Posted by ブクログ
2013年07月17日
ユダヤ教からキリスト教への展開を分かりやすく解説した本。歴史的な経緯をたどりつつも、そうした流れの根底にある、人間と神との関係についての「理路」を解明することに著者の主眼が置かれている。
元来、ユダヤ教のヤーウェ信仰には、ご利益宗教的な側面があった。神に対する人びとの信仰は、神が自分たちの役に立つ...続きを読むかどうかということに依拠していたのである。だが、アッシリアによるイスラエル王国の滅亡、さらにユダ王国に起こったバビロン捕囚は、ユダヤ教の神学的思想に「罪」の概念をもたらすことになった。すなわち、神に対する民の義務がきちんと果たされていないために、ユダヤ民族の苦難が生じたと考えられたのだった。こうして、ユダヤ教のご利益宗教的な側面が清算され、苦難にあってもヤーウェへの信仰を維持し続ける一神教的な態度が生まれた。
これ以降ユダヤ人には、神の前で義を果たすことが課されることになった。ところがこのとき、もしも人間の知恵によって何が正しいかを決定できるのだとすれば、そのような人間の掟を神に押しつけていることになる。この問題を克服するために、ユダヤ教徒が編み出したのが、神と民とのつながりを確保するために繰り返し神殿での儀式をおこなうというサドカイ派の方法と、律法の解釈を積み重ねてゆくことで正当化の営みを無限に続けてゆくファリサイ派の方法だった。
だが、体制派である彼らとはべつに、世俗を離れてあくまでも正しい生活に到達しようとしたエッセネ派も存在した。エッセネ派とともに体制派を批判しつつ、「神の支配」が現実に告知されていると人びとに伝えたのが、イエスだった。だが、この二つの立場を両立させることはできない。「神の支配」によって現実が包み込まれていることを認める立場からは、日々の行動についての具体的指針を引き出すことはできない。その後のキリスト教は、この問題を回避することを重視して、キリストの神格化と初期共同体を指導者とする教会の設立という方向に進んでゆくことになった。