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佐藤 健太郎
一九七〇年、兵庫県生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。医薬品メーカーの研究職、東京大学大学院理学系研究科広報担当特任助教等を経て、現在はサイエンスライター。二〇一〇年、『医薬品クライシス』(新潮新書)で科学ジャーナリスト賞。二〇一一年、化学コミュニケーション賞。著書に『炭素文明論』(新潮選書)『医薬品クライシス』(新潮新書)『「ゼロリスク社会」の罠』(光文社)ほか多数。四七都道府県三二万kmを走破した国道マニアとしてしても知られ、『ふしぎな国道』(講談社現代新書)の著作もある。
ペニシリン・・・「20世紀最大の発見」とも言われる「ペニシリン」。 1928年、イギリスの細菌学者フレミング博士によって青カビから発見された、世界で初めての抗生物質です。 12年後の1940年にはフローリーとチェインという二人の研究者が大量生産に成功し、以降1世紀の間に、少なくとも数百万人の命を救ってきました。
アスピリン・・・非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDS)の1つとして知られているアスピリン。 古くから多くの方に使われている医薬品であり、主に痛みや発熱を和らげる効果があります。 アスピリンは「シクロオキシゲナーゼ酵素」を不活性化させる事により、体内で炎症を引き起こす「プロスタグランジン」という物質の発生を抑制します。
世界史を変えた薬 (講談社現代新書)
by 佐藤健太郎
身の回りで 40 代以下の若い人が亡くなることを、今や我々はほとんど経験しない。 だが、ほんの100年前には、日本人の平均寿命は現在の約半分に過ぎなかった(1921~1925年の平均寿命は、男性 42・06歳、女性が 43・20歳)。新生児の6~7人に1人は、3歳までに亡くなるという時代であった。
成人後も、結核などの病気により、若くして世を去る人は少なくなかった。たとえば樋口一葉は 24 歳、石川啄木は 26 歳、正岡子規は 34 歳で、それぞれ病のために世を去っている。明治や大正に生きた人々にとって、死は現代の我々が感じているよりずっと身近であり、いつ自らの身に降りかかってもおかしくないものであった。
さらに縄文時代まで遡ると、平均寿命はせいぜい 15 歳程度に過ぎなかったと推定されている。現代の感覚ならば、ちょっと病院に行けばすぐ治る程度の怪我や病気が、この時代には十分致命傷になり得た。
たとえば古代メソポタミアでは、紀元前4000年から3000年ごろの粘土板に、550種もの医薬が記載されている。驚いたことにその主力は、動物の糞、腐った肉や脂、焼いた羊毛、豚の耳垢などの汚物であった。 この時代、病気は悪魔が体内に侵入したために起こるものと考えられていた。これを追い出すためには、悪魔が嫌う悪臭を放つ汚物を使えばよい、という発想であったらしい。古代エジプトにも「汚物薬」は存在し、動物の血や糞尿、パンや木材に生えたカビなど、胸の悪くなるようなものが投与されたと記録にある。
モルヒネは、ケシの未熟な果実から得られる。ケシにも様々な品種があり、園芸品種としてポピュラーなヒナゲシなどは、モルヒネを作らない。モルヒネを生産するのは、ケシ属の中でもソムニフェルム種やセティゲルム種と呼ばれるもので、日本では無許可での栽培が禁じられている。 これらの品種は、つぼみの時には茎がくにゃりと曲がって地面を向いているが、やがてまっすぐに天を指し、白・紅・紫などの大きく美しい花を咲かせる。花が散った数日後には、鶏卵大の果実(いわゆる「ケシ坊主」) が実り、これを未熟なうちに傷つけると、白い乳液が 滴り落ちてくる。これを集めて乾燥させたものが、いわゆるアヘンだ。
またメソポタミア地方で見つかった粘土板には、 楔形文字によってアヘンの採取方法が記されており、ケシは「喜びの植物」と書かれているという。となれば、人類は文明の始まる以前から、アヘンの作用を知っていた可能性が高い。 紀元前1500年ごろのパピルスには、ケシの医薬としての利用が記されているし、ケシ坊主の絵が描かれたアヘン吸引用パイプ(紀元前1200年ごろ) もキプロスで出土している。3000年以上も前、すでに多くの文明にアヘンが広がっていたことがわかる。
