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98年の刊行以来、多大な反響のある『子どもへのまなざし』シリーズの完結編。今回は、子どもの虐待やひきこもりなどが増えている現代社会のなか、子どもにどう接していけばいいのか考えます。また、後半では、近年よく耳にする「発達障がい」についても詳しく取り上げました。障がいのあるなしにかかわらず、お互いに助け合い共鳴し合って生きていきたい。そんな思いがあふれた本書は、育児書であると同時に、人生導きの書でもあります。
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Posted by ブクログ
『子どもへのまなざし』『続 子どもへのまなざし』に続く、三部作最後の著書です。 本作では発達障害に関する内容に多くのページが割かれており、佐々木先生の他の著書と比べて、社会のあり方や障害への見方など、考えさせられることが多かったです。少なからず偏見や誤った理解を持ってしまっていたこれまでの自分を恥...続きを読むじています。そしてその苦悩の一端を理解することが出来たことを非常に嬉しく思います。また、障害に悩まれている方の力になりたいとも思いました。 本作の中で、特に印象に残ったのは、親が重い障害を持った子どもを育てる時の心構えについて書かれた章のノースカロライナ大学のセラピストの以下のような言葉を引用されている部分です。 「親が子どもをもつ喜びに、大別して二つあると思います。一つは、自分の子どもの将来に、さまざまな期待をいだくことができるよろです。もう一つは、自分の子どもの生涯を幸福にしてあげる喜びです。そして、子どもが重い障害をもって生まれてきたような場合には、後者の喜びを中心にしていくのがよいのではないか。親としての喜びという意味では、どちらも幸福な選択だと思いますが、子どもを幸せにしてあげる喜び以上に、親にとっての大きな喜びなど、そうあるものではないと思います。」 (六 発達障害の人を理解する 親の理解と受け入れ p.247) 佐々木先生は大きな感動をもって聞いていたと言われておりますが、私も大変に共感いたしました。 障害の有無に関係なく、どんな子どもと向き合う時でも、後者の気持ちがまず来るべきですよね。そもそも、定常発達であったとしても、子どもそれぞれに得意なこと、苦手なことがあって当たり前ですし、前者の幸せを重視しすぎた時に、親が期待することが子どもの苦手なことであった場合、非常に不幸なことになってしまいますよね。 自分の子がどんな子であったとしても、この事はしっかりと心に留めておきたいと思います。
1940 376P 後半は発達障害多め 私の腐った人間としての基礎部分を改修工事出来るような本これは 金さえあれば母親二人でもいいとも思わない。子供に父性を与えられないなんて可哀想。男と女っていう全く違う生き物である父と母に育てられた方がいい。しかもほぼ女性だけのコミュニティで生きてる女なん...続きを読むて考え方偏ってるに決まってんだろ(笑) 育児書読んで凄い幸せな気持ちになったんだけど、育児ってほんと幸せだと思うよ。こんな幸せな気持ちに子供にさせてもらえるなんて。それだけで親孝行だと思った。大人だからって何も知らない子供に教えてやるとかそんなものではないし、こんな尊い経験を私みたいな未熟な人間に与えてくれてありがとうと思うだろうな私なら。 98年の刊行以来、多大な反響のある『子どもへのまなざし』シリーズの完結編。今回は、子どもの虐待やひきこもりなどが増えている現代社会のなか、子どもにどう接していけばいいのか考えます。また、後半では、近年よく耳にする「発達障害」についても詳しく取り上げました。障害のあるなしにかかわらず、お互いに助け合い共鳴し合って生きていきたい。そんな思いがあふれた本書は、育児書であると同時に、人生導きの書でもあります。 佐々木 正美 1935年、群馬県生まれ。川崎医療福祉大学特任教授、ノースカロライナ大学医学部精神科非常勤教授。新潟大学医学部を卒業後、ブリティッシュ・コロンビア大学、小児療育相談センターなどをへて、現職。専門は児童青年精神医学 近年、本来は相手の気持ちを尊重することで成り立っている個人主義の価値観が、いつのころからか、相手の気持ちを尊重しないで、自分の生きがいや権利ばかりを主張する、自己中心的な傾向を強めてまいりました。私たち日本人は日々の生活のなかで、欲求が満たされないことや自分の意にそわないこと、何か不愉快なことがあると、その理由を、自分以外の他者に、教育に、社会に、政治に求める感情をふくらませてきました。