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アフリカ哲学は、北アフリカのイスラム文化に基づく哲学、サハラ以南地域の哲学、アフリカ大陸の外で発展したアフリカーナ哲学に分けられ、アフリカーナ哲学はカリブ海の島々で発展した哲学も含む。本書は日本初のアフリカ哲学の入門書として、サハラ以南のアフリカ、カリブ海諸国で展開された哲学、アフリカ大陸における哲学に影響を及ぼしたアメリカやヨーロッパでのアフリカ人の哲学を解説。これまでの哲学を相対化し、複数の世界に共通する人間の思考のあり方を解明する試み。
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Posted by ブクログ
学者でもない、今年齢70になろうという引退古ぼけ老人が、今更哲学でもあるまいと思っていたが、新聞に載った本書の書評で惹きつけられた。一気に読み終えた。名著であると思う。 奴隷制に関する本を何冊か(本書で一カ所言及されており、私が尊敬してやまないエリック・ウィリアムズの『資本主義と奴隷制』『コロンブス...続きを読むからカストロまで』のほか、オルランド・パターソン『世界の奴隷制の歴史』、布留川正博『奴隷船の世界史 』、デイヴィッド・エルティス『環大西洋奴隷貿易歴史地図』、植村邦彦『隠された奴隷制』、デヴィッド・グレーバー『負債論』など)を読んできて、もはや植民地主義や人種差別、あるいは奴隷制についての言及や考察なくして紡がれる哲学など、自己欺瞞そのものではないかと漠然と感じていたが、本書により、それは確信に変わった。 本書で取り上げられているフランツ・ファノンやアミルカル・ピサロ・カブラルは、私の記憶では半世紀近く前に名のみを知る思想家に過ぎなかった。 また、本書で取り上げられているクワメ・ンクルマに至っては、やはり半世紀近く前に読んでいた新聞の国際面で小さく取り上げられるアフリカの一政治家として記憶するのみだった。 本書ではまずはじめに以下のようにファノンを紹介している。 「ファノンは、日本で最も知られている現代のアフリカの哲学者であろう。著作はすべて翻訳され、海老坂武に代表される優れた研究が積まれている。 ………………………………… 若年期にファノンに最も影響を与えたのは、ネグリチュード運動の主導者であり、マルティニークで直接指導を受けたエメ・セゼールである。……したがって、セゼールの哲学の内容に感銘を受けたというよりは、反植民地主義的態度を示す教師としての存在に影響を受けたことであろう。」 (p.248)。 恥ずかしながら今回初めて出くわすことと相成った、エメ・セゼールとは何者か。 「後のネグリチュード運動を扱った章で詳しく論じるフランス海外県マルティニーク出身の詩人であり、政治家、哲学者であるエメ・セゼールによれば、植民地化とは、暴力的欲望そのものではなく、その思想的な正当化のことである。それを行ってきたのは、聖職者であり、思想家・哲学者であった。つまり植民地化とは、とりわけ思想的・哲学的な活動なのである。 しかし、なぜ、ただ端的に支配と略奪と殺戮を行わずに、それを正当化する言説が必要とされたのであろうか。これは、セゼールの言う西洋の『倫理的二面性』ゆえにである。一方で、啓蒙主義の思想に見られるように、自分たちの同胞とみなす人間たちには、権利を認め、平等と公正を誓う。他方で自分たちよりも「劣る」人間にはそれらを認めない。だが、実はその区別が危ういことにも気づいているので、自分の暴力的欲望を発揮してよい対象を割り出すために線引きをする。 これこそがまさしく差別である。こうして植民地化は、人種主義を正当化の根拠としてきた。」 (p.102-103) ウィリアムズが人種差別が奴隷制に由来するものだと断じたのと同様、セゼールは植民地化が人種主義を必要としたという。 