片山慶隆の作品一覧
「片山慶隆」の「大石正巳の奮闘」「小村寿太郎 近代日本外交の体現者」ほか、ユーザーレビューをお届けします!
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ビジネス・実用
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Posted by ブクログ
片山慶隆「小村寿太郎」(中公新書)
明治期に活躍した外交官である小村寿太郎の伝記、非常に読みやすい。
1855年に今の宮崎県日南市(飫肥藩)に生まれる。1870年に大学南校(東大の前身)に入学。卒業後1875年からハーバード大学に留学。卒業後ニューヨークの法律事務所で勤務後1880年に帰国。司法省で勤務したが平凡な仕事ぶりだった。1884年に外務省に移籍。翻訳局で外国文書を翻訳する仕事についた。翻訳局次長から局長になったが地味な仕事に変わりはなかった。
1892年に第二次伊藤内閣で陸奥宗光が外相になった時に小村が見出され、外交官試験制度の改革を主導した。その後1893年に参事官(すぐに公使)として清国に赴任。列強の公使達と付き合うとともに清国に関する英語文献を熟読、たちまち清国に関する第一人者となった。
1894年に日清戦争が始まると公使館を閉鎖して帰国。山県有朋の第一軍に従い仁川に上陸、安東県の民政長官となった。占領地の統治で山県や桂太郎から高い評価を受けた。帰国後、外務省政務局長となり講和交渉にも関わった。
1895年に韓国で閔妃暗殺事件が発生、三浦公使更迭の後任として朝鮮に赴任した。赴任中に露館播遷事件が発生、その後日露間で協定が結ばれた。朝鮮は国号を大韓帝国に変えた。
1896年に帰国して外務次官となった。
1898年に駐米公使としてワシントンに赴任。あまり懸念のない時期、歴史や言語の習得に没頭した。一方で外交官としては極めて非社交的でもあった。
1900年にロシアに赴任。まもなく義和団事件が発生した。日本やロシアが北京に出兵する中、日本とロシアの勢力範囲を決めようとの動きが両国から出てきたがまとまる事はなかった。
1900年に駐清公使に転任。北京での講和会議に参加し、1901年に北京議定書が成立した。同年、桂太郎内閣が成立し、小林は外相に任命された。ロシアとの対抗策としてイギリスとの同盟締結が模索されており、伊藤博文が主張するロシアとの協商を退け1902年に日英同盟が成立した。ロシアとの間でも上記同盟に抵触しない範囲での協商に向けて交渉が続けられたが1903年にロシアが清との条約に反して満州から撤兵しなかったことで緊迫化した。交渉が進まない中で日本では主戦論が高まり、1904年に日露戦争が始まった。日本へ開戦直後に韓国を占領したが、韓国の軍事基地を使用できるよう日韓議定書を結ばせた。その後、日本が財務顧問を派遣するなどの内容の第一次日韓協約が結ばれた。また小林は金子堅太郎や末松謙澄を欧米に派遣し日本の立場を広報させた。またイギリスとの間で日英同盟条約の改定を行い日本が韓国を監督する権利を有することを認めさせた。アメリカとの間でも桂タフト覚書で韓国が日本の勢力下にあることを認めさせた。
1905年、日本海海戦での勝利を機に日本はアメリカに講和斡旋を依頼し、ルーズベルト大統領はロシアの同意を取り付けポーツマスで講和会議が開催されることになった。日本は小林と高平を、ロシアはウィッテとローゼンを全権に任命した。
交渉では、日本が絶対に必要と考えていた韓国への保護権確保、両軍の満州からの撤退、遼東半島と満州南部の鉄道の日本への譲渡では合意できた。ただし賠償金の獲得はならず、樺太も南半を得るにとどまった。政府は、日本に継戦能力が無い以上やむを得ないと考えていたが、賠償金を期待していた民衆は不満で交番焼き討ち事件なども起きた。
小林もニューヨークで体調を崩し、静養後に帰国した。帰国後さっそく第二次日韓協約案を策定した。伊藤が締結した協約により韓国は外交権を奪われた。さらにポーツマス条約で得た満州の権益を清国に承認させる交渉を行い日清条約が締結された。これにより日本は関東州と南満州鉄道を得ることとなった。
1906年に桂内閣が総辞職し、小村も外相を退いた。枢密顧問官になったが、すぐに駐英大使に任じられた。欧州での知見に基づき西園寺内閣には多くの助言を行った。ただし英国内では小林がもっぱら読書に浸り社交を好まず人脈を広げることをしなかったこともあり不評だった。