そして日本人全体が、自己中心的な人間性になってきたということも、まぎれもない事実です。 このことに関して、私は、ある高校生からこんなことを教えられました。高校で「権利と義務」という題の、パネルディスカッションがあったとき、そこに参加したその高校生は「〈権利と義務〉という言い方はだめなんじゃないか。〈義務と権利〉というふうに言い直したい」と発言したそうです。なぜかといえば「義務を果たした人間にのみ、その義務に見合った権利が与えられると思う」と、私に話してくれました。 あくまで義務が先で、その後に権利がついてまわるんだということを、高校生がいっているのです。おとなたちは権利のほうを先にいって、義務をあまりいわないのではないか。果たし得た義務に見合った権利を主張するのであり、先に権利を主張するのではない、というのが彼の言い分です。 私はあらためて考えさせられました。自分の個人主義と相手の個人主義があるということをいつも意識しながら、個人主義を生きていくというのは、とても大切なことだと思います。自分だけの個人主義を考えるのだったら、これはもう利己主義、自己中心主義です。だけど、私たちはしらずしらずのうちに、このようになってまいりました。強い者、声の大きい者、多数の者の傲慢、欲望というものが優先されて、いつも子どもの弱い声は後まわしにされています。いま、子どもにとっては受難な時代、不幸な時代だと思うのですが、みなさんは、どうお考えでしょうか。 育児に関しての心配や迷いがあったとき、その問題をどう解決しますかという質問に対しては、育児に肯定感をもっている母親ほど、まわりの人に相談します。隣近所の人に、実家の母や夫の母に、あるいは健診を受けた保健師さんや、かかりつけの小児科のお医者さんに聞いています。育児に否定的な気持ちの強い母親は、育児書とか育児雑誌に頼っていました。これらの調査結果を見てわかることは、育児という母と子の関係は、母親自身の多様な人間関係の問題が基本にあるということです。隣近所の人、実家の母、夫の母、そしてご自身の夫との関係のあり方が、わが子と向き合うときの基盤をなしているのです。 近年わが国では、幼い子どもが虐待される事例がふえています。また「キレやすい」おとなが多く目につくようになりました。新聞やテレビでは、それらの原因について、現代人が自己中心的になり、人間関係も壊れてしまい、一人ひとりが孤立して生きていることに求める論評が多く報じられています。私もそのとおりだと思っています。 OECD(経済協力開発機構)の最近の国際比較調査のなかにも、日本人は一人ひとりの孤立の度合いがきわだって大きい、世界一だという報告もあります。孤立ということは、人間関係が失われてきたということです。私も長いあいだ、子どもと青年と家族に関する精神医学の臨床にたずさわってきて、そのことを深く憂慮せざるを得ません。 では、子どもたちにもっとも人気のある役は何かといいますと、みんな、犬や猫などのペットをやりたがるそうです。昔でも、たしかに犬や猫の役はありましたが、それは、みんなが望んだ役では絶対なかったですね。親が子どもに愛情をかけることより、自分がいやされるために犬や猫などペットをかわいがっていることを、ふだんの生活のなかで感じていますから、子どもたちがペットの役をやりたいというのは当然かもしれませんね。 別の保育士の方からは「ある子をお父さん役に頼んで、ままごと遊びがはじまったのですが、お父さん役の子は〈ぼくはゴルフに行ってきます〉といって、すぐにどこかへ行ってしまった」と話していました。家庭のなかで、お父さんの存在感が希薄になったあらわれのように思いました。 私は、もう三〇年以上、各地の保育園で働く保育士の方々と、定期的に毎週どこかの市町村で勉強会をくり返しています。同時に、勤める大学などでは、保健や福祉の領域で働こうとしている若者を養成し、教育する仕事もしています。そうしますと、経済効果が直接的に見える仕事をしている人たちにくらべて、保健や福祉など、直接人間にかかわる仕事をしている人たちが、あまりにも経済的に恵まれていないことがわかります。明日の社会を担う、幼い子どもたちを育てる保育士や、長い歳月働いてきた高齢者を介護する、介護士たちの働きの大きな意味に、私たちは、あまりにも鈍感すぎるのではないかと思います。 幼い子どもはだれでも、まず親に心を許して、わがままがいえるように育てられることが大切です。