著者の河野哲也は、セゼールらの人種主義論を手がかりに、また、他のアフリカの哲学者たちや同じく西欧内部の哲学者たちの批判的言説を紹介しながら、西欧の啓蒙主義期の哲学者たちが展開した差別的な人種主義論を見ていく。中でもジョン・ロック、デヴィッド・ヒューム、イマニュエル・カントについて、詳細に、かつ手厳しく批判している。連中が好んで使う「普遍性」とは、有色人種をあらかじめ排除した偏狭性が前提とされているのだ。 余談だが、このことはマルクス・エンゲルスにも当てはまる。お二人さんがやりとりしていた書簡の中で、マジャール人(=ハンガリー民族)を、早晩滅びゆく弱小民族と断じていたことを、良知力は名著『向こう岸からの世界史』の中で指摘している。 資本制生産様式の再生産機構を明らかにした二人だが、同時に資本主義の「文明化作用」というのを、誠に素朴に信じ、かつ擁護してもいたのである。 余談ついでにもう少し付け加えておこう。 マルクスが『資本論』の中で明らかにした労働者に対する搾取は、表向きは資本家と労働者間の法的に対等な契約に基づく雇用関係のなかで遂行される。では、原初の資本蓄積はどのようになされたのか? マルクスが与えた回答は、イギリスで広範にみられた土地囲い込み、すなわちエンクロージャーであった。この法的に平等な契約関係などどこ吹く風の資本の本源的蓄積を、彼は資本主義が続く限り支配階級の脳裏から去らない「原罪」となるであろうとした。 これに咬み付いたのが本書であまり触れられていないエリック・ウィリアムズである。 「奴隷制、奴隷貿易も原罪になりゃしませんか、マルクス先生?」というわけである。『資本主義と奴隷制』の翻訳者はあとがきの中で、ウィリアムズが『資本論』などを出している老舗の左翼系の出版社に、この原稿を持ち込んだところ、出版を断られたというエピソードを紹介している。ウィリアムズは、奴隷貿易や奴隷制廃止に尽力したイギリスの政治家ウィリアム・ウィルバーフォースについても言及しているし、イギリス政府が奴隷貿易を続ける他国の船舶の監視をしていたことにも触れているのだが…。 ちなみに、『奴隷船の世界史 』では、奴隷貿易で利益を上げた資本家に転化していったのかについては、未だに論争があって決着がついていないとのことである。詳細は述べられていないが、ピンときた。 奴隷貿易は博打にも似た、いわばハイリスク・ハイリターンの儲け口である。 こうして稼ぎ出したあぶく銭を、土地や機械に投資し(不変資本)、このような生産手段から切り離された労働者に、労働市場の相場に規定される賃金を支払って生産に従事させる(可変資本。これには次世代の潜在的労働者である彼らの児童の教育費も含まれるはずだが、現代日本ではこれまでが危機的状況にある!)。そして出来上がった商品を市場に投入する。 マックス・ウェーバーのいうプロテスタンティズムの精神や、渋沢栄一の論語と算盤の素養が必要とまではいわないが、そもそも予測不可能なリスクを伴うような奴隷貿易とは違い、かなり用意周到な計画性を要求されるのは間違いない。 せいぜい土地を購入して、それをそれこそ資本家に貸し出して地代を得る、いわゆる貴族に転化するのが関の山だったのではなかろうか。 閑話休題。 西欧思想の人種的偏狭性を先駆的に明らかにしたエメ・セゼールがアフリカ哲学史上、傑出した思想家であることがわかる。中でも、彼の著書『植民地主義論』で展開されているナチズム論は、衝撃的である。 「さらにセゼールは、ナチズムとは、植民地化をヨーロッパ人自身に当てはめたものに過ぎないと言う。ヒトラーは「我々が希求するのは平等ではなく支配である。必要なのは人と人との不平等を廃絶することではなく、それを拡大し、ひとつの法たらしめることである」と述べたが、白人たちがヒトラーを許さないのは、ヒトラーの人間に対する罪ゆえではない。それまで、アラブ人、インド人、アフリカ人にしか使われなかった植民地主義的なやり方をヨーロッパ人に適用したからである。白人は、ナチスと同じことを長年にわたって非西洋人に、とりわけアフリカ人に行ってきた。