古代ギリシャ文学の最高峰とされる、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』にも、悲しみを忘れさせる薬が登場する。「これを混ぜた酒を飲んだ者は、目の前で家族が殺されても、一日の間は涙を落とすことがない」とあり、これはアヘンの陶酔作用を描写したものとみられている。古代の人々も、あるいはこうして薬の力によって、親しい人が亡くなった悲しみを紛らわせていたのだろうか。
ギリシャの衰亡後にアヘンの使用はいったん廃れるが、ローマ時代に「再発見」され、多くの医師が鎮痛剤あるいは睡眠薬として、これを利用したようだ。ローマの五賢帝の一人で、『自省録』を著して「哲人皇帝」と呼ばれたマルクス・アウレリウス・アントニヌスも、どうやらアヘンをたしなんでいた形跡があるという。
パラケルススはアヘンをベースとした丸薬を開発し、これを万病に効く万能薬として推奨した。アヘンは鎮痛・鎮咳 効果を持つから、万能とはいえないまでも、多くの病気の症状を和らげることはできただろう。実のところ、この時代に使われた医薬のうち、現代の目で見て真に有効といえるものは、アヘン以外にほとんど見当たらないといっていい。
17 世紀後半には、イギリスでアヘンチンキが開発される。これは赤ワインなどの酒に、適量のアヘンを溶かしたものであった。やがてアヘンチンキは、風邪やコレラといった感染症、生理不順、原因不明の痛みに至るまで、幅広く処方されることとなる。
アヘンチンキの開発者であるトーマス・シデナムは、「全能の神が苦しみを和らげるために人類に与え給うた治療薬のうち、アヘンほど普遍的で効能のあるものはない」と語っている。この言葉は真実ではあるが、事実の一方しか見ていないものでもあった。アヘンの恐るべき 耽溺 性、依存性が、この時代から徐々に知られ始める。 それでも多くの医学者はアヘンの使用を推奨し、やがて乳児から老人まで、何かといえばアヘン製剤を服用するようになっていった。こうして入手が容易になったこともあり、 18 世紀から 19 世紀にかけて、アヘン中毒患者は増えていく一方となった。
さて、ここでいったん生化学の話に立ち寄ってみよう。アヘンの主成分であるモルヒネは、なぜ人に多幸感を与え、耽溺性を持つのだろうか? その解明が始まったのは、1970年代のことであった。アメリカとスウェーデンの3つの研究グループが、人間の脳内にモルヒネがとりつく場所があることを、ほぼ同時に発見したのだ。このように、ある特定の分子が結合し、情報を受け取る部位を、「受容体」と称する。
ケシに関するはっきりした記録が現れるのはようやく唐の時代(618~907年) になってからだが、花の観賞用に育てられていたに過ぎない。明代の1593年に著された『本草綱目』は、漢方薬の集大成ともいえる一冊だが、ここでもアヘンに関する記述はあやふやで伝聞的なものにとどまっている。西洋ではあれほど早くから広く利用されていたアヘンが、中国では長くほとんど知られていなかったのは、ちょっと不思議だ。そしてアヘンの薬効と毒性を中国人が知らなかったことが、この国の歴史に深い傷を刻み込むこととなる。
こうして清は、政府高官から庶民に至るまで、ひとたまりもなくアヘンの 虜 になっていった。何度か輸入禁止令も出されたが、アヘンは一度買ってしまえば必ず二度三度と買わざるを得なくなる恐るべき商品であり、ほとんど効果はなかった。あれほどイギリス側の 入超 であった貿易収支も完全に逆転し、清国内から銀が流出する一方となっていった。
歴史上の人物でいうなら、フランス王ルイ 16 世がその例に挙げられる。彼は包茎のため性的不能であったといわれ、 15 歳でマリー゠アントワネットと結婚したものの、子を 生すことができなかった。手術を行なおうとしたが、用いられる刃物を見てルイは恐れをなし、治療は先延ばしとなった。ようやく結婚8年目、 22 歳の時に手術が行なわれたが、この間アントワネットは夫に相手にされない淋しさから、宮廷での贅沢な舞踏会などにのめり込んでいった。ここで起こした数々のスキャンダルが、やがてフランス革命の火種となっていく。無痛で手術を行なうすべがあれば、歴史の流れも多少は変わっていたのかもしれない。