けれど、それが不十分であれば、そのぶん、子どもたちは、保育園という社会でわがままをいうのです。たいていは、保育士を自分で独り占めにしようとして、過度の甘え方をします。「先生、こっちを向いて」というように、自分だけに注目してほしいという、さまざまなことをします。 もう四〇年以上も前のことですが、私は若いころカナダのバンクーバーに留学して、エリク・H・エリクソンを学びました。そのとき指導していただいたのは、精神分析学派の著名な学者であり、臨床者のカール・クライン先生でした。クライン先生はエリクソンの親友でもあり、私たち児童精神科の医者になろうとしている若い医者を前にして、エリクソンのレクチャーをしました。 基本的信頼の基盤である、人を信じる力については、「人を信じる力と自分を信じる力は、表裏一体のもので片方だけということはない。信じることができる人をもてないと、人間は自分も信じることができなくなる」ということも、エリクソンは解き明かしました。 そういう育児をしてくれる人に出会うことによって、相手と共感する感情を育てることができます。この共感性という感情があるから、相手に対する思いやりとか、相手の喜びを自分の喜びにすることができ、大きくなるにつれて、相手の悲しみ、苦しみを思いやることができる感情へと発達していくのです。 優越感も劣等感もなく、感動を自然に分かち合えますから、自分の知らないことを知っている友達に出会うことが喜びなのです。自分にできることを、できないでいる友達がいると、教えてできるようにしてあげることが、自分の喜びなのです。だから、子ども時代に友達と充実した遊びを十分にした人は、おとなに成長したとき、みんな勤勉に働くことができるのでしょう。 だから、よい人間関係をもって生きている人ほど幸福なのです。自分の存在の意味や生きる価値を強く感じることができるからです。しかも、人間関係が自分にとって満足できる人、夫婦であれ、家族であれ、隣近所の人であれ、友達であれ、職場の同僚であれ、いろいろな人とよい人間関係を、いきいきともちながら生きている人が、一番生きがいを感じて、希望に満ちて、意欲的に自信をもって生きることができるのです。 そして、人を信じることは、信じることができるような人に出会うということであり、赤ちゃんが最初に出会う、母親ないし母親的な人との関係のなかで、子どもたちに人を信じる感情が育っていくのです。子どもの人生の第一歩に、お母さんをはじめ多くの信じることのことができる人と出会って、基本的信頼を獲得したあとに、小学校に入るくらいまでに自律性と自主性というものが育てられることによって、学校に行くようになったとき、多くの友達と遊び、学び合い、今度は勤勉なものを習得する準備ができるのです。 一方、お父さんの役割というか、父性の原理は、子どもが社会で生きていくうえで必要な規則を教える、約束を教える、義務を教える、役割を教えるということです。こうでなくてはいけないということを、子どもたちに教える力を父性原理といいます。それぞれお母さんの役割、お父さんの役割があります。お母さんの役割はこうで、お父さんの役割はこうですよ、と断定的にいえるものではないと思いますが、 簡単にいいますと、「勉強しなくちゃだめだよ」というのは父性性であり、「できなくたっていいよ」というのが母性性です。 そして、幼いときに母性性が十分与えられた子どもにしか、父性性は伝わっていかないという順序があります。母性性が十分に満たされていない子どもに、父性性の社会のルール、約束、責任、義務みたいなものを、しつけによって教えようとしても、これは伝わりません。 いままでの日本の障害者基本法は、知的障害と身体障害と精神障害の三つを対象にしてきました。しかし、知的障害のない高機能自閉症、アスペルガー症候群の子ども、あるいは学習障害、注意欠陥多動性障害の子どもたちもいます。この子たちに身体障害も精神障害もない場合、従来の障害者基本法では、この子たちは障害はないということになっていました。 けれど、この子たちには、認知、学習、言語やコミュニケーション能力、社会性の発達、運動面など広い領域にわたって、発達に偏りがあるという問題があります。それは、一般の子どもたちにくらべて、年齢にふさわしい発達が劣っているところ、劣っていないところ、あるいはすぐれた能力もあるということです。 このような発達障害をもつ子どもたちが、どういうことならよくできるけれど、どういうことは苦手なのかということが正しく理解されて、それに適した保育や教育や養育をされるのであればいいのですが、現実には、発達障害に対する誤解や無理解のまま育てられてきました。