白人はアフリカを文明化などしなかった。」 著者の言う通り、ナチズムのユダヤ人虐殺を嘆き悲しんで見せる西洋人の態度が欺瞞に過ぎないというのである。息をのむような、原理的かつ痛烈な批判である。 アラブ文学が専門の岡真理によれば、今も続くイスラエルのパレスチナ人に対する蛮行は、ハマースによるテロリズムに端を発するものではなく、第二次世界大戦直後から70年近くにわたって続く、イスラエルによる、シオニズムという名の、パレスチナの植民地化なのだという。そして当時の国際連合はそれにお墨付きを与えた。以後、国際法違反であるとして、何度も出された国連決議を、イスラエルは無視し続けてきた。アメリカの後ろ盾に支えられて。アメリカだけではない。ドイツを筆頭とする西欧諸国は、ユダヤ人虐殺の負い目から、イスラエルの絵にかいたようなジェノサイドを正面から批判できないでいる。反ユダヤ主義との批判を恐れて。 さて、当時の西欧の哲学者たちは、アフリカの哲学に対してどう向き合ったのか。 著者は、フランツ・ファノンの『地に呪われたる者』で展開されている暴力論を取り上げる。 「……植民地主義者の妨害にもかかわらず、民衆の絶対的実践は空気のように国境を越えて広がり、あちこちで植民地体制を吹き飛ばしている。焦燥に駆られた原住民が暴力を振りかざして相手を威嚇するのは、彼らが、その時代の例外的な性格を意識して、それを利用しようとしているからである。暴力というと、人は性急すぎるといいたてるだろう。しかしこれまで被植民地化された原住民は、のろまで、怠惰で、現状に甘んじるばかりの運命論者だと言われ続けてきたのである。」(p.258) 「ファノンの暴力は、暴力的な植民地主義が生み出したものであり、暴力が生み出した暴力である。したがって、それは、植民地支配へのカウンター・バイオレンスである。ファノンは暴力そのものを讃えているのではない。抑圧者によって被抑圧者の内部に蓄えられた暴力が放出され、被植民地化された人々の身体に鬱積したエネルギーが抑圧者の身体に向けて解放されない限り、原住民は、自分に戻ることができず、恐怖や恨み、恐怖(ママ)、憤激、苦悩、悲嘆を癒すことができないというのである。」(pp.258-289) 用心深く、慎重に、抑制された調子で、著者はファノンの暴力論を支持している。しかし、著者が次に引用するファノンの論調は楽天的で明るく、ある意味であけすけな暴力礼賛である。 「個々人の水準においては、暴力は解毒作用を持つ。原住民の劣等コンプレックスや、観想的ないし絶望的な態度をとり去ってくれる。暴力は彼らを大胆にし、自分自身の尊厳を回復させる。……暴力による天啓を受けた民衆の意識は、すべての和解に反抗する。」(p.259) 本書で紹介されるジャン=ポール・サルトルは、『地に呪われたる者』に「序」を寄せており、当時としてはファノンの暴力論の最良の理解者であったようである。 「サルトルによれば、植民地におけるカウンター・バイオレンスは、以下の条件のもとで正当化できる。」(p.261) その条件とは何か。 1. 暴力は暫定的な使用にとどまり、永続的に人間を隷属させるような体制を構築するために使用されないこと。 2. 暴力は、最初から容易な手段として用いられてはならず、他に選択肢のない最終手段として用いられるべきこと。 3. 一般大衆の支持が得られていること。 4. 必要な範囲にのみ限定されること。 5. 暴力は人間性を欠いたものとして現れるため、その真の目的を隠さないことである。 あまりに理想論にすぎるのではないか。 「植民地におけるカウンター・バイオレンス」である以上、それは宗主国の国家権力により、かの地に生きる無防備な民衆に対して行使される圧倒的な暴力との相関によって評価されるべきだろう。 1.について。 一体、暫定的に暴力を使用した植民地宗主国など、過去に存在したのだろうか。 2.について。 自国の植民地とするために、被植民地に対して慎重に暴力を行使した宗主国があっただろうか。