1908年、西園寺内閣は総辞職し第二次桂内閣で再び外相となった。まず日米間で、通商の自由、太平洋島嶼の相互不侵攻、清国での機会均等についての協定を結んだ。
1909年、日韓併合について伊藤の同意をとりつけた後、ロシア・イギリスの合意を得て併合条約を結んだ。またアメリカが満州に介入しようとしたのを機に日露が急接近し、満州内の勢力圏を分割する第二次日露協約を1910年に締結した。さらに1911年には関税自主権を回復することができた。
1911年第二次桂内閣が総辞職。小林も辞任し、葉山の自宅で静養していたが体調が悪化し年末に死去した。
*小林は修羅場でのハードネゴシエイターではあったが、友好国の国民との親善を深めることは苦手だった。
*体は弱く、しょっちゅう体調を崩していた。
Posted by ブクログ
【大きな、それは大きな鼠でした】外務次官、そして外務大臣を務め、さらには主要国の公使や大使を歴任するなど、近代日本の外交を考えるにあたって避けては通れない人物、小村寿太郎。近代日本の悲願であった不平等条約改正や日英同盟等の小村が携わった外交案件をたどることにより、その時代の日本の外交の輪郭をも浮かび上がらせる力作です。著者は、関西外国語大学の専任講師等を務められた片山慶隆。
睦奥宗光があまりに大きな存在なので、どうしてもその影に隠れてしまいがちなのですが、改めて本書で小村寿太郎の足跡を考えると、小村が果たした役割というのもとんでもなく大きいものであることに気づかされます。そしてその役割の大きさの裏にある不遇の時代がしっかりと描かれることにより、本書の中での小村に非常に立体感が出ているように思います。
国際社会をとことんパワー・ゲームとしてとらえることから生ずる小村の外交スタイルは決して人気が出るものではないと思いますが、現下の外交政策を考える上で、否が応でも念頭に置かなければならないことなのかも。果たして小村が「新時代」の外交に適応できたかは当然知る術もありませんが、時代に合致したスタイルを貫き通した人物として小村をとらえることができるのではないでしょうか。
〜超人的な英雄ではなく、多くの苦しみや悩みを経験した小村の姿が伝われば幸いである。〜
伝記でありながらさらっと読めるところがイイネ☆5つ
Posted by ブクログ
本書は、日露戦争期におけるメディア-特に、新聞報道を考察したものである。この時期の新聞報道と言えば、大多数の新聞は日英同盟を背景に対ロシア強硬論(開戦論)を煽る一方で、ごく少数の「非戦論」者たちが開戦に反対した・・・というイメージが一般的に持たれている。筆者は、そうしたイメージは「神話」に過ぎないとして、複数の新聞を比較検討することで、当時の新聞報道の実態に迫っている。
本書が明らかにしたのは「当時の新聞の外国認識は、きわめて多様性に満ちており、それは一様でも、また政府の言いなりでもなかった」(p.201)という事実である。例えば、国を挙げて歓迎されたと言われている日英同盟でさえ、実は反対論を唱えていた新聞があった-また、その影響力は決して低くなかった-ことを指摘している。
確かに、これらの新聞も最終的には同盟を支持しており、“結果”だけを見れば「神話」を覆すほどの目新しさがあるわけではない。しかし、そうした「賛-否」という二項対立の評価軸を取っ払い、同じ「賛成派」でも、その結論に至るまでの関心や根拠は一様ではなかったという“プロセス”に注目した所に、本書の面白さがある。また、そうした“プロセス”に注目することで、その後の新聞の動向に影響を与える“伏線”を浮かび上がらせることができる。例えば、新聞各紙の中には、ロシア「国家」には強硬論を唱えながらも、ロシア「国民」(民衆)には同情を示す論調が少なくなかった。本書は、ここに「戦後の日露「和解」につながるような議論が準備されていた」(p.189)として、一九〇七年の日露協約成立の“伏線”があったと指摘している。これは、単に「開戦」か「非戦」かという二項対立の評価軸からでは浮かび上がらない考察であろう。
ともすれば、我々は「賛-否」という評価軸でメディアを分析しがちである。しかし、同じ「賛成派(反対派)」でも、その論理が全く同じであるということはあり得ない。むしろ、そうした“細部”にこそ、メディアの独創性が色濃く反映されているのだと言えよう。
Posted by ブクログ
本著から小村寿太郎の通史を知ることができる。
小村寿太郎は日記、手記等を残さなかったからか(当時は珍しいのでは)、彼に関する書物は意外と少ない。