その結果、この子たちはどんなに勉強ができて、どんなにいい学校に入っても、どうしてこんなことができないのかと叱られることによって傷つけられ、劣等感を強くしてしまうということがたびたびおこります。そして、自分はだめな人間だという、自分に対する否定的なイメージを強くし、思春期、青年期、成人期になって、不登校、ひきこもり、社会的不適応など、さまざまな不幸な状態に陥っていることが明らかになってきました。 なぜでしょうか。たぶん、この子たちへ不適切な対応を続けてきた結果、いまになって、いろいろなところで非社会的、反社会的な不幸な問題を残すことになってしまったのです。不登校は小中学生で約一四万人、ひきこもりは青年、成人までふくめると、その一〇倍くらいといわれています。私の実感では、そのうちの四〇%以上は発達障害の人たちではないかと思われます。非行や犯罪の領域でも、発達障害の子どもたちが目立ってきました。少年鑑別所で対応する非行少年たち、少年院に収容されている少年たちのなかにも、発達障害の子どもが多くなっているのです。 ビューティフルという言葉を英語圏の人はよく使いますが、前にもご紹介しましたイギリスの高機能自閉症のドナ・ウィリアムズさんは、「この言葉が自分にはいまだにむずかしい」とおっしゃっています。「この言葉をはじめて聞いたときのことを鮮明に覚えています。海岸で海の彼方に真っ赤に燃えて沈んでいく太陽を見ながら、ある人がビューティフルといいました。そのときに、私はビューティフルというのは、こういう状況を見たときにいう言葉だと思った」そうです。自閉症の人は、言葉と意味が一対一で、個別に対応します。もっと極端な言い方をすれば、真っ赤な夕日のことだけを、ビューティフルなのだと思うくらいの気持ちです。 続けて、ドナさんはこうおっしゃっています。「それからしばらくして、あるとき、まったく別の場面で別の人が、緑の山並みを見てビューティフルといいました。そのときに私は動転しました。どうして、これもビューティフルなんだと思った」そうです。一般の人だったら、真っ赤に燃える太陽と緑の山並みとを、ともにビューティフルというなら、共通点は何だろうと推理できると思います。 自閉症スペクトラムの人は、視覚的、具体的、個別的に意味や概念をとらえるので、見たものを見たとおりに覚えることは、一般の人よりも能力が高いです。一方、目に見えないものに意味をもたせることや、具体的でないものを理解することは苦手です。ですから、話し言葉を理解するのがむずかしいのと同じように、時間と空間の意味を理解することが困難です。 前にご紹介しました、高機能自閉症、アスペルガー症候群のテンプル・グランディンさんも、ドナ・ウィリアムズさんも共通していっていることは、「学校へ行ったときに廊下と教室の境界線がずっとわからなかった」ということです。もっと極端な場合には、校舎と運動場とのあいだの境界線、さらに運動場と外の街路との境界線の意味がわからないこともあったといっています。 自閉症スペクトラムの人たちは、興味や関心がせまいところに集中しがちだといわれます。認識する対象がせまいのですが、そのぶん、関心の示し方に強い傾向があります。ですからおとなになったときに、一芸に秀でたり、特別な領域の問題に高度な専門性を発揮する人になることも、けっして少なくありません。ものの細部にこだわる、全体を見ることができない、同時総合的に視野にとらえることができない、これらは自閉症スペクトラムの特徴です。 オランダの高機能自閉症の人で、ヴァン・ダーレンという人がいます。ものの細部にこだわる、全体を見ることができないことについて、「私はものごとの認識の仕方が、ほかの人たちとはちがうということに気がついています。たとえば、目の前にハンマーを差しだされたとき、最初からハンマーだということはわからないのです。なぜなら、自分はなにごとも全体ではなく細部から考えるからです。まずは方形の鉄のかたまりだけに目がいき、そのつぎに、そこに木の棒が横たわっていることに気がつきます。鉄のかたまりと木の棒がつながった性質のもので、全体の形が統合的に理解されるのはそのあとで、その名称のハンマーにたどり着くことができるのは、さらにまた、そのあとのことなのです。 マクターゲット先生からは、カナー先生の教えでもあるといいながら、いろいろなことを教えられました。その一つに、「人間は自分の幸福を追求し続けるだけでは、けっして幸福にはなれない。本当に幸福そうにみえる人をよく観察するといい。その人はかならず、だれかほかの人たちを幸福にしながら生きている」というものがありました。 