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せんそう、あなたはなんですか?
この社会を生きるひとびとの多くが「戦争を知らない」世代になった今、
わたしたちは、どうやって/どのように「せんそう」を知り、語るのか――。
哲学者・永井玲衣と写真家・八木咲が立ち上げた「せんそうってプロジェクト」。
二人が見て・きいた「せんそう」の声を、記憶をあなたに手渡す、「せんそう」を語る言葉と出会い、探すドキュメンタリー。
世界中で戦争が起こっているのに、わたしたちは「せんそう」をあまりに知らない。
でもわたしたちは、本当は「せんそう」を知っている。
「せんそう」を経験している。「せんそう」を生きている。
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Posted by ブクログ
永井さんの著書が好きなので心待ちにしていました。八木さんと取り組まれている「せんそうって」プロジェクト。当事者じゃない自分をいつもしらけて感じていたけど、知ること聞くこと、その世界の断片に触れることでできることもあるのかもしれないと思わせてくれる。語り継がれることは決して無意味でないし、わたしはわたしなりに知って、気にして、少しだけ何かを変えて、そうやって「せんそうって」の問いにかかわりつづけていることをしたい。平素で、率直で、答えのないことばたちだからこそ伝わることがとても多くあった気がする。語ってくれた人たちのまとまりのなさが、想像を働かせることを思い出させてくれたり。とても良い本です。
Posted by ブクログ
「世界平和」という言葉は、日常に漂っていた。
ジョン・レノンが、忌野清志郎が、「夢は戦争をなくす事だ」と言った。
純粋に、そう言える事がカッコいいと思っていたし、「世界平和」という言葉を身につける事は、ファッションとしてイケている事だと思っていた。でも彼らは本気だったのだと思う。
彼らは夢を持つことの大切さを説いていた。
夢を叶える事ではなく、夢を持ち続ける事の大切さを。
彼らが歌う事で、世界はどれほど平和に近づいただろう。それは、世界で起きている惨事に比べれば、些細なことだったのかもしれない。
でもそれを分かっていて、彼らは夢を信じ続けたのだと、今ようやく気が付くことが出来た。
夢に大きすぎるという事はない。
世界平和の為に、もう誰も死なせないために、困っている人に親切にしたら良い、目の前の仕事に一生懸命取り組めば良い、家族や恋人と言葉を交わせば良い。
そういうささやかな営みが、少しずつ世界を変えるのだと信じて。せんそうは遠い国の、遠い昔の出来事ではない。僕らもまた、せんそうの中にいるのだから。
Posted by ブクログ
不思議な本。
「せんそうってプロジェクト」で、哲学者の永井さんと写真家の八木さんが「せんそうって」に続くことばを聞いたり、風景を写した本。
確かに、私たちは「せんそう」を知らないけれど知っている。私は戦場にはいないけれど、戦争が起きている時代に生きている。表向きはなんともないけれど、実はもう渦中にいるんじゃないかと疑っている。
岡真理さんに、「自分たちはすでにイスラエルに加担させられているのだ」と言われてハッとしたみたいに。
それはもう私の暮らしの中にしっかり織り込まれているんだ。
この本でも、「『なかったこと』にするとは、忘れることではなく、起こったことを語らないことだ」ということばが出てきた。なんだったけな。
Posted by ブクログ
戦争や平和を語る時、どうしても言葉を飾ってしまう。結局聞いたことある言葉を使い回して無理にまとめてしまう。だから、みんな同じことを言う。
このエッセイにある、実際に多くの人から見聞きした着飾らない生の声を通して、これまで私が平和について考えて生んだ言葉がどれだけ飾られたものかを実感した。
『言葉ってどういうときに生まれるのか、それは人との対話の中で生まれてくる』
とても共感。自分の中の考えって自分の世界から出られてなくて、なんだかそれって未完成なんだよね。
それを声にする過程の中で、言葉になるって感じ。
その過程で何度も言葉が失敗して、失敗して、そうしてつくられていく言葉の柱。
そう思うと、わたしは言葉の失敗を恐れてしまってる気がする。でもその失敗が本当は大切なんだろうね。
ガザでの戦争、報道でよく聞くけど、確かに身近に感じることはできない。
遠いところでの出来事。
でもその『遠い』って感覚はなんなんだろう。
物理的な距離?心の距離?
あまり知らない国だから関心が持てない?
でもそれを無理に近い出来事として捉える必要もないような。
遠いものは遠いものとして、それが近いものにならないように考えることが大事なのかな。
遠いところならどうでもいいというわけではなく。
変に身近なこととして捉えようとして、それこそ作品中にもあったように、『自分ごととして捉える』ということをよく勘違いをして、自分のスケールの中で考えてしまうことの方がよっぽど悲劇な気がする。
印象的に残ったフレーズ
『わたしいま飲食店で働いていて
いっしょうけんめい 水を運んでいる
でもせんそうになったら わたし
いっしょうけんめい
兵器とか運んじゃうのかな』
日常の何気なく行ってる行為や仕事が、恐ろしいものに成り代わったりする。
意味が変わって、人を救うはずのものが争いに加担するものになったりする。
音楽や文学、絵画だったりもそう。
自由に表現できなくなって、争いに励むことや賞賛する表現しかできなくなる。
わたしはいま聴くことができる音楽が好きで、いま読むことができる文学が好き。
これだけは絶対に奪われたくない。
そして好きな作家や芸術家が表現に苦しむ姿をみたくない。
そういえば、高校のとき、テレビの報道でとある国の最高指導者が亡くなったかなんかでその国の人民が皆、わざとらしい演技で嘆き悲しむ姿を見た。
大袈裟に天に手をかざし、土下座のような格好で頭を垂れていた。
当時、わたしには好きな人がいて、もし日本がこんな状況にあって、好きな人がこんな馬鹿らしい演技を強いられていたらと考えると、とても暗い気持ちになった。強い拒絶だった。
そして日常が恐ろしい別の意味になり変わるということは、戦時中の何気ない日常の日記や誰かに宛てた手紙が、"史料"になってしまうことでもある。
誰にも見られたくない特定の人に宛てたものがこうやって戦争史料に意味が変わり、嘆き悲しみながら見られる対象になってしまう。
その人にとっては、日常を続けようとする中での何気ない手紙や日記かもしれないのに、そこに戦争史料としての別の意味が宿ってしまう。
またその逆も然り。叔母がカラオケに軍歌を入れるのも、そのおばにとって青春の歌が軍歌だったってだけかもしれない。
日常が戦争になり変わるということ。
戦争って色を失うことだと思った。
ぼくにとっての赤は
大好きな甘いりんごの赤であって、
高原に乱れ咲くツツジの赤であって、
戦火に包まれる街の色ではないし、
腹から溢れる血の色ではない。
…まとまらなくなってしまった。
戦争と哲学、お互い遠いテーマのようで、たしかに戦争というイメージがあまりにも曖昧すぎているので、そこを哲学的に深く潜り、理解や感覚の真髄を探っていく。それはあまりない経験で、興味深く読むことができた。
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