ウェルズは、この結果を華々しく発表しようと、公開実験を行なうことを選んだ。しかし、結果は無残な失敗であった。ウェルズは緊張していたのか、患者に麻酔が十分回る前に、抜歯を行なってしまったのだった。患者は痛みに絶叫し、ウェルズは 轟々たる非難を浴びて部屋を追い出された。これがきっかけで彼は、歯科医廃業にまで追い込まれることとなる。1848年にウェルズは亡くなるが、これは自殺の可能性が高い。
今後も、より優れた麻酔薬の研究は、止むことなく続くだろう。問題は、一世紀半にもわたってこれほどまでに広く用いられているにもかかわらず、麻酔の原理が全くわかっていない点だ。メカニズムがわからない以上、その探索は全く手探りにならざるを得ない。
細胞膜に溶け込んでその流動性を変化させるとか、GABAという神経伝達物質の受容体に作用するなどの説は立てられているが、これらには反論も多く、いまだ決定的な説はないのが現状だ。これだけ数多く行なわれている麻酔の原理が、全く不明というのは実に気持ち悪い話ではあるが、麻酔という一見身近な現象は、多くの研究者の挑戦を今もはね返し続けている。
イングランド王ヘンリー8世の唯一の王子(後のエドワード6世) を産んだ王妃ジェーン・シーモア、フランスのルイ7世王妃コンスタンス・ド・カスティーユ、一条天皇の皇后藤原定子、ムガル帝国皇妃ムムターズ・マハル(有名なタージ・マハルは、彼女の死を悼んで建てられた) など、出産時に落命した女性は数多い。当時最もよい条件で出産を行なえたはずの、王家の女性たちですらこの有り様だから、一般庶民の状況は推して知るべしであった。
梅毒は、文化の面にも大きな影響を及ぼした。たとえば、ヨーロッパにおけるカツラの着用は、梅毒で髪の毛が抜け落ちるのを隠すために始まったといわれる。また梅毒の蔓延は、ルネサンス時代の野放図な性交渉を嫌悪する空気を生み、ピューリタニズムの勃興を呼んだ。これはやがてイギリスに革命をもたらし、アメリカの建国につながっていくのだから、梅毒が世界史の流れに与えた影響は甚大であった。
梅毒は徐々に北上して、1510年には首都北京へ達した。こうなると日本だけが流行に無縁でいられるはずもなく、1512年には関西に梅毒が上陸、翌年には関東にも広がり、身分の上下を問わず激烈な流行を見た。交通手段が全く未発達であった時代背景を思えば、その拡大速度は驚異以外の何物でもない。種子島に鉄砲が持ち込まれたのが1543年、キリスト教の伝来が1549年であるから、文明の利器も神の教えも、梅毒トレポネーマには 30 年以上の後れを取ったわけだ。
家康は極端なほどに健康に気を配り、当時としては異例の 75 年という長命を保った。彼は江戸幕府の制度を確立し、豊臣家の滅亡を見届けるなど、晩年まで精力的に働き、長い人生を余すところなく使い切って亡くなった。命知らずの英雄豪傑が闊歩した戦国の世に幕を引いたのが、この健康マニアの慎重居士であったというのが、歴史の面白いところであろうか。
ここでドイツの医学者パウル・エールリッヒが登場する。彼は学生時代から化学にも興味を持ち、特に染料に魅せられていた。ベルリン大学の研究所で、エールリッヒは生物の組織を染める実験に朝から晩まで熱中し、その実験台は極彩色に彩られていた。ある日彼は、いつものように結核患者の病理組織を染色する実験を行なっていた。あまりに多数の標本を作り過ぎたために置き場がなくなり、彼はやむなく標本のひとつをストーブの上に置いて帰宅した。 翌朝エールリッヒが出勤してきたところ、なんと大学の職員が、標本を載せたままストーブに火を入れていた。あわてて標本を取り上げ、異常がないか顕微鏡で観察したところ、なんと結核菌のみが鮮やかに染色されていた。加熱によって菌の表面に染料が結合し、格段にその姿が見やすくなっていたのだ。これは結核の診断を容易にする大発見で、師のロベルト・コッホもこれを激賞したほどであった。
今からほぼ一世紀100年前の1914年6月 28 日、サラエボの街角を走る一台の自動車が、曲がるべき角をひとつ間違えたことが、全ての発端であった。その場に居合わせた 19 歳のセルビア人学生ガヴリロ・プリンツィプは、偶然に現れた車上の二人が誰であるかを悟ると、駆け寄って素早く彼らに一発ずつの銃弾を浴びせた。それぞれ首と腹を撃ち抜かれた二人は、数十分後に息を引き取る。犠牲となったのは、オーストリア゠ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と、その妻ゾフィーであった。