歴史小説を含め。
その意味では貴重な本かもしれない。
小村寿太郎は藩閥でもなく、実力で外務大臣に上り詰めた。
また、彼を引き上げた陸奥宗光も非藩閥の実力者。
明治という時代は少数精鋭の時代ともいえるが(多くの優秀な人材が幕末で亡くなったという意味で)、彼のような実力者が登用されるという風土があったことが、時代のひとつの特徴ともいえるかもしれない。
ちなみに、”特徴”ということは、現在に学ぶべきこと、という意味も込めて。
(ただ、日清戦争時に、山県、桂から目をかけられ、特に桂内閣で外相に抜擢されることを考えると、長州閥、陸軍閥の意向は自ずと受けていたのかもしれない)
歴史を振り返ると、彼の指向が、韓国併合等帝国主義的で好戦的というネガティブな評価もあるのだろうが、米国、中国、イギリス、ロシアの公使を歴任したことを考えると、当時としてはグローバルな視点で日本の立ち位置を客観的に捉えることができた数少ない人物であったことには間違いない。その観点で、当時の判断としては、理に適う判断だったのだろう。(頭から批判できないし、歴史とは、人を理解して時代を知るのではなく、時代を理解して人を知るべき)
当時の日本の外交はまさに弱肉強食の帝国主義の時代をどう生きるか。端的にいえば、英仏独ロアメリカの大国と、どのように自国の帝国主義化(韓国の植民地化、中国での利権確保)を渡り合うか、ということ。
その関係は時と共に変わり、柔軟な姿勢と一貫性が求められる。
この観点では彼の外交手腕は成功したのだろうし、この外交で最も重要なことは、もしかすると外相や外交官の個人レベルでの手腕かもしれない。(国力に委ねるのであれば、日本はずっと劣勢だった筈)
それは対等に議論できる能力、胆力、知力で、小村にはそれが理想に近い形で備わっていたのだろう。彼は滞在国でその国のことを徹底的に学んだようだ。特に語学力があった故に、様々な文書に接することができた。交渉において、相手のことを相手以上に知ることが如何に重要なことか。
今の日本は相応の国力があるが、それに甘えて、個々の力が無くなっている感があり、その点で小村等を通じて明治人に学ぶことはあると思う。
彼は56歳で亡くなる。陸奥もそうだが、当時は、時代に身を投げうって、国家のために身を削りながら生きてきたのであろう。
それもまた、明治人の生き方でもある。
以下引用
・(少年時代より)優れていた記憶力は、のちに外務省に入ってからも仕事で活かされ、彼がメモを持っているのを見たことがないという逸話が残っているほど有名になる。
・陸奥は、外交官および領事館試験の新しい制度を作成するように指示した。翻訳局長の小村は、栗野慎一郎政務局長とともに、立案担当の原敬通商局長を支えて、試験改革を進めていく。
結果、20歳以上の念連であれば、出身学校なのの経歴や財産を問わず、実力のみで判断されることが定められた画期的なものであった。(→外務省を非藩閥化)
この試験制度が、原や陸奥、栗野、小村といった非藩閥出身者の手で成し遂げられたのは、偶然とは言えないだろう。
・日清戦争後の下関条約締結において、小村の意見書で最も力点が置かれていたのは、清国における日本の通商特権の拡大である。(開港場の開設、鉄道の敷設、汽船航路の拡張)
・小村は、実のところ憲法や議会はどうでもいいと考えていた。国益の追求こそが重要だったのである。彼は、アメリカ留学中から民主主義に否定的だったが、特に議会や政党を嫌悪していた。
・小村と陸奥には微妙な距離があった。これは、陸奥派の三羽ガラスと言われた、陸奥外相期の原敬通商局長、林薫外務次官、加藤高明政務局長・駐英公使と比べると明らかである。
・小村の強硬な反対によって、桂ハリマン予備協定覚書は潰れた。このとき南満州鉄道の日米共同経営が実現していれば、満州を巡る日米対立や1940年代の日米戦争は起きなかったという説もあり、小村の評価が分かれるところである。
・小村は、特定のイデオロギー(政治信条)に左右されることがなかった。彼は、純粋にパワーポリティカル(権力政治的)な観点のみで、国際政治を観察することができたのである。だから、日露戦争時の外相でありながら、アメリカに対抗するために、第二次日露協約でロシアと関係を強化することを厭わなかった。
・小村の外交は、まさに帝国主義外交そのものだった。だが、小村の没後、そのやり方だけでは通用しなくなっていく。第一次世界大戦中から、アメリカが、帝国主義的な勢力圏外を否定する「新外交」を打ち出しつつあったからである。