被植民地に対して行使される、宗主国の国家権力が独占する暴力は、最も安易でコストのかからないものとして、採用されたのではなかったか。 3.について。 植民地解放を担う勢力や組織に「テロリスト集団」というレッテルを貼り、マスコミなどあらゆる手段を用いて一般大衆との分断を図ることは、宗主国によって採用される常套手段であった。 4.について。 一体、必要な範囲に限定して暴力を使用した植民地宗主国など、過去に存在したのだろうか。 5.について。 著者河野は、セゼールのいう「植民地化」の本質について要約している。「一五一一年にアステカ王国を崩壊させたエルナン・コルテスも、フランシスコ・ピサロも、自分たちの略奪と殺戮をなにか高邁な目的のための先駆けなどと気取りはしなかった。植民地化とは、その後にやってきたおしゃべりな人間たちの衒学的態度から生まれてくる。キリスト教=文明、異教=野蛮、白人=優越種、黒人=劣等種という図式を立て、それを現地の人間に信じ込ませ、自らも信じ込むことこそが植民地化の本質なのである」(pp.223-224)。セゼールによれば、植民地化とは暴力的欲望そのものではなく、取りも直さずそれを正当化する思想的・哲学的活動なのである。暴力によって自らを解放しようとする者たちに向かって、誰が「真の目的を隠すな」などと説教できるのか。 しかしながら、このサルトルの暴力賛美を、ファノンのそれを凌ぐと批判した哲学者として、本書で紹介されているのが、『暴力について』の著者、ハンナ・アレントである。 アレントに対する著者の評価は厳しい。 「アレントの論文には、植民地化された人間たちの苦悩や憤怒に共感する叙述はほとんど見当たらない。植民地主義において行使され続けてきた暴力にはほとんど無関心なままに、権力や暴力に関する一般的な関係について述べるだけである。また、アレントは、暴力と権力を区別し、「暴力は、権力が危うくなると現れてくるが、暴力をなすがままにしておくと最後には権力を消し去ってしまう」と述べ、権力が機能しているときには、暴力が生じていないかのように思われる発言をしている。」(p.262) 『全体主義の起源』や『エルサレムのアイヒマン』の読者でしかないが、アレントが権力(国家権力と言い換えてもいいはずだ)に対してこれほど無批判的かつ無防備に信頼を寄せていたとは、正直なところ驚いた。宗主国が植民地に対して振るう権力が正常に機能していれば、確かにその住民たちの暴力は抑えられ、表面的には平和と呼べる状態が保たれるだろうが……。 若い時分に名画座で「アルジェの戦い」という映画を見た。宗主国フランスからの独立を達成するために戦うアルジェリア民族解放戦線の闘いを描いたドキュメンタリータッチの映画だ。新しく戦闘に加わるメンバーに、組織の説明をする冒頭の場面がある。こんな説明だったと記憶する。「君がこの組織内で知っている人物は2人だけだ。君に指示を出す人間と、同じ人物から指示を受けて君と協力して働く人間だけだ。フランス当局に捕まったら、一日だけ拷問に耐えろ。その後は君が知っている二人の素性を明かして構わない。あとはこちらで何とかする」。宗主国フランス当局の弾圧が、いかに容赦のない苛烈なものだったのかが分かる。 アフリカ奴隷の末裔であるフランツ・ファノンは、フランスの最高学府で学んで精神科医となった人である。フランス語しか話せなかった彼は、このアルジェリア民族解放戦線のスポークスマンとして働いた。 アレントの批判も、彼を支持するサルトルの論評も、彼の心には響かなかっただろう。 本書は、アパルトヘイト終結後に、南アフリカでネルソン・マンデラやデズモンド・ツツにより組織された真実和解委員会について考察している。アフリカの多くの語族の間で広く知られているといわれる「ウブントゥ(ubuntu)」という、広く「共同性」を意味するキーワードを手がかりにして(余談だが、マイクロソフトさんのWindowsが嫌いで、基本的にただで使える貧者のためのオペレーティングシステム、ubuntu linuxを使用しているのだが、この語がアフリカの地に自生した共同体に根を持つとは、今回初めて知った)。 