ここから事態は、予想もつかない速度で拡大する。皇位継承者を失ったオーストリアは、報復としてセルビアに宣戦布告。セルビアの後ろ盾であったロシア帝国が支援を約束すると、ドイツ、フランス、イギリスが玉突き式に参戦を発表する。この後日本やアメリカもここに参戦し、戦争は世界を覆う規模へと拡大していった。サラエボでの車のちょっとした迷い道は、人類に未曾有の惨禍をもたらすこととなったのだ。
彼らはいかにもドイツ人らしく、精力的に働いた。実験動物の臓器を薄くスライスし、染色して感染部位を確かめる「病理組織検査」に関しては、決して他人任せにすることなくドーマク自身が実験に当たった。しかしプロジェクト開始から4年を経ても、光は見えてこなかった。
「世界史を変えた薬」を紹介してきた本書は、ついに真打ちともいうべきペニシリンにたどり着いた。この薬を手にする前と後で、人類のあり方は全く変わってしまったといえる。 20 世紀前半──まだそう遠い昔ではない──には、一度感染すればただ回復を祈るしかなかった数々の病気が、ペニシリンの出現後はやすやすと治るようになった。「 20 世紀最大の発明」という評価は、全く大げさではない。 これまで、いくつかの薬が歴史上の有名人を救ってきたエピソードを述べてきた。しかしペニシリンが救った人命の数は、少なく見ても数百万という単位になる。おそらくこれを読んでいる読者の中にも、ペニシリンがなければすでにこの世にない人がいることだろう。
明治期から戦前にかけて、日本人の平均寿命は 40 歳台で推移している。乳幼児死亡率は高かったし、 20 ~ 30 代の若さで亡くなることも、なんら珍しいことではなかった。しかし1950年には日本人の平均寿命は 60 歳前後となり、現在では 80 歳を超えた。これには、栄養状態・衛生環境の改善などの要因もあるが、ペニシリンを始めとする抗生物質の普及も大きな役割を果たしている。
この「奇跡の薬」は、現在では手近の薬局で数百円も払えば手に入る。 80 年前の人々と現代の我々には、そう大きな違いはない。同じような服を着て同じようなものを食べ、同じように泣き、笑い、話す。ただ、感染症ということに関しては、両者は全くの別世界なのだ。
これだけ世界に大きな変革をもたらしたペニシリンであればこそ、その誕生は多くの伝説、神話に包まれている。まずその主人公となったのは、ロンドンのセントメアリー病院に勤めていた細菌学者、アレクサンダー・フレミングであった。
1922年にフレミングは、この都合の良い物質を、意外なところから見つけ出す。それは、彼自身の鼻水であった。濁って見えるほどに細菌が繁殖した培養液に、自分の薄めた鼻水を一滴垂らすと、細菌が死滅して数分のうちに透明になることを、彼は発見した。 どうやって彼は、こんな妙なことを発見したのだろうか? 彼がたまたまくしゃみをしたところ、細菌を培養していたシャーレに鼻水が飛んだ。翌日調べてみると、鼻水の周囲だけ細菌が増殖しなくなっていた──という「神話」が伝わっている。しかしこの発見が本当にこうした劇的なものであったのか確証はなく、後世の伝記作家の創作かもしれない。
ペニシリンの発見は、フレミングの優れた観察眼あってのことだっただろうが、それにしても一人の研究者が二度、偶然に抗菌物質発見に恵まれるというのは、ちょっと信じがたいくらいの低確率な出来事だ。
もうひとつ幸運であったのは、フレミングはブドウ球菌の培養を終えた後、7月末から家族旅行に出てしまい、長く研究室を空けていたことだ。この期間がなければ、アオカビの胞子がシャーレに飛び込み、十分に繁殖することはなかったかもしれない。 またフレミングが発見したカビは、各種のアオカビの中でも珍しい種類であり、しかもずば抜けたペニシリン生産能力を持っていた。この珍奇なカビが、抗菌現象の実際とその価値を熟知した、ほとんど唯一の研究者──実際、フレミングはこのシャーレを研究所のメンバーに片端から見せて回ったが、興味を示したものは誰もいなかった──のもとに飛び込んだのだ。