人間は、あの人(あの人たち)を幸福にしたいと、真に願って、そのための努力をしながら生きなければ、けっして自分の幸福を得ることはできないのです。ですから、幸福になるための術は、理屈だけならば簡単です。幸福にしたい人をもつなり、探すなりすればよいことになります。自分の目の前にいる家族を、本気で幸福にしたいと思って、努力を続けることができれば、その人はかならず幸福なのです。 地球上の各地で飢えている子どもたちを救いたいと、強く思い続けることができたら、幸福になれるのです。しかし人間は、家族にしろ世界の各地の人々にしろ、その人々のことを強く思い続けることができなくて、つい自分の幸福だけを求めがちになり、そして、幸福になれないでいることが多いのです。私たちは自分の喜びを、喜びをもってむかえてくれる人をもたなければ、真の喜びにならないでしょう。同時に悲しみも、自分の悲しみのように分かち合ってくれる人がいると、本当になぐさめられるのです。幸福とは分かち合うものであるということを、あらためて考えさせられる言葉です。 子どもに対する過剰期待の感情には、おとなたちの自己愛的な欲望もあるでしょうから、子どもたちへの愛情だと思っている私たちおとなの気持ちは、その中身には複雑なものがあります。けれども、レオ・カナーは「自閉症の子どもだけではなく、すべての子どもについて、治療や教育は、現状を肯定することからはじまる」といっています。 相手に対して愛情もないのに、いいたいことをいうのは自己愛です。相手のためにいっているのではなくて、そういわないと、自分のほうが気が済まないからいうのですね。どんなに常識的なことをいっても、相手は素直に聞いてくれません。この子はなんと憎たらしい、いやな子だと思っているときには、何もしないほうがいいのです。レオ・カナーの言葉を借りればそうですが、比喩的にお聞きください。でも、レオ・カナーはすごい人だと思います。 患者さんは、治療者から大切なことをしっかりいわれるときより、自分のいうことを聞いてもらっているほうが、ずっと愛に包まれているように感じるのです。人というのは、そういうものです。こんなとき、どういってあげたらいいかと思うことがあっても、うまくいえなかったら、静かに聞いてあげればいいのです。聞いてもらう経験が不足した状態の相手に、どんなにこちらが正しいことをいっても、それは通じません。ですから、どんなことがあっても聞くことからです。聞くことからはじめれば、かならず活路は開けてくるということを、バンクーバーでの経験で教わりました。 過日、経済的には非常に貧しい、ブータンという国の記事が新聞にでていました。ブータンの国民一人当たりの年収は、日本にくらべれば五〇分の一にしかならないのに、国民の九〇パーセント以上の人々が、日常生活を幸福だと答えているというのです。その理由の一番は、村中の人々がおたがいに、助け合って生きることができているからだというものでした。あらためて、人間は豊かな人間関係のなかで生きなければ、けっして幸福にはなれないということを思いました。同時に、七五年近くを生きてきて、第二次世界大戦の敗戦を経験し、疎開先の村で貧しさのどん底の子ども時代を体験してきた私には、世界有数の経済大国に住む、いまの自分を幸福と受けとめてよいものか、複雑な気持ちになるのです。 もう一つ、近年の重要な主題は、発達障害スペクトラム、自閉症スペクトラムといわれる子どもや人たちのことです。それらの人が数多く、私の周囲に来られるようになりました。発達障害は、発達が遅れている人たちではなく、広範な領域で発達が不均衡なのです。あるいは特定の領域については、ふつうの人よりもすぐれた機能をもっている人も大勢いるのです。
1冊目の本かと思いながら読んだら3冊目のやつだった! と思ったけどぜんぜんすんなり入ってくる 赤ちゃん〜大人になる家庭での成長変化について詳しく書かれていて、すばらしい本だと思った 赤ちゃんはまずお母さんと自分との区別がつかないところから、愛を与えてお世話してくれる人がお母さん(自分とは別の人)...続きを読むである事を知る 自分を大切にされたことがない人は自分を大切にできないし、他人を大切にすることもできない 学齢期にたくさん遊んだりケンカしたり社会性を身につけないと、勉強ができたとしても、仕事(社会の中での役割)ができる人にはならない まずは子どもの欲求をひたすら満たすこと 過保護はどれだけしてもオッケーで 過保護と過干渉はちがう 子どもをとりまく環境が変わってきていることも 重視しておられた 母がしっかりしないと、と思う 夜泣きしない子がいい、オムツ外れる子がいい、自己愛から子どもに求めすぎている 最後は発達障害にも多くのページを使われており、知らないことばかりで驚いた まだ自分は知っている方だと思っていた 恥ずかしい 発達が遅いとか低いとかではなく脳の機能にバラツキがある状態であること 彼らの世界に歩み寄る優しさが必要で、それはどんな子どもや相手でも実は同じである どんな相手でも子どもでも敬意をもって接しようと思う 佐々木先生の愛の深さにいつも 心が優しくなれるし、なんかぎゅーっとなるし 1冊目2冊目すぐ読まねばと思った
