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「速度がおそいほど経験が拡張されるという人生観」は、成人期をそのように過ごしてきた人たちの「そうであってほしい」という願いなのではないかと思った。確かに、「ぼくたちにとって速度は『実存』」なのだろう。
毎年夏の原爆特集は、やはり難しい。
いつの時代も弱者に皺寄せがいき、その時々の社会が投影されるのだと感じた。
どこか胸の奥、大切な部分が満たされないような寂しさや、刹那的な感覚が残った。もしかすると、“誰か”を演じることでしか生きられなかったのかもしれない。それは社会からはみ出したからではなく、幼い頃の経験から身につけた、彼なりの自分を守る術だったのではないかと思う。
第四章の「不良少年入門」はとても共感できた。特に「5 自殺のライセンス」には、思わず「本当にそうだな」と頷いてしまった。
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初読み寺山修司。すっごくおもしろかった!増田セバスチャンさんの影響で手を出した寺山だが、ここまでおもしろいとは。太宰を読んだのもアラサーのときだったが、アラフォーにして寺山にかぶれる。読書人生どんな楽しい落とし穴が待っているかわからないもんだ。
一読して思ったのは、寺山修司はぽっかり空いた穴を埋めてくれるタイプの作家ではなく、よりその穴をえぐるような扇動を仕掛けてくる挑発的な作家だということ。左翼的に思われがちな彼だが、私が感じたのは左翼も右翼も「体制」「反体制」というなんらかの体制に縛られているのに対して、寺山は「体制(スタイル)には属していない」ということ。そんな言葉があるかわからないが無体制か?ある意味アナキズムに近い気もするが、寺山はカテゴライズされることは嫌うだろう。アングラの代名詞の劇作家なので、もっと読みにくい代物かと思っていたが抜群におもしろかった。無思想足り得ることは難しいが、現代の大人にこそ寺山の挑発にのって踊っていただきたい。踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃ損損。血が沸き立ちますよ。
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『書を捨てよ、町へ出よう』と『ファイト・クラブ』を観て——自分の五感で生きるということ
誰かの書いた本や社会のルールに従って生きることは、安全で迷いがないかもしれない。けれどそこには、「私」自身が世界を感じ取る余地がなくなってしまうのかもしれない。『書を捨てよ、町へ出よう』を読み、そのあとに映画『ファイト・クラブ』を観て、このふたつの作品がとても深いところで繋がっているように感じた。
『ファイト・クラブ』の主人公は、お洒落な家具や整えられた日常に囲まれながらも、ひどい不眠症に悩まされていた。それは「こう生きるべき」という型にハマりすぎて、心と身体の調和が崩れてしまった悲鳴だったのだと思う。彼が型破りな行動を通して飛び出していった場所は、まさに寺山修司の言う「町」だったのではないだろうか。
本や言葉は、誰かが感じたことをまとめた「二次情報」だ。どんなに知識を重ねても、自分の身体を通していないものは、本当の意味で「生きていく手応え」にはならない。
だからこそ、時には安全な部屋を出て、自分の五感と本能で世界に触れることが必要なのだと思う。
町に出て出くわすものは、きれいなことばかりではない。少し暗くて、歪んでいて、ネガティブな影を帯びていることもある。けれど、良いか悪いかのレッテルを貼る前に、そのありのままをただ五感で受け止めること。
ただそれだけでいいのだと思う。誰かの言葉ではなく、自分の身体で感じ取ったものだけを信じて生きること。そんな「人間らしく生きるための衝動」を、ふたつの作品を通して教えてもらった気がする。
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『書を捨てよ、町へ出よう』。
元来ひきこもりがちで出不精、本棚の前で背表紙を眺めているだけでも有意義な一日を過ごせる自信がある私にとっては、出会った瞬間から衝撃的な言葉だった。
それからは事あるごとに、おまじないか合言葉のように「書を捨てよ、町へ出よう」と心の中で唱えてきたけれど、実際に読むのはこれが初めて。
三島由紀夫の『不道徳教育講座』のような内容かと思っていたら、寺山修司のふざけたエッセイのようなもので、椅子から転げ落ちそうになった。
彼は21歳のときはじめての本を出版し、創作活動に勤しんでいたものの、病気になって三年間の入院生活を送っていたのだそう。
病床での友人との手紙のやり取りや、戦争への捉え方の変革を経て、彼はついにブッキッシュな生活から遠ざかろうと決心した。そして快方するやいなや、町へ飛び出し、生活を一変させたのである。
青年よ大尻を抱け、新宿のロレンス、競馬のメフィスト、馬の性生活白書……。
なんなのそれ、めっちゃ面白い。馬鹿馬鹿しくて、くだらなくて、出先で顔を顰めたり笑いを堪えたりしながら読んだ。しみじみと、読んで良かった。
寺山修司は、自分は「青春煽動業をやってきた」と言っていたそうだが、言い得て妙。ここにあるのは、煽られるような青春!
私には青春といえるようなものは無かったし、書を捨てるなんて到底出来るとも思えない。
町へ出るのは相変わらず億劫だけれど、でも町へ出ると、いつもそれなりにちゃんと楽しい。
わかってる。ふと夢から醒めたように、このまま家の中でじめじめと文字を追い続けるだけで死んでいくの?と思ったりもするんだよ。
三十路にもなって、羨望とも観念ともつかないような気持ちでそれを実感している。
だから私は、これから先の人生でも飽くことなく何度も「書を捨てよ、町へ出よう」とぶつぶつ唱え続けるのだと思う。いじましく、書をカバンにしのばせながら。外は春の匂いがして、咲き始めた桜はとてもきれいだ。
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原作のエッセイを読んで、いまいち分かりにくかったのだが、年配の友人に寺山修司ってどういう人?って尋ねたら、映画の方が面白いよと言われて読後に鑑賞もしてみた。
確かに面白かった。原作で読んだ言葉たちが繋がった。「書を捨てよ町へ出よう」とは「町そのものを書物のように読むべし」ことだそうだ。町とはそこに生きている人間、光の当たらない人々の言葉なんだろうなと思った。主人公とその家族、人力飛行機で祖国へ帰ろうとする在日朝鮮人、ゲイの文通欄の言葉、娼婦、尋ね人の言葉、犯される少女の叫び、姥捨山に送られる老婆、街中の落書き、看板、街頭インタビュー、悪態をつく若者、気持ちの吐き出せないさまざまなマイノリティの言葉が出てくる。それが町の言葉なんだろうなと。
今の時代でも彼らの言葉は街中に、そしてネットの中に溢れている。でも、ないものにされてしまっている。そして眉をひそめて批判する人々があまりにも多いことに、何も変わってないんだろうと思ってしまう。
Posted by ブクログ
《ノック(30時間市街劇)》という演劇の存在を知り、興味が湧いたので読んでみた。寺山修司という人が、天井桟敷や、映画や、詩などを通して何をやりたかったのか少しだけ分かった気がした。当時はあらゆる人間が、とにかく何か動かしてみること、行為を起こすこと、を求めていたのかも。私は今、あした何が起こるかわからない日々を生きている。何をすべきか。
『これは、決して進歩のすすめではなくて、むしろ移動のすすめに過ぎないのだが、座標軸を決めてかかった移動には、常に新鮮な視野がひらける。社会閉鎖と「あした何が起るかわかっている状況」への挑戦には、こうした休みなしの運動が必要な時代なのではないか、というのが私の考えである。』(本文より)
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