の新聞で著者の同級生だとおっしゃる方が、コラムで取り上げていたというのもあるのですが、この本はぜひ、読んでいただきたい文献のひとつになってしまいました。肝心の内容はというと、「生涯をかけて原発問題に取り組み、ガンで逝った市民科学者・高木仁三郎が闘病中に残した最後のメッセージ。」 ということで、僕もこの方のことはつい最近知ったばかりですが、経歴を見る限りでは、ゴリゴリの原子力関係者で、なぜ高木先生がある時期を境に反原子力の立場を貫くようになったかは残念ながら不勉強でわかりませんが、こういう本があるからこそ、『日本の原発世界一』という某ロックシンガーの歌詞のような宣伝にあーそーなんだと今まで何もしらないで電気をこうして使っていたということに読み終えたあとに少し気落ちしてしまいました。 ここに書いてあることがもし本当だとするのだったら、今回の事故は起こるべくして起こった結果なのかなと、残念ながらそんなことを考えてしまいました。しかも、それがたまたま今回の福島だったというだけで、本当は日本全国どこだってありえたのだと言うことも考えてしまいました。それでなくてもやっぱり大なり小なりもれていたんですね。放射能って。今は責任の所在を云々するときではないのかもしれませんけれど、今回のことが『想定外』だったのか?それとも『想定の範囲内』なのか。それを判断するためにどうかご自身で目を通して判断をしていただけると紹介した身としてはこれに勝る喜びはありません。
原子力産業の黎明期に携わった人だからこそ指摘出来る、現場の危機意識の欠如。ごくごく当たり前のことが出来ない原子力村の人たち。自己検証をおざなりにして来たから、福島の事故は起こったのではないのか。もう少し、生きていて欲しかった。
市民科学者として著名な高木仁三郎氏が、福島第一原発事故よりもずっと以前に人類に向かって発信していた警告の書。名著である。もっと早く知っておくべきだったと深く後悔。
闘病生活(大腸がん)を送りながら口述筆記し最後の著作となった書。「原子力の名において技術者の主体性がそがれるようなプロセスがある」「そこにはカルチャーがない」(P115)という指摘、とても興味深かった。 日本には「公共性」がないのではないか、というのです。企業の体質も、日本独自の「私小説」にみられる...続きを読む耽美的で破滅的な美のありようも、公共性のなさという点でまったく同じなのではないか、と(P106)。 本当の安全文化とはどういうものであるか、技術だけでなく、文化の面から考察した書。 「後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。」 最後まで科学者として反原発の姿勢を貫き、この国の将来を危惧していた高木さん。今の状況を見たら何とおっしゃるか…。 わたしたちは、原発がどれだけ危険なものか、いやというほど思い知った。本当の安全文化を構築しなくては。そのために一人ひとりが、考え、行動しなくては。
原発をめぐるシステム、制度、人間などについての問題点の包括的な指摘。 実際に、携わっていた著者だからこそ言える、リアルな危惧。 2011年3月11日の震災、およびそれに続く原発事故を期に、高木仁三郎が再評価されることは想像にかたくない。 ずーっと、警告し続けてきた人が、ずーっといたのである。
11年前に上梓されたこの本に書かれていたとおりのことが、今回福島で起こった。 こと原発のことだけでなく、ある意味でこの本は「日本文化論」としても読めるのではないか。 「公」の意識とはいかなるものか、今ほど一人一人に問われている時代はなかろう。 全ての日本国民必読の書。
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