今読んでも参考になります。著者の鋭く優しいまなざしに 敬意を覚えます。機会があればまた読み返すでしょう。
親がまず、孤立してはいけないということ。 それによって、子どもを心から可愛がることができるし、望んだことをしてくれてる、と愛情いっぱいに育った子どもはきちんとその後社会に適応でき、そのまた子どもに愛情を注いであげることができる。 シンプルだけど大切なことが、優しく書かれてます。
こどもが望むことをしてあげる、のぞむような親になる、親でいることのなんと難しいことか。だからこそ常に忘れずに心がけたい。親への厳しさと、だけどそれ以上に優しい温かなまなざしにふれて涙が出そうになる。
これは読んで良かったと、思える本だった。 今教えている学校は、授業を基本的に英語で行うところなのですが、たまに日本語を使うとき、私は丁寧語を使います。 いや、基本そうでしょ、という人もおられるかと思いますが、周りの人にびっくりされたんですよね。 「子どもは別に丁寧語というわけではないのに、先生...続きを読む(私)は首尾一貫して丁寧語なんですね。」と。 この本も似ている。語り口が丁寧で優しくて、ずっと聞いていたくなるような、読み進めていきたくなるような。 できるだけ、耳に心地よい日本語に、触れてほしいと、思うのです。 生まれてきてくれただけで、本当に素晴らしくありがたいことなんだ。 この心持を忘れがちな今に、優しく語りかけてくれる「大人」が、まだいてくださることに、私は頭が上がりません。
まなざしシリーズ完結編。前の2冊から10年ほど隔たって、2011年1月出版。 発達障害スペクトラムのお話がかなりの部分を占めている。発達障害の方にとって「無理解で熱心な人」がいちばん困るという。彼らの得意なこと、苦手なこと、世界の捉え方の違い、私はほとんど知らなかったので勉強になった。 障害者であ...続きを読むっても、良き理解者に恵まれて輝いている人はたくさんいる。反対に、身近な人に受け入れてもらえず、自分を大事にできず、不幸な状況に追い込まれてしまうケースも少なくない。 でもそれは障害者でなくても人間みんな同じこと。著者が繰返し説いている「どんなあなたでも愛している」という母性愛、これを受けとることなしに、人間は成長できない。 「親の愛だけじゃダメ」という話も興味深かった。両親は子どもの将来を思って、こうあってほしいあれができてほしいとどうしても期待してしまう。その出所は確かに愛情ではあるが、期待は「今のあなたには満足していない」というメッセージになってしまう。だから親だけでなく、おじいちゃんおばあちゃんや地域の人など、なるべくいろんな人から愛されたほうがいい、という話。 (まあこういうことは第一巻にも書いてありましたが。) それから、エリクソンのライフサイクルモデルというのの話や、著者の生い立ちや留学時代の話など。
最終巻だと思うと寂しくなるぐらい、示唆に富んだシリーズでした。完は発達障害について主に書かれていますが、そこから広がる不偏性のようなものも感じられました。お勧めです!
わたしのバイブルである「子どもへのまなざし」完結編です。 今回は、自閉症スペクトラムについてが中心でした。 もしかすると、私たちは、「わがまま」という言葉の意味そのものを考え直さなければならないのかもしれません。 なんか、当たり前のように言われて、常識として流布されている素人の教育が、実はわたし...続きを読むたちの子どもたちを生きにくくしているのかもしれない。 最近、わたしがよく思っていることは、「他人はかわらない。変えることができるのは自分だけ。」ということ。 他人を変えるのに、汲々となるのではなく、変わるべきは自分かも。 もしくは、どうしてもうまくいかないならば、その人からはなれるというのが正解のような気がします。
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