この真実和解委員会に対する、アルジェリア出身のジャック・デリダの批判についても記述されているが、詳細は本書に譲る。 ここでは、エドガール・モランという、私にとって懐かしいフランスの社会学者(読みたいと思って未だに果たせていない『オルレアンの噂』の著者)について述べている個所を引用して終わる。 「エドガール・モランが指摘するように、アメリカの先住民について言えば、その略奪や殺戮を行った者たちは一度も懲罰を受けていない。奴隷制度で人道に反するような扱いを受けたアフリカ人たちはその罪人たちが処罰されるのを目にしたことがない。懲罰や赦しは、過去の事実を帳消しにはしない。問題は、その事実を公的なものとして共有することなのである。 以下のモランの発言は、マンデラとツツが行った事業に対する西洋からの最も説得力ある評価に思われる。「私が思うに、犠牲者には、自分を苦しめたもの以上に、賢明かつ人道的にあらねばならないという義務があります。アフリカ人とは、偉大であるべき義務を背負わされた人々である。」(p.304) 毎日新聞の本書の書評者が言う通り、この手の本が新書で読めてしまうとは驚きである。 なお、星4つにとどめたのには訳がある。本書冒頭でイスラム哲学については、専門外であるため言及していないと断っている点だ。 イスラム哲学を植民地主義との関連からとらえる。これは魅力的なテーマだ。 これはコーランをアラビア語から訳した、イスラム哲学の巨人、井筒俊彦も手を付けていないように思われる。 しかし、井筒の師にあたる大川周明は、あまり知られていないが、コーランを英語版から訳して初めて日本に紹介した先駆者であり(『古蘭』。『回教概論』の執筆者でもある)、かつ欧米植民地主義のラディカルな批判者でもあった(『復興亜細亜の諸問題』)。 もちろん、大川は1930年代初期に陸軍中堅将校と結び、3月事件、10月事件に関与し、5・15事件では武器や資金を提供した黒幕として暗躍した。 さらには、敗戦後、民間人ではただ一人A級戦犯として東京裁判に召喚された人でもある。この裁判の主役、東條英機の背後でその後頭部を平手でピシャリと叩いた実写映像は、衝撃的であると同時にどこか滑稽でもあった。 井筒俊彦は自分の過去について多くを語らなかったそうであるが、大川のこの顛末が大いに影響しているのではあるまいか。 最近知ったことだが、井筒は『空海の風景』の著者、司馬遼太郎との対談で師の大川について言及しているそうである。 そんな世迷い言に酔いながら、本書『アフリカ哲学全史』は、いずれ「アジア・アフリカ哲学全史」に発展的に解消されるのではないかと、淡い期待を残り一つの星に込めた。
ズブの素人には拷問のように難しくてチーン 読みたいところだけ読みました アンチ西洋中心主義な感じで面白かったよ (この本を読んで感想がアンチ西洋主義なのは筆者も泣いていると思うが初めて踏み入れたジャンルで細かい内訳を理解するほどのレベルには到底至らないのよ…解像度はこれから上げていきます) 感...続きを読む想らしい感想が出てくるほど読めてはいないんだけど、 「アフリカの話になるとだいたい自然科学か言語学、民俗学の話ばっかり!そーゆう土着文化の研究みたいな考えからは一旦離れて!」て終始不満そうなのが大変良かった 普通に読み終わらなかったのでもう一回借りる予定 それはそうとこの本で一生懸命読むよりWikipediaで読んだ方が早い内容(政治活動家とか)も結構あったと思うので、そっちで予習してから読もうかな まずは以下あたりを調べ学習していきたい。 クワメ・ンクルマさん ネグリチュード運動 エスノフィロソフィー
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