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Posted by ブクログ
コロナ禍の春休み。中学入学を控えるサッカー少女の亜美とその叔父で小説家の私は、利根川沿いを歩き、千葉の我孫子から鹿島アントラーズの本拠地へ向かう。私は風景を言葉へ変換し、亜美はボールを蹴り続ける。歩く、書く、蹴る。オムライスを食べて、歩く、書く、蹴る———
日本でのコロナウイルス感染拡大による政策の影響で、外に出る人はほとんどいない。そんな中外の世界を旅する二人の様子は、比較的現実味のある夢を見ている気分になる。旅の中で遭遇するのは、常々動きを見せる自然や動物と、歴史を感じさせる人工物。語り手がペンを走らせて文字に変換された世界と、亜美と語り手が織りなす微笑ましい会話には大きな差異が見られるが、それもまた互いの良さを引き立たせ合っている。
語り手による情景描写は、ひたすらに自然を描く。そこに確かに在るものを表現していく様子は語り手の文章に対する拘りが感じられ、とても好み。人工的な自然(餌を用いて鳥を誘き寄せる)は描写せず、生きているものたちを巧みな表現で摘み取る。生命を感じさせる文体は、私の目の前にないものを、あたかもあるように錯覚させられる。
p124から始まる、サッカー大好き少女の亜美による「おジャ魔女カーニバル‼︎」の歌詞の解釈についての話の後、実際に聴いてみたら少し涙が出てきた。元の曲、歌詞がいいのは前々から知っているし、好きだった。だけど、私は魔法が使えたらいいのにな、驚きだけどそれって最高じゃん、といった空想の状況を謳ったものだと思っていた。しかし、亜美の解釈は違う。実際には魔法は使えないという事実を念頭に置いた上で、魔法みたいにサッカーがうまくなるためには、やっぱり練習しかない。教科書見たって書いていないし、子猫に聴いたってわからないけど、その事実は揺るがない。だけど、亜美はサッカーができればそれでいいし、それがいい。テストは三点で、パパママに怒られようとも、笑顔で居続けられる。年中無休で! なんとも前向きな捉え方で、自分にはできないと思う一方で、出来ならいいのになとも思う。魔法みたいに自分の考え方を変えることなんてできないけど、好きなことを目一杯し続けられたらそれだけで最高だな。だから今、読書をし続けている現実が魔法みたいだと思うし、年中無休でスマイルやってます。
馬乗り馬頭観音、排水門の側のカワモ。この旅の中で語り手は、いくつもの生と死について思案する。死はありふれたものだと知りながら、何か失われたように感じる。それは生きることが何事かをもたらすという思い上がりなのか。本来死の後には何も残らない。そこにあったはずのものは姿を消し、あたかもはじめから何もなかったかのように振る舞う。しかし、それを文字に残していたら? 石碑として形あるものを残していたら?
今あるものを保存し続けるためには、それ相応の行動が必要で、言葉を紡ぎ続けなけらばならない。私たちがこの物語を受け止めた後、すべき行動は何なのか。ひたすら悲しみに体を任せることではない。再び旅の記録を読み返し、そこにあった世界を実感し、私たちが住む今を何かに変換し、先々へと今をつなぐことなのではないか。
本書はただのお涙頂戴話なんかではない。私たちの未来を守るため、未来の後悔をなくすため、本当に重要なことを訴えかけてくれる。私たちへの優しさが溢れてやまない一冊。
Posted by ブクログ
あることをきっかけに手に取った。作者の本は以前『十七八より』を読んだことがあるが、ピンとこなかった。この本は、途中までとても楽しく読んだ。それは、この本の舞台である利根川沿いや神崎のあたりを岩本素白の随筆を頼りにかつて歩き回ったことがあるからでもあり、柳田國男の書いたものに親しんだ過去があるからでもある。過去の文学作品を引用しながら少女との何気ない日常を書き綴るその手法は、かつての堀江敏幸っぽくもあるなあ、と思いながら読んでいた。オビに、大塚真祐子という文筆家・元書店員の方の「読み終えて、声をあげるほど泣いた」というコメントがあり、泣くために本を読む習慣のない私にはこのコメントがなんの効果を狙ってオビにのせられたのかさっぱりわからないが、作中に登場するある人物が成長した場面で、ああ、しいていえば、ここが泣くべき場面なのかなあ、と思った。でも、読み終えた今、たぶん、大塚さんが声をあげるほど泣いたのは、別の人物の辿った道についてなのだろう、と思う。うーん。私は、この本は、結末さえなければ大好きな一冊になったんだけどなあ。
Posted by ブクログ
人の歴史が、その本質として土地と切り離せないことを思い出させてくれる小説。人が生き、そして死ぬ積み重ねを「歴史」とするならば、「家にいること」が称揚され、そこから切り離されたコロナ禍は異常な時期だったと言える。そんな中、あえて肉体の確かな感覚を伴って歴史を歩き、「練習」を重ねる姿は、いっそ清々しい理想型を感じさせる。しかしそうした爽やかさの陰には馬頭観音初め死の影がちらつくのであり、我々はコロナ禍もまた、死の匂いを帯びた季節であったことを思い出す。
惜しむらくは結末。芥川賞の選評にあざとさが指摘されていたが、個人的には「こうでもしないとこの物語は終わらない」という感じがする。むしろそれだけ生命感溢れる作品だっただけに、それにとどめを刺し、終焉をもらたす方法は慎重であってほしかった。
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