陸上競技の分野で、「1マイル4分の壁」と呼ばれる有名な事例がある。1マイル走は欧米で大変人気のある競技だが、長く4分 10 秒台のタイムが世界記録として君臨していた。4分を切ることは、エベレスト登頂にも匹敵する至難の業とされ、人間では不可能と断言する専門家もいたほどだ。
ところが1954年、イギリスのロジャー・バニスターが、様々な科学的トレーニングを積み重ねた末、3分 59 秒4という驚異的な世界記録を打ち立てた。絶対に乗り越えられないと思われていた4分の壁を破る快挙に世界中が沸いたが、驚くべきことはここから起きた。バニスターの記録から1年の間に、 23 人ものランナーが4分の壁を打ち破ったのだ。ランナーたちを縛っていたのは、「4分を切るのは不可能だ」という思い込みであり、それが取り払われた途端に、前途は一気に開けたのだ。現在の1マイル走の世界記録は、3分 43 秒 13 まで伸びている。「1マイル4分」というタイムは、人体の限界でも何でもなかったのだ。
ペニシリンは、世界に大きな影響を及ぼした薬であるだけに、様々なエピソードがある。いくつかを拾い上げてご紹介しよう。 まず、世界で初めてペニシリンに命を救われた人物は、徳川家康ではなかったかという説がある。家康は、小牧・長久手の合戦の最中、おそらくは傷口から黄色ブドウ球菌のような菌が入り、背中に大きな腫れ物ができてしまった。日に日に悪化していく容態を見て、家臣の一人が笠森稲荷に向かい、「腫れ物に効く」といわれる土団子を持ち帰った。アオカビの生えたその団子を背中に塗りつけたところ、おびただしい膿が噴き出て腫れ物は治癒したという。これは、アオカビに含まれたペニシリンのおかげであった、というものだ。
あらゆる痛みを消し去りたいという思いは、現代の我々とても同じことだ。歴史上最も売れた薬が鎮痛剤であるのも、驚くには当たらない。その薬の名は、今回の主役アスピリンだ。頭痛薬などに配合されていることが多いから、誰しも何度かお世話になったことがあるだろう。 製造元であるバイエル社のウェブサイトによれば、アスピリンの生産量は年間5万トンにも及び、500ミリグラム錠換算で1000億錠分に当たる。これを一直線に並べれば100万キロメートル以上に及び、これは地球から月まで1往復半近くの距離に相当する。
史上最大の医薬であるアスピリンを生んだのは、ヤナギの木であった。ヤナギの樹皮や葉には鎮痛効果があることが、世界各地で経験的に知られていた。今から2000年近く前、医師で薬理学者であったギリシャのディオスコリデスは、「ヤナギの葉や樹皮を細かく砕き、ワインやコショウと共に服用すると 疝痛 に効く」と記している。また爪楊枝は、虫歯の痛みを止めるために、ヤナギの小枝を嚙んだことに始まるという説もある。
1819年になり、ヤナギから有効成分であるサリシンが分離される。やがて、これを分解・酸化することで、サリチル酸と呼ばれる物質が作り出され、こちらにも鎮痛作用があることが判明した。実のところ、ヤナギに含まれるサリシンは、体内でサリチル酸に変化して効能を発揮していたのだ。サリチル酸の仲間は天然にも見出され、湿布などに用いられるサリチル酸メチル(商品名サロメチール) などもそのひとつだ。
ただしサリチル酸には、医薬として致命的な弱点があった。飲むと確かに患部の痛みを抑え、炎症を鎮めてくれるが、代わりに激しい胃痛を引き起こすのだ。バイエル社は、当時 29 歳であった研究員フェリックス・ホフマンに、この副作用を軽減する研究を命じる。実はこの時、彼には切実な動機があった。ホフマンの父もリウマチにかかってサリチル酸を服用しており、強い副作用に悩んでいたのだ。
ヨーロッパでも、アスピリンは人気を博した。たとえば作家フランツ・カフカは、「耐え難い苦痛を癒してくれるのはアスピリンだけしかない」と語り、創作の友とした。発売から数年後には、バイエル社は「アスピリンは極めて人気が高く、これに勝る薬はありえない」と高らかに宣言する。
現代は、「アスピリン・エイジ」と称された1920~30年代に比べても、さらにストレスの強くかかっている時代だろう。人々がアスピリンのお世話になる機会は、まだまだ減りそうにない。一方で、現代の病といえる各種成人病に対するデータを見ていると、アスピリンの活躍の場は今後もなお増えそうだと思える。登場から一世紀以上を経た現代は、あるいは後世の人々から「第二のアスピリン・エイジ」と呼ばれることになるのかもしれない。
ここまで、歴史の流れを大きく変えた医薬品を紹介してきた。このうちいくつかの発見者は、科学界最高の栄誉たるノーベル生理学・医学賞に輝いている。すでに述べた通り、サルファ剤を開発したドーマクは1939年に、ペニシリンを発見・実用化したフレミング、フローリー、チェインらは1945年に、それぞれ受賞の栄誉に浴している。また1952年には、結核治療薬ストレプトマイシンを発見したワクスマンが、1957年には抗ヒスタミン薬を開発したボベットが、それぞれ受賞を果たした。
症例が蓄積されていくにつれ、この奇病の実態が見えてきた。患者たちは、感染症から体を守るはずの免疫系を破壊され、通常なら感染しても発病することのないカリニ肺炎やカポジ肉腫といった病気にかかり、亡くなってゆく。患者は同性愛者の他、麻薬常習者、血友病患者などが多かった。このことが、エイズ患者に対する根深い偏見を引き起こすこととなる。
有名人にも、俳優のロック・ハドソンや画家のキース・ヘリングなど、エイズによる犠牲者が現れていたが、やはり衝撃的だったのは1991年 11 月に感染を発表した二人のスーパースターだろう。バスケットボール選手のマジック・ジョンソンがHIV感染を告白して現役を引退し、直後に「ロック史上最高のボーカリスト」と讃えられた、「クイーン」のフレディ・マーキュリーが死去したのだ。
世界を覆うエイズの影から、ひとり日本だけが 埒外 にいられるはずもなかった。国内初の感染例が発生したのは、1986年のことだ。長野県松本市に滞在していたフィリピン人女性のHIV感染が発覚、しかもその女性が売春行為をしていたことが判明し、騒動となった。このため、同様に日本で働いていたフィリピン人女性が、スーパーマーケットへの入店拒否などの差別行為を受けている。ただ松本市在住というだけの一般市民が、他県のホテルや旅館に宿泊を拒絶される騒ぎさえ起きた。
この恐るべき疾患に立ち向かうには、まず敵の本体を知らねばならない。当初は同性愛者特有の病気か、精子による自己免疫疾患ではないかといった説もあった。しかし、外科手術の際の輸血や、男女間の性交による感染なども発生したことから、病原体はウイルスであることがほぼ確定する。
エイズの病原ウイルスの発見レースは、科学史上稀に見る死闘、というより泥仕合となった。主人公となったのは、アメリカの国立がん研究所で研究室を率いるロバート・ギャロ、そしてもう一人はフランスの名門パスツール研究所に所属するリュック・モンタニエであった。 この当時、ギャロはすでに著名なウイルス学者だった。毎年驚異的なペースで論文を発表し、その精力的な働きぶりと、膨大な知識や洞察力に舌を巻かぬ者はなかった。しかし一方で、部下に強く忠誠を要求する人物でもあり、各方面での強引なやり方から、敵も多かったといわれる。
特筆すべきこととして、メルク社はすでに動物薬で十分に利益を上げていたため、オンコセルカ症に対するイベルメクチンは無償で供与された。これにより、これまで 10 億人ほどの人々がイベルメクチンを服用することができ、失明を免れた人の数は数十万に上るとみられる。世界を変えた薬という表現は、全く大げさではない。
大村博士は研究者としても大成功を収めたが、人生の大成功者でもある。メルク社が北里研究所に支払ったイベルメクチンのロイヤリティは250億円にも上り、新たな研究所や病院、看護学校の建設資金となった。また大村博士は芸術にも造詣が深く、美術館を建設し、自らのコレクションとともに故郷に寄贈している。近ごろ盛んにいわれる産学連携の走りであり、最高の成功例といえよう。
本書では、主に感染症治療薬と鎮痛剤について取り上げてきた。しかし、人類の敵となる疾患は、当然感染症のみではない。現代では、各種の生活習慣病がクローズアップされているし、いまや日本人の死因第1位となったがんとの闘いは、まだまだ先が長い。アルツハイマー型認知症など加齢に伴う疾患は、現代社会で最も強く治療薬が求められる領域だが、いまだ完治への道筋は見えてきていない。リウマチやクローン病といった、いわゆる「自己免疫疾患」に分類される病気などは、既存の医薬ではいまだ治療が難しい。